第10話 終わりのためのティーパーティ
今日この邸を訪れれば、シリルに会ってしまうかもしれない。
裏門からいつものように来訪を告げる鐘を鳴らすラヴィーナの手は、少しだけ震えていた。
昨日、硝子越しにシリルを見つけた時は、心臓が止まるかと思った。すぐに目を逸らしたけれど、確かめるためにもう一度視線を向ける勇気はなかった。
それでも、見間違いではないと確信していた。
いつものように厨房にパンを届けたら、一目散に帰ればいい。
そう思いつつも、昨夜は髪を洗い、念入りに体を拭いた。今朝も鏡の前でつい丁寧に髪を梳いてしまった。
すっかり短くなってしまった髪を、シリルはどう思っただろう。
そもそもラヴィーナだと気づかなかったかもしれないし、気づいても、求婚の返事もせずに隣国へと渡った薄情な女だと腹を立てているかもしれない。
「多くないですか?」
いつものように邸へ配送するパンを箱へと並べるシーシャに、ラヴィーナは首を傾げた。
「今日はパーティがあるんですって。重くて大変だろうから、もう出なさいな。帰りはカフェにでも寄ってゆっくりしてきていいわよ」
シーシャはそう言うと片目を閉じた。
「え、でも店番が……」
「ヴィーちゃん、ここのところ働き詰めでしょう? たまには息抜きもしないと」
はい、行った行った、とぽんぽんと背中を叩くシーシャに送り出されて、ラヴィーナは店を出た。
パーティがある。それなら、シリルはそれに呼ばれたんだろうか。
かつて出席した夜会も、今の自分にはすっかり遠い世界だ。シリルと肩を並べることも、もうない。それでいいと思うのに、遠目でもいいから、もう一度くらい彼の姿を見られるだろうかとも思ってしまう。
いつものように鐘の音を聞きつけたメイドが、裏門を開けてくれる。はずだった。
「いつもありがとうございます。パンをお届け……に……」
門の向こうには、シリルがいた。
息を呑んだラヴィーナは、シリルにまっすぐに見つめられて、急いで足下に視線を落とす。
刺繍ひとつない無地のワンピース。化粧もしていない顔。普段はそれを恥ずかしいなんて思わないのに、彼の視線にさらされるのはなんだか居たたまれない。
シリルがこちらに歩み寄ってくる。顔を上げられないまま、後ずさりかけたラヴィーナの背に彼の腕がまわり、ぎゅうと抱き締められた。
「会いたかった」
少し掠れたバリトンが耳元で響く。
彼が自分に会いたいと思ってくれていた。まだ嫌われてはいなかった。
ラヴィーナの内で、会えて、抱き締められて嬉しくて堪らない気持ちと、流されてはいけないと戒める気持ちとがせめぎ合う。
だからラヴィーナは、抱き締め返すことも、声を出すこともできず、ただその場に立ち尽くした。
「無事で、よかった」
シリルの声には切実さが滲んでいる。
家族には手紙を送っていたが、どこにいるかは明かしていなかった。それどころか、居場所が知られないように、手紙の投函は常連客や出入りの業者などに頼んで様々な場所から送っていた。パン屋で売り子をしているなどと知られれば連れ戻される気がしたし、そうなればシリルとも顔を合わせることになる。そう思ってのことではあったが、だからといって心配をかけていいということにはならない。
シリルのその声音に、ラヴィーナは心から申し訳なくなり「ごめんなさい」と呟いた。
「いつまでそうしてるつもりだ」
野太い声に顔を上げて身を離そうとしても、シリルはぎゅうぎゅうと抱き締めたまま一向に腕を緩めてはくれない。
「バジリス、空気を読め。感動の再会の真っ最中だろう」
「空気を読めだ? お前にだけは言われたくないな」
ようやく抱き締める腕が緩み、ラヴィーナは急いで身を離すと、シリルと軽口をたたく男に視線を向ける。
髭をたくわえた男は、「バジリス・アルファリスだ。こいつがすまないな」とシリルの頭を軽く小突く。
バジリス・アルファリス──邸の主人だと気づき、ラヴィーナは、咄嗟に膝を折りかけてハッとする。
「ヴィーです。いつもパンをたくさん買ってくださってありがとうございます」と丁寧に深く頭を下げた。
「いやいやこちらこそだ。あの玉ねぎパン、あれを食べたら、他のパンじゃもう物足りなくてな」
ラヴィーナが考案し、シーシャと試作を重ねたパンだ。それをこんな風に褒められて、嬉しくないはずがない。
「ありがとうございます!」
「可愛いお嬢さんじゃないか」
「だから何度もそう言っている」
バジリスとシリルのやりとりに、ラヴィーナは、ああ、またか、と思う。社交辞令で褒めるお決まりのパターンだ。
「……パンを、運びますね」
「……なるほど。難しいな」
バジリスの言葉に、ラヴィーナがどういう意味かと顔を上げる。
シリルが「おいっ」と声をあげてもバジリスは少しも気にも留めず、「それはうちのが運ぶからそのままで。ラ、……ヴィーはシリルとこっちだ」と背を向けた。
「え……」
戸惑うラヴィーナが何か言う前に、シリルがすかさず手を引く。そのまま手を繋ぎ、庭の奥へと進んでいく。
温かく力強い手だ。以前なら、いつでもラヴィーナがほどけるように緩く繋いでいたはずのその手が、逃がさないとでも言うように強く掌を握っている。
いつかの夜を思い出し、ラヴィーナは目を伏せて、引かれるがままに足を動かした。
連れて行かれたのは、庭の四阿だった。
「あの……私、まだ仕事中なので、帰らないと」
「配送が終わったらゆっくりしていい、と言われなかったか?」
バジリスの言葉に顔をあげると、「すまん、シーシャに頼んだのは俺だ。少しだけお嬢さんを貸してほしいってな」などと悪びれずに笑う。
「フラれた男がどうにも諦められんと言うからな。無体は働かせない。だから、少しだけこいつに時間をくれないか?」
「無体なんて、そんなこと……」
シリルがするはずもない。
フラれた男、とバジリスは言った。シリルのことだろう。ラヴィーナにフったつもりはないけれど、求婚の返事もせずに逃げ出したのだから、そう取られても仕方がない。
『会いたかった』
先ほどのシリルの声が蘇る。
そう言ってもらえて嬉しかった。でも、それではいけない。早く彼を解放してあげなくては。
「わかりました」
ラヴィーナは頷くと、シリルの向かいの椅子に腰を下ろした。
次回最終回!




