第5話 可愛げのいらない生活
「ヴィーちゃん、これ並べてくれる?」
厨房からシーシャの声が響く。
はい! と返事をしたラヴィーナは、ウィンドウを拭く手を止めた。
ベッドが四台並べられるほどの広さの店内。香ばしい香りの満ちるパン屋が、今のラヴィーナの職場だ。
シリルからプロポーズされた日から三ヶ月あまり。季節は冬の終わりへと差し掛かっていた。
今のラヴィーナは、『ラヴィーナ・バークレイ』という貴族の娘ではなく、パン屋で働くただの『ヴィー』だ。
自邸を出たラヴィーナは、隣国に嫁いだ母の妹──アリアナの元へと向かった。
アリアナがバークレイ邸を訪れたことは何度かあるが、ラヴィーナが叔母の元を訪れるのはこれが初めてのことだった。
馬車に揺られること三日間。お尻と腰は痛くなったけれど、馬車から見る初めての景色は、ともすれば沈みそうになるラヴィーナの心を高揚させた。
アリアナは以前から、ラヴィーナは働きに出る方が向いていると、家庭教師や侍女の職をたびたび紹介してくれていた。だから、働き口はすぐに見つかるだろうとラヴィーナは楽観していたのだ。
実際、アリアナの直接の知人にはそのような先はなかったものの、伝手を辿って侍女として住み込める邸がすぐに見つかった。
それが、ラヴィーナが初めて就いた仕事だった。同時に、思い出したくもない仕事だ。
有り体に言えば、表向きは侍女。その実、愛人候補だ。
邸で働く使用人たちが窓や床より自身を磨くことに熱心なことに、ラヴィーナは違和感を覚えていた。領主の妻は、若い庭師だけを伴って出掛けてしまい、日中は帰ってこない。身の回りの世話をすべき女主人の不在の隙に、もう一人の侍女は鏡の前で髪を整えるのに余念がない。
この邸はそこまで身なりに厳しいのかと不思議に思いつつも、ラヴィーナは髪型など常以上に気を配った。
違和感の正体がわかったのは、働き始めて三日目の夜。夜着姿で領主の部屋へ来るように命じられ、ラヴィーナはようやく事態を悟った。
そして、夜明けも待たず、取るものも取りあえず邸を逃げ出したのだ。
夜道を駆けたラヴィーナは、林道に差し掛かってようやく歩調を緩めた。
月明かりが、足下に影を落とす。
いったんアリアナの元に戻るしかないだろうか。アリアナは、知人の紹介だと話していたから、まさかこんな先だと知っていて紹介していたとも思えない。
けれど、寒くて暗い林を怯えながらとぼとぼと歩くうちに、ラヴィーナはなんだかもういろんなことが嫌になってしまった。
可愛さを持たない自分に向けられた求婚は責任と同情でしかなかったし、そこから逃げ出して働きに出てみれば、今度は女としての体を求められる。
ラヴィーナは深く息を吐き、林道の真ん中でうずくまった。
顔を膝に埋めると、冬の夜気が遮断され、吸い込む空気が少しだけ温もって感じる。
ふと、シリルに初めて抱き締められた時のことを思い出す。
少しだけ息が苦しくて、早すぎる鼓動も苦しくて、それなのに、嬉しかった。
最初に求められた役割は、領地改革を共に考えていくパートナー。けれど、抱き締められ、唇を重ね、ついには閨まで共にして、ほんの少しくらいはそこに愛情があるような気がしていたのだ。
だから、あのひと言にみじめになった。
『……絆されたんだ』
だったら、どう言われたら自分は「はい」と頷いただろう。
寒さにふるりと体が震えた。悠長に着替えている余裕などなかったから、コートの下は夜着のままだ。じっとしていれば、体は冷えていく一方だ。
ラヴィーナはぐっと両足に力を入れて立ち上がった。
林の中は相変わらず暗い。それでも、この道が町へと続いていることを知っている。
戻りたくないなら、進むしかない。
ようやく町に着き、まだ薄暗い中、明かりの灯る店を見つけた時には心底ホッとした。
扉の向こうにいた店主のシーシャがラヴィーナの母と同じ年くらいに見える女性だったこともあり、ラヴィーナはなおさら安堵を深めた。
シーシャからすれば、夜着にコートを羽織り、青い顔で入ってきた年頃の娘はさぞや異様に見えただろう。
