第8話 掴めて、溶けて、捕まえて
出掛けに舞い込んだ所用を済ませてきたため、その日、シリルは会場に着くのが少々遅くなってしまった。
ここ最近は、ラヴィーナに会うためにかなりの頻度で夜会に参加していた。
早足で向かいながら、先日の彼女の姿を思い出し、シリルの口角は自然と上がる。
ラヴィーナは夜会でもダンスをしようとは言わないから、てっきり好きではないのだろうと思っていた。
それでも、貴族の嗜みである以上、踊れないこともないだろうと誘ってみたのだ。
「好きなんですが、私はとても下手なようで」
そう言って眉を下げる彼女を、足を踏まれる覚悟でフロアに誘い出せば、風に舞う羽のように軽やかなステップを踏む。しかも、踊ることが楽しくて仕方ないという表情で微笑むものだから、乞われるままつい四曲も立て続けに踊ってしまった。
彼女に自身のダンスを下手だと思い込ませた男──おそらくはあの元婚約者だろう──に内心悪態をつきながら、シリルは今日も彼女とダンスをしたい、あの楽しそうな表情を間近で見たいと考えながら、会場に続く渡り廊下を歩いていた。
ふと人影が見えて歩調を緩める。月明かりもない、室内から漏れる明かりと蝋燭の灯火に頼りなく浮かびあがるその姿は、紛れもなくラヴィーナだった。
会場を離れこんな屋外の廊下で何をしているのだろうか。
シリルは足を止め、なんとなく柱の影に身を寄せた。
空へと手を伸ばした彼女は、子猫がじゃれつくように手を動かす。
どうやら降り始めた雪を掴もうとしたらしい。思う結果にならなかったのか、少しだけ唇を尖らせた彼女が、再び手を差しだして空を掴む。
今度は掴まえられたのか、満足げに掌に視線を落とした彼女は、慌てて周囲を窺うと、誰も見ていないはずのそこで、恥じ入るように雪に触れたであろう掌を握り込んだ。
そのひどく愛らしい姿に、シリルは笑みを浮かべた。
ラヴィーナは、どちらかといえば年齢よりも落ち着いた、理知的なイメージが強い。
けれども、ふとした時にとても無邪気で無防備な可愛らしさを見せるから、シリルはその瞬間を見逃したくなくて、ますます彼女から目が離せなくなるのだ。
シリルが柱の陰から出ようと足を踏み出しかけた時、廊下の向こうからラヴィーナの元婚約者カリウス・ベルコートとその交際相手であるシルフィーナ嬢と連れ立って歩いてきた。
カリウスの言葉は相変わらずラヴィーナに容赦がない。
何も知らなかった頃ならいざ知らず、シリルにしてみればカリウスの言葉はどれも的外れで腹立たしく、本当に一時でもラヴィーナと婚約をしていたのかと疑いたくなるほどだ。
それでもすぐに出て行かなかったのは、人目のないここでなら、ラヴィーナもきちんと言い返せるのではないか、シリルが出て行くことで、その機会を奪ってしまうのではないかと危惧したからだ。
ラヴィーナは、頭の回転が早く、打てば響くように返す。
だから、あんな風に傷つけるばかりで、少しも的を射ていない言葉にも、きちんと真っ当に反論するはずだ。
しかし、シリルの予想に反し、ラヴィーナは言われるがままだった。
我慢ならなくなったシリルがラヴィーナの近くに歩み寄ると、彼女の頬はすっかり冷えきっており、もっと早く来るべきだったと内心舌打ちをした。
ジャケットを脱いで着せかけてやると、彼女は小さく息を吐いて、こわばる肩の力を抜いた。
「まさかラヴィーナと付き合っているんですか?」
「いいえ」
すかさず否定したシリルに、「でしょうね」と鼻で笑う男が心底腹立たしく映る。
「何か勘違いされているようですね。私がラヴィーナ嬢に、ぜひお付き合いいただけないかとお願いしているところですよ。なかなかうんとは言っていただけませんが」
