第9話 パン屋とポンコツ
ラヴィーナの捜索は、思った以上に難航した。
貴族の令嬢、それも国外に行くのは初めてだという女性が行ける場所などそう多くはないはずだ。初めはそう考えていたシリルだが、あの求婚の日から三ヶ月──探し始めてから早くも二ヶ月が経過していた。いまだラヴィーナの行方は掴めないままだ。
最初に探したのは、ラヴィーナが向かった隣国だった。彼女の叔母にも会い、紹介先の邸も訪れた。
邸の領主はラヴィーナを無責任な令嬢だと評したが、彼女をよく知るシリルからすれば違和感しかない。こっそりその邸の使用人に金を握らせて確認すると、邸の領主に愛人として目をつけられたラヴィーナが、そうなる前に夜逃げしたのだと教えてくれた。
腸の煮えくりかえる話ではあったが、ラヴィーナが逃げ出せたのはよかった。夜道をひとり逃げたなら、どれほど不安な思いをしただろうか。
けれど、それならば、なぜ叔母の元にも家族のところにも戻らなかったのだろうかと疑問が残る。
バークレイ家には不定期にラヴィーナからの手紙が届く。ここ最近は幾ばくかの金も届くそうで、彼女がなにかしらの仕事をしていることは間違いがなさそうだが、手紙にはただ元気で過ごしているから心配はいらないとしか書かれていないという。
その手紙も、毎度投函された場所の消印が違うのだ。最初に届いた手紙は、隣国の更に向こうの国だった。そうかと思えば、隣国のこともある。
手紙が届くたびに、シリルは自身が赴き、人をやり、八方手を尽くしているが一向にラヴィーナには手が届かない。
ラヴィーナはたしかに聡明でしっかりしている。手紙に元気だと書いてきているのなら元気なのかもしれない。
けれど、誰かに捕らえられてはいないか、無理やり手紙を書かされてはいないかと思うと、シリルは夜も眠れないのだ。
「それで、逃げた婚約者を追い回してるのか?」
さも楽しくて堪らないと目を細めたひげ面の男──バジリスは、ひと息にワインを飲み干した。
シリルは隣国に住まう友人の邸を訪れていた。
手紙の消印を信じるならば、やはり女の足で移動するにはあまりに不自然な動きだし、そんな移動を伴う職に貴族の令嬢が就けるとも思わない。となれば、やはりもっと徹底的に隣国を探すべきだと思い定めて、友を頼ったのだ。
ざっと事情を話せば、お前が女の尻を追いかけまわすとは、と笑われたが、言い方はともかくとしてもおおむね間違ってもおらず、シリルは黙ってワインを傾けるしかない。
強いて言うならばまだ婚約者ではないが、ますます笑われるネタを提供するようにも思えて、シリルは口を引き結んだ。
「まあうちの手が空いてる者はいくらでも使えばいいさ」
バジリスの言葉に礼を述べ、出された昼食に手をつける。
食事をするたびにラヴィーナを思う。彼女は食事が取れているだろうか。
思いを馳せながら口に運んだパンを噛みしめ、シリルはふと動きを止めた。そうしてまじまじとパンを見つめ、もう一切れちぎって口に運んだ。
食べたことがある味だ。
「それな、旨いだろ? 最近うちはそればっかりだ」
「……ここの料理人が?」
「いや、それが町のパン屋でな。ちっちゃい店なんだが、変わったパンが多い。その玉ねぎパンも、近頃じゃ前もって予約しないと買うのも難しいらしい。ま、うちは以前から配送を頼んでいるから、買い損ねる心配もなくてな。……そんなに気に入ったのか?」
パンを凝視して固まるシリルに、バジリスは訝しげに身を乗り出した。
「いや……」
苦笑を返して、再びパンを見つめる。
以前ラヴィーナが焼いてくれたパウンドケーキ。食感や甘みは違うが、あれに似ている気がする。
「なんなら、帰る時には土産に持ってくか? ……ああ、ほれ、噂をすれば、だ。あれがそのパン屋の娘でな。いつも昼のこの時間に届けてくれるから……」
友人の指し示す窓の外に視線をやって、シリルは椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「おいっ!?」
急いで窓辺に駆け寄り目を凝らす。
記憶の中のラヴィーナと違い、珈琲色の髪は随分短く切り揃えられている。一瞬こちらを見た気がするのに、顔をそむけた彼女はそのまま足早に去って行く。
すぐに部屋を出て追いかけようとしたシリルを留めたのは、友の言葉だった。
「待て、シリル。まさか、あの子がそうだって言うんじゃないだろうな」
「そのまさかだ」
「あれが? どこからどう見ても平民だろう? まあ別嬪さんだとは思っていたが」
「間違いなくラヴィーナだ。バークレイ子爵の娘だ。俺が彼女を見間違えるはずがない」
「ならばなおさら落ち着けよ。令嬢が平民のふりをして暮らすなんざ、よっぽどのことだ。あのパン屋ならここからもそう遠くない」
「ならばすぐに行く!」
やっと彼女に手が届いた。
女性が髪をあそこまで切るなど、よほどのことがあったのではないのか。少し痩せて見えた。もしかしたら食事を満足に取れていないのではないのか。逃げ出せずに困ったことになってはいないだろうか。
