最終話 その言葉の示すもの
四阿のテーブルには、香りのいい紅茶や、ラヴィーナの持ってきたパン、それに菓子が並べられていた。
バジリスは共に席に着くことはなく、給仕のためのメイドだけを残していくという。
「差し支えなければ私がいたしますので……」
ラヴィーナは遠慮がちに申し出た。
咲き始めた周囲の花は可愛らしいけれど、季節はまだ春の入口。ショールや膝掛けを借りたラヴィーナは温かい茶を飲むからいいけれど、給仕の彼女はそうはいかない。
笑みを深めたバジリスは、邸の母屋を指差すと「シリルが悪さしたらあそこまで駆けてこい。とっちめてやるからな」と言い残すと、メイドを伴い背を向けた。
バジリスが去ると、途端に静かになる。
「何から話せばいいものかな」
シリルが苦笑を浮かべた。
ラヴィーナが話すべきことは、きっとたったひとつだ。シリルが聞きたいことも。
ラヴィーナは背筋を伸ばして、彼の顔をまっすぐに見つめた。
膝の上の手をきゅっと握り、小さく息を吸い込んで口を開こうとすると、「待って」とシリルが掌をこちらに向けた。
「まず、謝らせてほしい」
出鼻を挫かれた気持ちで見つめると、シリルは眉を下げた。
彼が謝ることなどひとつもない。
求婚の返事もせずに逃げ出したのも、居場所を知らせずに行方をくらませたのもラヴィーナだ。
「シリル様が謝ることなど、なにも……」
「いや、俺が悪い。あんな風にプロポーズするつもりはなかったんだ」
プロポーズするつもりはなかった。
その言葉に、ラヴィーナの喉の奥が詰まる。ぎゅうと握る掌に力を込めた。
そうなんですね、と笑いたいのに、なにかひと言でも言ったら、いろんなものがあふれ出してしまいそうな気がした。
「本当なら花を準備して、きみの好きなお茶やお菓子も準備して、贈り物だって注文していたんだ」
咄嗟に話が呑み込めない。
頭の中ではまだ、プロポーズするつもりはなかったという彼の言葉がリフレインしている。
とにかく何か相づちを打たなくてはいけないと、ラヴィーナはどうにか「はい」と搾り出して頷いて見せる。
「あの夜も……」
「あの夜?」
「……きみが邸に泊まった夜。きみが初めてだと知っていたらあんな風には、いや、それも全部言い訳だな。すまなかった」
初めてだと知っていたら。
やはり、シリルはそうではないと思っていた。わかっていたことを再確認したラヴィーナは、ただただ落胆が深まるばかりだ。
別に慣れているだろうと雑に扱われたわけではない。閨事など経験がなかったから比較はできないけれど、とても丁寧に優しくしてもらったと思う。
翌朝も、シリルはひどく気まずそうな表情をしていたけれど、それでも、ラヴィーナの体を気遣い、労ってくれた。
ラヴィーナは、初めての相手がシリルでよかったと心から思っていた。
ただ、それきりシリルがそんな振る舞いをすることはなく、やはり可愛げのない自分では彼の相手には不足があったのだろうと判断していた。
そこにきて、プロポーズだ。
婚約破棄された女への同情に加え、初めてを散らしてしまった責任を課してしまった後ろめたさは、ラヴィーナに重くのし掛かっていた。
もっとも、そのプロポーズも、うっかり口にしてしまったに違いない。
「……謝っていただくほどのことでは、ないです」
「しかし」
「誰でも初めてはあるものです。たまたま……あなたがそれをひいてしまっただけです」
声は震えなかっただろうか。なんでもない顔はできているだろうか。
ラヴィーナは、冷め始めた紅茶に口をつける。
せりあがる思いを紅茶ごと飲み込んだラヴィーナは、「だからどうかお気になさらず」と微笑んだ。
「……たまたま?」
「お陰様で、いい思い出になりました」
「いい、思い出? あれが?」
シリルにとってはいい思い出ではないのだろう。彼の顔に浮かぶ困惑から目を逸らして、ラヴィーナはテーブルの上のパンに視線を逃がした。
いい思い出だ。ラヴィーナにとっては。
好きな相手に、愛されているような気になれた。
ああ、そうか、とラヴィーナは思う。自分は愛されたかったのだ。そんなことに今更気づいて、そっと苦笑する。
プロポーズのあの日。なんと言われたら頷いただろうかと考えたけれど、きっと、ただ、愛していると言われたかったのだ。
彼に褒められるのは嬉しかった。お世辞ではない褒め言葉は、ラヴィーナの萎れていた自尊心をそっと労り、育んでくれた。彼との会話が、掛けられる言葉が、そうして触れられるぬくもりが、好きだった。
だから、同情や責任で彼を縛るのも、傍らにいるのも無理だと思った。
「きみの思い出になんて、なりたくない」
シリルの固い声が胸に刺さる。
「そう、ですか」
「ずっと、きみの『今』でいたい」
顔をあげると、まるで怒っているような強い眼差しが向けられていた。
気圧されて小さく息を呑んだラヴィーナを前に、シリルは言葉を続けた。
「今も、この先も、きみが隣にいてほしい。きみが、あの男を今でも忘れられないというなら、それでもいい。あの男を想ったままでいいから」
「あの……、あの男、とは?」
ラヴィーナがまるで他の誰かを想ってでもいるような物言いに、そっと口を挟むと、「きみの、元婚約者だ」とシリルはひどく不本意そうに言った。
「なぜ、カリウス様が……」
ぱちぱちと瞬いたラヴィーナは、言われた意味がわからない。
何がどうなって、ラヴィーナがカリウスを忘れられないなどという話になったのか。それこそ不本意な話だ。
「カリウス様のことなど、なんとも思っておりません」
「は? それならなんで……」
掌を口で覆ったシリルが、何事か考え込む。それから、迷うように口を開いた。
「それならなぜ、……いや。ラヴィーナ。保留にしていた返事を、聞かせてもらっていいだろうか」
言わなくてはいけない。言って、彼を解放してあげなくてはいけない。
シリルの視線を見つめ返したラヴィーナは、喉元に切っ先を突きつけられた心地で言葉を紡ぐ。
「……はい。きちんとお返事しないままで、申し訳ありませんでした。私は、シリル様のお申し出を」
お受けすることはできません。
そのひと言が、喉に詰まって出てこない。
黙り込んだラヴィーナを前に、シリルもひどく重いため息をついた。
「他国に逃げ出すほど嫌われているとは、思っていなかったんだ」
困ったような笑みを浮かべたシリルに、「嫌ってなどおりません!」と口を衝いた言葉にラヴィーナは慌てて掌で口を覆った。
「嫌っていないなら、なぜ他国になど……」
「……シリル様に、会いたくなかったからです」
同情で求婚までする相手に、どんな顔で会えばいいというのか。
同情でも傍にいられればいいと割りきれば、きっとみじめになる。なにより、シリルほど素晴らしい男性ならば、可愛くてもっと魅力的な女性もよりどりみどりだ。
責任感で、自分のような女を妻にする必要などない。
「すまない、ラヴィーナ。話が見えないんだが。きみは、俺を嫌っているのか? いないのか?」
「嫌ってなどおりません」
「だが、俺には会いたくない、と? なぜ?」
「……同情していただかずとも、私は……私は大丈夫です」
「同情?」
「それに、……私が、は、初めてだったことについても、本当に責任を感じていただく必要などなくて」
まさか、と信じられないものでも見るような目をしたシリルは「きみは俺が、同情や責任でプロポーズしたと思っているのか?」と尋ねる。
ラヴィーナは、何を言い出すのかと小首を傾げた。それ以外の何があるというのだろう。
ふたりの間に沈黙が落ちた。
「俺は、最初からきみを妻にしたいと思っていた」
沈黙を破ったのは、シリルだった。
「最初から?」
「交際を申し込んだあの日から。その前から……きみがいいと思っていた」
「共に領地を治めていくのに、ちょうどよかったから、ですよね」
自嘲と共に言うと、シリルは「きみが好きだからだ」とすかさず声をあげた。
「え?」
「きみが好きだから、交際を申し込んだ。きみが欲しくてたまらないから、あの夜、きみを抱いたんだ」
「でも……翌朝、とても気まずそうで……私が初めてだったせいで」
「そうだな。初めてのきみを、自分の欲のままに抱いてしまったことは本当に申し訳なかった。せめてきちんと婚約をしてからにすべきだったのに……」
「けれど、あれきり、そのようなことがなかったので、てっきり私がお気に召さなかったのかと思……」
「我慢していたんだ」
え、と固まったラヴィーナに、シリルは情けなさそうに笑った。
「いい大人が婚約も待たずに恋人に手を出して、しかも恋人は初めてだったというのに……きみに嫌われてはいないかと、内心ビクビクしていたんだ」
情けないだろう? と白状するように伏し目がちに言って、紅茶を含む。そして、「ついでに言えば、傷心のきみにつけこんで交際に持ち込んだことも、申し訳なかったとずっと思っていた」と言葉を続けた。
「傷心?」
「婚約を破棄されたばかりの、ましてやあの男にひどい言葉を投げつけられて落ち込んでいたのを知っていたのに、俺はそれにつけ込んだんだ」
呆れたかい? と呟くシリルは、これまで見たこともないほどに頼りない笑みを浮かべた。
その表情が愛しくて、ラヴィーナは胸の奥が苦しくなるのを感じた。
けれど。
「それではまるで、シリル様が私のことを好きなのではと錯覚しそうです」
「きみが好きだと言っている。さっきもそう言った。何度でも言う。俺はきみが好きなんだ。だから妻にしたいと」
「絆されたと言ったではないですかっ」
ラヴィーナは自分の出した大きな声に、自分でびっくりしてしまった。
シリルも驚いたのだろう。目を丸くして固まっている。
先に口を開いたのは、シリルだった。
「昨日、バジリスにも馬鹿にされた。その言葉の、何がいけなかったんだ?」
「……婚約破棄された女を可哀想に思って、同情でプロポーズされたと言われても、喜んでお受けするのが、可愛い女性のありようでしょうか」
「は?」
「私は、シリル様が好きです。けれど、同情で傍に居て欲しいとは思いません。責任をとって欲しいとも」
言葉が続かず俯くと、シリルは椅子から立ち上がり、ラヴィーナの前に跪いた。
大きく温かな手が、ラヴィーナの両手をそっと掴む。
「きみが好きで、自分のものにしたくて堪らないから、俺は自分の想いに降参するしかないと……本当ならもっときみの気持ちが追い付いて、それからの求婚でもよかったはずなのに、待ちきれなくて、そういうつもりで『絆された』と言ったんだ」
ラヴィーナの瞳から、ほろりと涙が零れた。
「わかりにくすぎます」
震える声でどうにか抗議すると、苦笑したシリルは「そうだね、俺が悪かった」と膝立ちでラヴィーナを抱き寄せた。
「きみが嫌がるから言わないようにしているけれど、俺はきみが可愛くて可愛くて仕方ないんだ」
ゆっくりと背を撫でられて、ラヴィーナから嗚咽が漏れる。
「だって、わた、私は、かわ、かわいく、ないです」
「可愛いよ。……俺は、嫌がられるから言わない、じゃなくて、きみにもっと教えてあげなくてはいけなかったんだね。ラヴィーナは誰よりも可愛いし、綺麗だし、俺の大切な女性だよ」
細い肩をそっと押して身を離したシリルが、涙に濡れたラヴィーナの顔を見つめて笑みを深める。
泣き顔を見られたくなくて顔を伏せようとすると「可愛い」と言って、口づけられた。
そうして再びぎゅうと抱き締めたシリルは「俺の妻になってくれませんか」と囁いた。 そのまま頷きそうになったラヴィーナは、はたと気づいて固まった。
「一度持ち帰って、相談させていただいても?」
おずおずと身を離して言うと、「は?」とシリルが固まった。
「その……シーシャが、あ、その、私の勤めるパン屋が、今は売り子が私しかいなくて、だから……」
慌てて言葉を連ねようとするラヴィーナの唇に、シリルの人差し指がそっと触れる。
「きみの気持ちが知りたい。俺の妻になるのは嫌?」
ふるりと首を振るラヴィーナに、シリルは目を細めた。
「愛してる。ラヴィーナ。俺の妻になってください」
「はい!」
ラヴィーナが答えると、すぐにまたぎゅっと抱き締められた。
ラヴィーナは、その後二ヶ月、パン屋の娘・ヴィーを続けた。
その間もシリルは毎日パン屋に通い、執務は大丈夫なのかとラヴィーナを大いに心配させた。
町では、恋をした隣国の貴族が日参してパン屋の娘を口説いていると話題になったほどだ。
思いつく限りのレシピをシーシャに伝え、バジリスの協力で次の売り子も手配できた。 そうしてヴィーは、ラヴィーナへと戻ったのだ。
「結婚式……あげなくてはいけませんか?」
国へと帰る馬車の中でそう言うと、シリルは眉間に皺を寄せて、それからひとつ息をついた。
「それは、俺と結婚したくない、という話ではないよね?」
「もちろんです。ただ、華やかなドレスやパーティは、私にはきっと似合いません」
あなたに恥をかかせてしまうのが心配なんです、としょんぼりと視線を落とすラヴィーナに「恥なんてかくものか」とシリルは笑った。
「むしろ俺の可愛い花嫁を見せびらかしたいのと、可愛すぎて誰にも見せずに独り占めしたい気持ちとで今から悩ましいよ」
シリルはそう言って、ラヴィーナに口づけた。
馬車の外は春の盛りを迎え、色とりどりの花々がふたりを祝福するように咲き誇っていた。
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