眉をしかめつつ白湯を振る舞ってくれたシーシャは、邸の主人から手を出されそうになって逃げ出してきたのだと苦笑したラヴィーナに、次の働き口が決まるまでここにいていいと頭を撫でてくれた。
一緒に店をやっていたシーシャの父が亡くなるまでは、親子二人でこの店を経営していたのだという。
ひとりで店をまわすとなると配送などがままならず、ラヴィーナがこの店を訪れた時には、人を雇うか、店を閉めてシーシャ自身が他店で働くかを真剣に検討していた矢先だった。
素人ながらパンが焼けるラヴィーナは、そのままシーシャの店で雇って貰えることとなった。
そうして、ラヴィーナは、背中まであった重い土色の髪をばっさりと肩まで切って、『ヴィー』としての生活を始めた。
今はパン屋の二階の部屋を格安で貸してもらい、そこで寝起きしている。
パン屋の仕事は、なかなかに重労働だ。朝は早いし、昼の食事の時以外はほぼ立ちっぱなしで、厨房で焼き上がったパンを店に並べて売る。
最初の二週間は、夕飯を食べる気力もなく倒れ込むようにベッドに突っ伏して眠ったけれど、今ではそんな生活にもすっかり慣れた。
最近では、ラヴィーナの考案したトマトパンと玉ねぎパンが好評で、給金も増やして貰えた。そろそろ実家に仕送りをする余裕もできそうだ。
トマトパンと玉ねぎパンは、以前シリルのために焼いたパウンドケーキをベースに考えたパンだ。これなら軽食にちょうどいいと笑ってくれた。
シリルは、元気だろうか。
返事を保留にしたまま、逃げるようにここまで来てしまったけれど、考えてみればやはりきちんと返事はしてくるべきだったし、せめて手紙なりを残してくるべきだったかもしれない。
あの時、自分はまったく冷静ではなかったと、今のラヴィーナだからわかる。
でも、何も言わずに隣国に去った。それがきっと彼への答えになっただろう。
「ヴィーちゃん、どうかした?」
シーシャの気遣わしげな声にハッとして、ラヴィーナは「すみません、つい新作のパンについて考えてました」と誤魔化すように笑った。
「あら、素敵。どんなパン?」
「えーと。……蒸したジャガイモをまるごと包んで焼いたパン、とか?」
ラヴィーナが邸にいた頃、パイで試してみたことがあるが、味は悪くなかった。
ただ、まるごとのジャガイモを包むことでやや不揃いになるのと、素朴すぎる見た目が家族にはあまり好評ではなかった。
「まるごと、か……面白いわね。ヴィーちゃんは甘いパンが好きなのに、考えてくれる新作は野菜のパンばかりなのね」
シーシャにすればなんの気なしに言った言葉だろうが、ラヴィーナは指摘されてそれに初めて気づいた。
そういうパンを好むのは、ラヴィーナでなくシリルだ。
「たしかに、そうですね」
誤魔化すように笑みを浮かべると、シーシャは「あとで試しに作ってみましょ」と微笑んだ。
「はい、私も手伝います!」
働きだしてみると、可愛げはなくとも、きちんと仕事をこなせば給金がもらえ、それで生きていくことができるのだということがわかった。
綺麗なドレスも装飾品もない。おいしい菓子をいつでも口にできるというわけでもない。けれど、ここでは一生懸命仕事をすれば「可愛げがない」なんて言われないし、褒められる。そのうえ、あれこれ考えて提案したら、そのまま店に貢献することもできる。
忙しくしていれば、寂しく感じることもない。
ふとした時、家族やシリルのことを思い出し、作業する手が止まってしまっても、忙しさに溶かし込めばそんな寂しさも薄まるのだ。
家族には元気でいると手紙を送っているし、シリルだって、返事もせずに逃げ出した不義理な女など、すぐに忘れてしまうはずだ。
最初から最後までふたりには──少なくともシリルにあったのは、愛情ではなく、同情だった。
もしももう少し可愛げがあったら、自分も彼からの愛情を得られただろうか。
シリルが寝る間を惜しんで自分を探しているなどとは、ラヴィーナは露ほどにも考えてはいなかった。




