二話:スラムの幼女
夢を見た――。
日本で、友達とバカ騒ぎしていた夢。
安い居酒屋でくだを巻いて、二軒目だか三軒目だかも分からない店に転がり込み、もうやめとけって笑われながらさらに飲んで、最後はきっちり吐いた。
便器にしがみついて胃液まで絞り出して、頭はガンガンするし、喉は焼けるし、帰り道の記憶も曖昧で、死んだほうが楽だと本気で思った。
言ってみれば地獄みたいな夜だ。――けど、その地獄は、今の俺からすればどう考えても天国だった。
目を覚ます。
鼻を刺したのは、酒でも煙草でもない。腐った藁と湿った土と、古い小便と、洗っていないガキどもの体臭が煮詰まった匂いだ。
薄汚れた天幕の隙間から朝の光が差し込み、床代わりの板きれと古布の山を斜めに照らしている。
ここが今の俺の寝床だ。
――転生したらスラムで幼女になっていました、ってか? くそったれ。
さっきの夢さえ見なければ、ここまで気分は悪くならなかっただろうに……。
どうしてわざわざ、もう二度と戻れない場所を見せてから、こんな現実に引き戻してくるのか……。
体を起こす。それは小さく、軽く、細い。
寝起きのたびに思うが、やっぱり腹が立つ。中身はどう考えても男のままなのに、手足は頼りないガキのそれで、声を出せば小娘の高い音が出る。
なぁ……神様よぉ……異世界転生させるなら、もっと他にあるだろ? 貴族とまでは言わない。平民で、生活が苦しい農家の娘でもかまわない。
なのに……スラムってのはどうなんだ? 救いようがないじゃないか……。
もっと救いようがないのは、ここがただの浮浪児のたまり場じゃないってことだろう。
この辺りを仕切ってる非合法組織が、ガキを囲っておくための溜め場ってやつだ。
使えそうなのは組織の下働きか使い走りにして、顔のいい女の子は育てて娼館に売る。病気や怪我で使い物にならないのは、そのへんで勝手に死ぬ。
言うなれば家畜小屋だ。雨風をしのげて、たまに配給が出るだけの底の底……そんなでもこの街の中でも最底辺とは言えないのが、さらに気分を陰鬱にさせる。
気づいた時には――もうここにいた。
どういう理屈で転生したのかも、なんでこの身体なのかも知らない。
分かるのは、生き延びないとすぐ終わるってことだ。俺はもう何日も、何か月もそれを続けてる。
「……ルシア」
小さな声がして、そちらに視線を向ける。
ルシアとは俺の名前だ。この世界の俺の名前。人格は完全に俺のままで、まるでこの世界の記憶なんて存在しない。
だが、その名前だけは今の自分のものだと認識していた。
そんな名前を読んだのは、壁際に寄り合って寝ていた兄妹だ。
こいつらがもぞもぞと身を起こしていた。
――アレンとシエラ。
アレンは俺より少しだけ年下――肉体年齢という意味で――の、痩せた体だが目つきのいいガキだ。シエラはさらに小さくて、寝癖のついた頭をこすりながら、いかにも腹が減ってそうな顔をしている。
出自は知らん。だが、もとはそれなりの良い家にいたんだろう。そういうのは仕草やまとう空気から分かるってもんだ。
そういう機微を理解する程度に、俺はこのスラムに染まっている。
最初は正直うざかった。何故だか知らんが、こいつらは俺を頼りにするように近づいて来た。
何故俺がこんなガキ共を助けなきゃならない? ガキを二人も抱えて面倒を見てやれるほどに、俺はお人好しじゃない。
けれど、スラムのクソガキどもと違って、この兄妹は妙に聞き分けがよかった。言ったことは守るし、余計な揉め事も持ち込まない。
シエラは泣き虫だが、それでも俺が言えば黙るくらいの分別がある。アレンは兄という自覚があるからなのか、どんなきつそうな時でも、わめき出さない忍耐があった。
この兄妹はこんな地獄に落とされても、二人で一緒に生き延びようとしているんだ。
そういうのを何度か見ているうちに、情が移ってしまった。
それに……スラムで滅多に見かけることのない、人間性ってやつを見て――俺が俺だった時のことを、思い出せる。だから、こいつらの面倒を見ているんだ。
「ルシア……今日のご飯は?」
そう言ったのはシエラだった。
期待と不安が半々に混じった目で、俺の顔を見上げている。
最近は配給が滞り気味だ。となると、今日の朝飯は出ないかもしれない……。
そう考えてから、俺はアレンと顔を見合わせた。
アレンは何も言わない。けど、同じ様に腹が減っているのは確かで、状況が良くないことも分かっている顔だった。
――こくりと、二人で頷く。
「なんとか調達してくる。お前はここで待ってろ」
シエラの頭を軽く撫でる。
ぼさぼさの髪は乾いていて、指に引っかかる。
「うん」
素直に返ってくる声が、少しだけ胸の奥に温もりを思い出させる。
正直に言えば、俺一人ならなんとかなる。
残飯漁りでも盗みでも、その日生きるだけならどうとでもなる。けど、今はこいつらまで食わせなきゃならない。
まるで保護者気分だが、それが今の俺にとっての救いだった。
こんなクソみたいな環境の中で、自分を律して最後まで自分でいられるなんて能力は俺にはない。
だからこいつらが必要なんだ。人に頼らないと、俺という人格を維持することも難しいから――。
……いや、今は無駄なことは考えるな。今この瞬間、この状況だけを考えろ。
この感じだと、やはり今朝の配給がないのは確定だと思うべきだ。
残飯をかき集めた粥、カビが生えかける寸前のパンの切れ端。そんなゴミ同然の飯ではあるが、ゴミだからこそ飯にありつけていた。
今日は――それがない。
「配給が滞っているってことだよね。抗争でも起きたのかな? それとも、もっと違う何か?」
アレンが考えるように言った。
「分からん。――が、何かあったのは確かだ」
俺は天幕の外を見やる。
いつもなら朝っぱらから怒鳴ってる大人どもの姿が、今日はやけに少ない。
経験上、何か理由がないとこうはならない。スラム歴数ヶ月の感に過ぎないが、こりゃあ、手が足りてないって時の空気だ。
まあ、確実に言えるのは、まとめて駆り出される何かが起きているということ。
残飯すら出ないんだからな……俺たちの組織に陳情しても無駄かもしれない。
ってことは、飯を調達する先を考える必要があるが、そうなると取れる選択肢は多くない。
「アレン。レッドブレードを狙おうと思うが、お前の意見を聞きたい」
その問いに、アレンはすぐに答える。
「危ないけど……何かが起きているなら隙があるかも」
「だよな。俺の力を使えば、なんとかなるかもしれない。飯の調達先は、奴らの詰め所だ」
そう言うと、アレンは少しだけ目を細め、それから頷いた。
こいつは察しがいいだけでなく要領もいい。十分に俺の力になる。
「今日は残飯じゃなくて、もっといい食事をしたいよね」
軽い口調のわりに、目は本気だった。
俺も同感だ。どうせ危ない橋を渡るなら、腐りかけの野菜よりは、肉の一切れでも狙いたい。
「シエラ。俺たちが戻るまで外に出るな。誰が来てもついていくな。分かったな?」
「うん。ちゃんと待ってる」
「よし」
その返事を聞いて、俺は立ち上がり、アレンも続く。
天幕の外へ出れば、朝のスラムはもう目を覚ましていた。
濁った水路、崩れた石壁、泥に沈んだ木箱、誰のものか分からない洗濯物。腹を空かせた犬がゴミ山を漁り、その向こうで、寝起きの大人が苛立った顔で唾を吐く。
見慣れてしまった、今俺がいる地獄の風景――その地獄の中を、俺とアレンは歩き出した。
俺たちを囲っている組織――グレイクロウ。それと敵対する、レッドブレードの詰め所に向けて。




