二十一話:俺という存在
懺悔室の中は狭かった。
木の仕切り一枚で区切られた向こう側は見えない。
けれど、さっきの聖導師が来る気配は、すぐに分かった。衣擦れと椅子に座り込む音しか聞こえないが、落ち着いていることが雰囲気からして分かる。
「話しなさい」
優しくも厳しくもない。ただ、ここはそういう場所だと知っている声。
俺は深く息を吐いた。
――さて。どうせ誰にも分かりはしない話だ。溜まりに溜まった鬱憤を、少しばかり吐き出してやろうじゃないか。
「今から話すのは、頭の狂った人間の妄想だと思って聞いてくれ。俺は、ただ少しすっきりしたいだけだ」
そこからは、思っていたより言葉が出た。日本という国で、男として生きていたことについてだ。
別に胸を張れる人生じゃない。誰かに誇れる何かを積み上げたわけでもない。ただ、働いて、飲んで、くたびれて、次の日もまた同じように起きる。そんな、取り立てて立派でもない日々だった。
だけど、それなりに満足していた。
現代日本は豊かで、身に危険が及ぶことはほぼない。よほど踏み外さない限り、普通の人間が普通に歳を取っていける場所だ。
まあ、俺はそこまで真面目でも立派でもなかったがな。でも――それが、目を開けたら全部なくなっていた。
気づけばこの世界にいて、しかも身体は少女ときたもんだ。
スラムの中で、腹を空かせたガキが転がっていて、油断したらこっちが食われる側になっちまう。
綺麗でいたいだの、善人でいたいだの、そんな贅沢はすぐに捨てた。捨てなきゃ死ぬからな。
相手を値踏みして、使えるものは使って、先に踏み抜く。そうやって生き延びてきた。
できるなら、元の自分を取り戻したい。男だった頃の、自分が自分だと疑わずに済んだ場所へ戻りたい。
けど、それがもう無理だってことも分かってる。
今の身体は、この先もっと変わる。
胸の大きさも、腰付きも、顔だって、男だった頃の俺とは違うものになっていく。
そうなった時、俺はまだ俺でいられるのか? 男だった自分はどこまで残るのか? 時々、そこが分からなくなる。
――向こう側にいるベアトリスは黙って聞いていた。途中で否定もしないし、慰めもしない。ただ、こっちが吐く言葉だけを受け容れている。
「元のあなたに戻りたいのですか?」
しばらくして、そんな問いが来た。
「戻りたいさ。戻れるならな」
俺は椅子に背を預けて、天井を見ながら答えを返す。
「でも、無理だってことも分かってる。だったらせめて、この世界で生きるための土台くらいは欲しい」
「土台、ですか」
「教養だよ。神様を信じたくて来たわけじゃない。文字でも歴史でも、教会が人の上にどう乗ってるのかでも、何でもいい。そういうのを知りたい……ははっ」
――自分で言って、少し笑ってしまった。
「何かおかしなことでも?」
「ああ、いや。神を信じてもいない人間が、教会で教えを学びたいなんて言い出してるのが、可笑しくなっただけさ」
「そうですか……。しかし、このスラムでなぜそこまで? 神を信じないあなたが?」
「知らないと勝てないからだよ」
スラムの人間がそんなことを言い出すのはおかしいか? おかしいんだろうな。でも、はっきりと言ってやる。
「転生だか憑依だか知らないが、別の世界に来たなら、こっちの常識を飲み込まなきゃ話にならない。誰が権力を持ってるのか。教会がどこまで強いのか。王侯貴族とどう繋がってるのか。スラムにまでどんな力が及んでるのか。そういうのを知らずに、力だけ持ってイキり散らしても、最後はどこかで潰される」
「……」
「スラムで這い上がれたのは運もある。けど、それだけで上まで行けるほど甘くないだろ。だから学びたい。今さらでも、遅くても、必要なことは頭に入れておきたい」
そう言ってやると、少しの間が置かれる。
そして、木のしきりの向こうから新たな問いを返してきた。
「今、いちばん気にしているのは何でしょうか?」
気にしていることか……色々あるが、やはり――。
「力だよ。魔法の力だ」
俺は椅子に深く座り直した。
「こっちで生き抜くきっかけになったのも、それだ。組織に拾われたのも、そのせいだ。なり上がれそうなのも、結局それがあるからだ」
「魔法、ですか」
「そう呼んでいいのかも分からないがな。組織の魔術師が言うには、魔力じゃないらしい。それでも出る。だから使ってきた」
最初は、ただ眩しいだけの光だった。
そこから目潰しを覚えて、収束を覚えて、ついには相手を焼き切るところまで来た。
結局、今の俺をここまで運んできたのはこの力があったからだ。
「その力を、恐れているのですか」
「そりゃそうだろ」
これは断言できる。人を殺すことのできる力を恐れないなんて、そんなのはサイコパスか何かだ。
「弱さを踏み越える力であるのはいい。でも強くなりすぎたら? 今度は命を狙われる立場になるかもしれない。鬼札ってのは強力であるが故に持て余す。持ち手を破滅に向かわせることもある」
「……」
「確かに今の俺はこの世界にやってきた時と比べて、格段に豊かになったさ。でも、不安は尽きない。いまだに恐怖の中にあるんだよ」
言いたいことや弱音、そして不安……全部吐き出して、ようやく少し胸の奥が軽くなった。
言葉にするだけで変わることなんて、そう多くはない。けど、腹の底に溜まっていた泥を少し掻き出した感じはある。
薄っぺらい板一枚を挟んでいても、ベアトリスは俺の話を最後まで聞いて、それから黙った。
その沈黙は、嫌な感じではない。むしろ、この問答の余韻を味わうにはちょうどいい。
「……吐きだしたら少しすっきりした。こんな荒唐無稽な話を聞いてくれてありがとよ。これで終わりだ」
「そうですか」
返答はただそれだけ。でも、愚痴を吐き出したいだけの俺にとっては、その淡泊さがむしろ有難い。
気持ちを少し立て直して懺悔室を出る。外へ出ると、さっきの修道女がいた。
何か言いたげな視線だが、特に何かを言われることはない。懺悔室に入るってことは、建前として神に縋る哀れな存在ってか? そう考えれば、あまり邪険にも扱えないってことなのかもな。
「思ったより使えるな、この教会」
軽く肩をすくめて言ってやる。
「口からクソを吐き出したくなったら、また来るよ」
修道女の眉がぴくりと動く。
今度こそ何かを言われると思ったが、その前に奥の扉が開いて、さっきの聖導師が出てくる。
「教養を学びたいというのが、教会に来た目的でしたね」
「そうだが?」
「時間のある時で構いません。来なさい。私が対応します」
どうやら本気で言っているらしい。声にも顔にも、からかいはない。
俺を狂人扱いするでもなく、わざわざその話を拾う。
何を見込んだのかは知らないが、教わる口が開くなら利用しない手はなかった。
「じゃあ、暇がある時に来させてもらう」
そう返すと、ベアトリスは小さく頷いた。
……今日のところはこれでいい。教会の扉を開けて外に出る。
すると、一番に感じるのは泥と酒と腐臭だ。遅れて怒鳴り声。喧嘩の気配。
扉を一枚挟んだだけでこうまで空気が変わるのも面白いものだ。やはり教会とは隔絶された空間なのかもな。
そう考えながら、俺は市場の通りへ戻っていった。