「まあいったん座れ」
両肩をぐいと押されて、強引に椅子に座らされた。
文句を言おうと口を開きかけたシリルの前で、バジリスが豪快に笑い出す。
あっけに取られるシリルの前で、眦に涙まで浮かべて笑う友に胡乱げな目を向けると、「クールな伯爵様はどこに行ったんだ?」と軽口を叩いた。
バジリスは部屋の隅に控えた執事を指先で招く。
「あのご令嬢が逃げ出さないように遠巻きに見張りをつけろ。……この哀れな男のためにな」
まだ笑いの名残を残すバジリスがそう命じると、執事は恭しく頭を下げた。
「さ、これでいいな?」
シリルにすればまったくよくない。よくないが、自分がひどく動揺していることも遅まきながら自覚する。
ラヴィーナを今すぐ追いかけて、もしも本当に彼女の意思で平民のフリをしているならば、シリルがそれを台無しにしてしまいかねない。そう考えられる程度には、頭も冷えた。
生きていた。無事だった。まずはそれで落ち着けと、心の中でくり返す。
「とりあえずもう少し詳しく話せ。その分じゃ、お前俺にまだ言っていないことがあるだろう? 酒も肴も玉ねぎパンも、まだまだたんとあるからな」
シリルの話も肴にする気満々の男を前に、深い溜め息を落とす。
とはいえ、バジリスはこう見えて友人思いなことは知っている。だからこそ、この国でくまなく人を探すなら、この男に相談するのがいいだろうと考えたのだ。
彼が揶揄うためだけに話せと言っているわけでもないことを、シリルはよく理解していた。
どこから話したものかと迷いながら、シリルはワインで口を湿らせてから、ラヴィーナとの馴れそめから話し出した。
「待て。今なんて言った?」
窓の外は宵闇に沈みつつある。
あれから、ラヴィーナがいかに素晴らしい女性かを交えながら、これまでの彼女とのやりとりをバジリスに語って聞かせた。
話せと言うから話しているのに、バジリスは途中から半笑いの生温い目で相づちを打っていた。そのバジリスが目を見開いて尋ねてくるものだから、シリルは何をそんなに驚くことがあったのかと同じ言葉をくり返した。
「だから、婚約破棄された女ではクレアモント家の評判に……」
「馬鹿、その後だ。お前それになんて言ったって?」
「絆された、と」
そう言うと、バジリスは盛大に息を吐いて机に突っ伏した。
「おい? どうした?」
「どうしたじゃないだろうっ」
バンとテーブルを両手で叩いたバジリスは、「お前なぁ」とすっかり呆れきったような顔つきだ。
「やれ可愛いだの、賢いだの、美人だの、愛らしいだの、さんっざんここで惚気ておいて、なんでそこで彼女に言う台詞がそれなんだ!?」
シリルはバジリスを見つめて、ひとつ瞬きしてから、ゆるゆると息を吐いた。
「しょうがないだろう。彼女はそういう褒め言葉は嫌いなんだ」
「は?」
シリルとて、彼女のことはいつだって可愛く愛らしいと思っていた。
始まりこそ恋愛感情を隠さなければと思ったシリルだが、少しずつふたりの距離が縮むほどにそんな言葉が口を突きそうになることは何度もあった。
でも、言わなかった。少しずつ気を許してくれたラヴィーナが、そういう言葉を好まないと話していたからだ。
夜会で飛び交う女を褒める言葉はとても空虚で、そんななか、シリルが彼女の治水事業の話を興味を持って聞いてくれたことが本当に嬉しかったのだと話してくれた。
実際ラヴィーナは、シリルの邸で執務の手伝いをしてくれるようになってからも、可愛いと言うと少し困ったように笑うのに、計算間違いのない書類や、面白い発想、作ってくれた菓子を褒めると本当に嬉しそうにはにかんだ。
だからシリルは、彼女を褒める時にはなるべく彼女の能力を褒めるように心がけた。それが一番ラヴィーナを喜ばせるのだと学んだからだ。
「なるほど。お前の言い分はわかった。ならいったいぜんたいどういう意味で、絆されたなんて言ったんだ」
バジリスは、まるでその言葉そのものが悪いとでも言いたげにシリルに尋ねた。
「それは、……彼女を好きになったのは絶対に俺のほうが先だ。よく言うだろう? 先に惚れたほうが負けってな。俺は俺の想いに早々に白旗をあげただけだ」
「……念のため尋ねるが、そう伝えたつもりで、その言葉を選んだのか?」
「何が言いたい? はっきり言え」
「なら友としてはっきり言わせてもらう。お前、恋愛面では相当ポンコツだな? いや、女の扱いはそうでもなかったな。惚れた女限定でポンコツだな!」
「は?」
「よぉくわかった。明日彼女がここに来る。店主にはこっそり手を回しておくから、しっかりフラれてこい」
バジリスは大きな手でシリルの肩をばしばしと叩くと、また笑ってワインを干した。
「……なんでフラれる前提なんだ?」
「逃げられたくせに随分強気じゃないか。まあいいさ。俺の邸で無理強いは許さんからな」
お前がそんな男じゃないことはわかっているがな、と言うバジリスを前に、シリルは力なく笑うしかなかった。




