362.満たすだけでは終わらせない
「広まった方が……楽しい?」
シルヴィア様が目を瞬かせ、私の言葉をそっと復唱した。
「私は領民みんなに、お腹いっぱいご飯を食べてほしいんです。
できれば、ただお腹を満たすだけでなく――子どものお小遣いでもお菓子を楽しめるくらいになってほしい」
言い終えた瞬間、皆の視線が一斉に私へと集まった。
――しん、と。
場に、短い沈黙が落ちる。
「“子どものお小遣いでも”って……」
「まさか……平民の、ということっすか?」
戸惑いを含んだ声が、ぽつりと零れる。
その問いに、ミランダお姉様がゆっくりと口を開いた。
「ええ。平民の子ども――それも、元はスラム街にいた子どもたちのこともよ」
ミランダお姉様の言葉を受けて、場の空気がさらに変わる。
先ほどまでの柔らかさが、すっと引き締まった。
やがて――
「……それは、素晴らしいお考えだと思います」
シルヴィア様が、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
その表情は穏やかだったが、瞳の奥にはわずかな迷いが浮かんでいる。
「ですが――」
一拍、置く。
「それを実現するのは、決して容易ではありません」
静かに、しかしはっきりと告げられる。
「王都に住む者であっても、平民ではその日の食事を満足にとれない者が少なくありません」
金色の瞳に、私の姿が映る。
「特に、菓子類は嗜好品。
材料も手間もかかる以上、どうしても高価になりがちです」
そこへ、フレイヤ様も続いた。
「スラム街の子どもたちとなると……なおさらです。
日々の食事を確保するだけでも精一杯な者が多く、お菓子にお金を回す余裕はほとんどありません」
言葉を重ねるごとに、現実が輪郭を帯びていく。
「仮に価格を下げたとしても――」
ヴィオレッタ様が、静かに補足する。
「お菓子を買う前に、彼らに必要なのは――お腹に溜まるパンや、薬でしょう」
誰もが、同じ結論に行き着いていた。
――理想としては美しい。
だが、それを実現するには、あまりにも壁が多い。
そう考えているであろうことは、容易に想像できた。
「先ほど……リュミエール商会で、シルヴィア様を接客した男性店員」
よく通る声で、ふいにお姉様が口を開いた。
わずかに口角を上げ、続ける。
「――彼のことを、どう思いましたか?」
突然の問いに戸惑いながらも、シルヴィア様がゆっくりと口を開いた。
「若いのに、とてもよく教育されていると思いました。
私の素性はもちろん……」
そこで一度、言葉を切り――私をまっすぐに見つめる。
「ジルティアーナ様のことを知り、驚きはしたものの、落ち着いて対応しておりましたわ」
……ここには、私の正体を知らないオリバーたちもいる。
だからこそ、言葉を選んでくださったのだと分かった。
そして――ネロくんが。
リュミエール商会の従業員が褒められたことが、素直に嬉しい。
きっと同じ気持ちなのだろう。お姉様も、どこか誇らしげに微笑んだ。
「ええ、彼は自慢の店員です。ですが――」
一拍、置く。
「彼は、かつてスラム街にいたのですよ」
その一言に――場の空気が、ぴたりと止まった。
「スラム街、に……?」
シルヴィア様が、わずかに息を呑む。
他の面々も、驚いたように目を見開いていた。
「ええ」
私は、ミランダお姉様の言葉を肯定するように頷く。
「――とはいえ、彼があそこにいたのは二年ほどです」
それでも――出会った当時の、まだ幼さの残るネロくんの姿が脳裏に浮かんだ。
あの時、彼らはスラム街で貧しい生活を強いられていた。
兵士として、かつては書類仕事をしていたロベールさんのおかげで読み書きはできていたが、当然学校に通うこともできず、教養には乏しかった。
それが今では――
貴族対応を、さらには王族であるシルヴィア様の接客さえ、難なくこなせるほどになった。
それは間違いなく――彼自身の努力の賜物だった。