はったりだ。そんなお願いはしていない。
けれど、今日はそのつもりで来たから、あながち嘘でもない。
シリルの発言に驚いたのだろう。ラヴィーナがそっとこちらを見上げてくる。
それだけで胸がじんわりと温まるのを感じながら、シリルはカリウスに「……どこかの誰かの不貞のせいで、ひどく傷ついたせいかもしれませんね」と嫌みを言うのを忘れない。
「傷つく? ラヴィにそんな可愛げがあれば……」
「ベルコート君」
シリルは、怒気も嫌悪も隠すことなく男に向ける。
「言葉に気をつけられよ。彼女ほど魅力的で聡明な女性を、私は他に知りません。それと、貴殿とラヴィーナ嬢は既に婚約を解消されたはず。いつまで愛称で呼ぶつもりですか?」
ラヴィーナは、こんなつまらない男に傷つけられていい存在ではない。
侮蔑を込めて言い切ったシリルは、一刻も早く冷えた彼女を暖かな室内へと連れて行きたくて会話を切り上げた。
それなのに。
「……物好きがいてよかったな」
ぶちんと心の中で何かが千切れた音がした気がした。
シリルはすかさず振り向くと、敢えてシルフィーナへと呼びかけた。
「男を見る目は養われたほうがいい。ウィステル伯が悲しまれますよ」
人の恋路に口を挟む気はなかったが、友のためにもこの男の所業は必ず耳に入れてやろうとシリルはひっそりと心に決め、今度こそふたりに背を向けて歩き出した。
室内に戻りホットワインを手渡しても、ラヴィーナの動きはぎこちない。
雪が降るほどの屋外で上着もなく過ごしていたのだから当然だろう。
「助けてくださって、ありがとうございました」
隣に腰を下ろすと、少しだけ震える小さな声でラヴィーナが囁いた。
「……なぜ、言い返さなかったんですか?」
あの男の言い分は、どれもこれも聞くに堪えないものだった。それなのに、一番腹を立てるべきラヴィーナはひとつの反論もなく受け入れていた。それもまた、シリルには腹立たしいことだった。
ラヴィーナは手の中のカップに視線を落としたまま、そっと口を開いた。
「……それだけ嫌な思いをさせていたのかもしれませんし……きっと彼にとって、それが概ね事実なのだろうな、と。まあ、何かを言って、あれ以上長引くのが嫌だっただけっていうのもあるんですけど」
「きみは……」
まだあの男が好きなのか。そう訊きかけて、やめた。訊くまでもない気がしたからだ。
彼女はきっと、まだあの男に心を残しているのだろう。なし崩しに婚約を破棄された彼女の気持ちを思えば、一ヶ月あまりでその傷が癒えたとも思えない。
それなのに、とシリルは思う。自分は今、彼女の傷心につけ込もうとしてる。
それでも、言わずにはいられなかったシリルは思い切って言葉を続けた。
「ところで先ほどの件、いかがですか?」
「先ほどの件? というと?」
「お付き合いの件です。本当にしてしまいませんか?」
「お付き合い……」
「いろいろ話してみて、思ったんです。領地について相談するのに、ラヴィーナ嬢ほどの適任はいない」
きみの聡明さに惹かれたのだ、とは言えなかった。可愛らしいきみを一番近くで見ていたいと、そんな恋愛感情で物を言えば、まだあの男に心を残す彼女が頷いてくれない気がした。
あの男との婚約は破棄され、もう戻ることはない。
彼女は貴族の娘である以上、いつかは誰かと婚姻を結ぶこととなる。そのために彼女は足繁く夜会に通っているのだから。
我ながら狡い言い方だとシリルは自覚していた。今はまだ恋愛感情などなくても、いつか彼女の想いが欠片でも自分に向いてくれたら、それでいい。
「私でよければ、喜んで」
ラヴィーナの柔らかな笑みに、すぐさま抱き締めたい衝動を抑え込んだシリルは、その夜、邸に帰ってからもいつまでも眠りにつくことができなかった。




