第2話 二度目の破棄は行き遅れ
『こんな時に泣きも怒りもしないだなんて、つくづく可愛げがないな』
いつかのカリウス──元婚約者の声が耳に蘇ってくる心地だ。
可愛げがない。本当にその通りだとラヴィーナも思う。
でも、あの時の婚約破棄は衝撃ばかりだったし、今回のシリルの発言は納得感しかなかった。だいたい、シリルについては薄々そうじゃないかと幾度も考えていた通りだったから、やっぱりそうだったかという気持ちの方が大きかった。
それでも、カリウスの時と違うのは、何もしないで座り込んでいたら、声を上げて泣いてしまいそうなところだ。
だから、ラヴィーナは自邸に戻ってすぐに荷造りに取りかかった。
「ねえ、ラヴィ。クレアモント伯とは本当にお別れしたの?」
「……また嫁にも行けずすみません」
荷造りする手を止めて謝ると、ラヴィーナの母は「それはいいのよ。ただ……だからといって、なにも他所の国にまで行くことはないんじゃないかしら」と頬に手をあててため息をついている。
それを横目に見て小さく笑ったラヴィーナは、ゆるりと首を振った。
「アリアナ叔母さまには以前からお誘いいただいていましたし、私も行ってみたいと思っていたのです。侍女なり、家庭教師なりとなれば、私も多少なりとも仕送りをお送りすることもできるはずですから」
家に残れば社交費がかさむ。外で働けば、家に負担をかけずに、わずかでも仕送りはできるはずだ。
なにより、ラヴィーナは来月で21歳になる。貴族の女が21歳で婚約者もいないとなれば、行き遅れ待ったなし。口さがない噂好きの間で、家名に傷がつきかねない。
かといって、同情でしかないプロポーズを受けてみじめな気持ちになるくらいなら、いっそひとりで、自分の力で生きていく方が何倍もマシに思えた。
「仕送りなんていいの。ラヴィはしっかりしているから、きっとどこに行ってもうまくやっていくだろうとも思うのよ。でも、だからこそ、ここに残って、将来オリバーのために力を貸してくれたら安心だわ」
オリバーは、ラヴィーナの五歳下、バークレイ子爵家待望の嫡男だ。
四人目まで女児ばかりだった末に生まれた長男とあって、家中の関心が弟へ移った。それを寂しく思ったのも、今となっては昔のことだ。
「オリバーのためにも、行き遅れの姉がいるなんて体面が悪いです」
「それは……」
母もそこは同意なのか、先の言葉が続かない。
ラヴィーナが軽く肩を竦めて、「私はひとりで大丈夫です。ご存知でしょう?」と笑みを浮かべると、「そうね。ラヴィは強い子だから……でも、手紙はちょうだいな。それから、ちゃんとたまには顔を見せなさい。あなたが大丈夫でも、寂しいわ」と母も力なく笑った。
こんなかたちで家を出ることになるとは、ラヴィーナ自身考えてみたこともなかった。
ほんの一年前までは、嫁に行き、夫を助けて、子を産む。そんな未来を思い描いていたはずなのだ。
あの夜──婚約者の不貞を目の当たりにするまでは。
◇ ◇ ◇
一年前、そろそろ冬への備えを終えようという秋の終わりのこと。
その日、パーティに招かれていたのはすぐ上の姉・ソフィアだった。
ソフィアの親友であるミリアナの誕生日を祝うためのパーティ。
体調を崩したソフィアに代わり、プレゼントを渡してきてほしいという名目ではあったけれど、最近邸に籠もりがちのラヴィーナへの気遣いもあったのだろうと思う。
こういった集まりは基本的にパートナーと共に出席するものだが、ここ最近婚約者が忙しくしていたため、ラヴィーナにとっては久しぶりのパーティだった。
ミリアナの家とは幼い頃から行き来しているし、プレゼントを渡してすぐ帰るくらいなら、ひとりでもそう人目を気にするほどのことはない。そんな軽い気持ちで出掛けたラヴィーナは、他の女性をエスコートするカリウスを目の当たりにして、足を止めた。
彼が他の女性を伴って夜会に参加していたという話は、ラヴィーナの友人から聞いていた。それをカリウスに尋ねると、急遽従妹をエスコートすることになっただけだと、疑うように尋ねるラヴィーナのほうが失礼だと逆に怒られてしまったのは記憶に新しい。
けれど今、顔を寄せて話すふたりは、どこからどう見ても恋人同士のそれだ。
室内の音が、シンと途絶えて感じた。楽士たちの奏でる澄んだ音色も、人々の楽しげなざわめきもその瞬間遠のく。
足が地面に縫い付けられたように動かない。そうして立ち尽くしていると、視線に気づいたのか、カリウスがこちらを見て目を瞠った。隣にいる女性に何事か耳打ちすると、そのままこちらに向かって歩んでくる。
「やあ、ラヴィ。パートナーの姿が見えないようだけれど、まさかひとりで来たのかい?」
カリウスの腕に掴まるようにして立つ女性は年若く、まだ社交界にデビューして間もない少女のようだ。縋るようにカリウスを見て、挨拶をすべきか迷っている。
通常挨拶は、家格の高い者から先に声を掛ける。身分がわからなければ、年長者から。それがマナーだ。
陽光を弾くような金糸のような髪に白い肌。新緑を映すような瞳は愛らしく、会ったことがあれば印象に残らないはずもないほどに可憐だ。
ラヴィーナは彼女がどこの娘かもわからないので、当然身分もわからない。
ほんの数拍待ってみたものの少女からの挨拶はなく、ラヴィーナのほうから「初めまして。ラヴィーナ・バークレイと申します」と丁寧に膝を折った。
「はっ、マナーも知らないのか。お前みたいなのが元婚約者だなんて、恥ずかしい限りだよ」
「……今、なんと?」
「彼女はウィステル伯爵の孫のシルフィーナ嬢だ」
「……シルフィーナ・ウィステルです」
囁くような声で恥ずかしそうに言った少女に、ラヴィーナは「失礼いたしました」と謝罪する。知らなかったのだからマナー違反にはならないが、分かった以上は謝るのが礼儀だと思ったからだ。
しかし、実のところラヴィーナの頭の中はそれどころではない。
元婚約者。カリウスはラヴィーナをそう称した。いつの間に『元』になったのか。
「あ、おじいさま!」
シルフィーナがするりとカリウスの腕を離し、ウィステル伯爵の元へと行ってしまう。
幼げな振る舞いだが、愛らしい子がすれば微笑ましく見えるものなのだな、と頭の片隅でラヴィーナは思う。
「驚きもしないのか。騒ぎたてないところは、褒めてやってもいいがな」
視線をシルフィーナに向けたまま言うカリウスに、ラヴィーナはそっとひとつ深呼吸する。
子爵家から伯爵家に乗り換えた。つまりはそういうことなのだと、すんなり理解できてしまう。そして、新しい婚約相手が伯爵家である以上、バークレイ家ができることなどたかがしれている。
なんにせよ、帰宅したら両親にはすぐに報告しなくてはいけない。
「伯爵家に乗り換えた、という理解でよろしいでしょうか?」
正しく事実を把握するために尋ねたラヴィーナのひと言は、カリウスを怒らせるには充分だったらしい。
途端に顔を真っ赤にしたカリウスは「僕が身分で選んだとでも言いたげだな」と声を荒げ、無駄に耳目を集めてしまうことをラヴィーナは憂えた。
「そのように聞こえてしまったのならお詫び申し上げます。私は、単に事実確認を……」
「この際だからはっきり言っておく。僕がシルフィーナを選んだのは身分じゃない。彼女がお前と違って、女性らしい謙虚さも愛らしさも持ち合わせているからだ」
「……そうですか」
謙虚さはともかくとして、『女性らしい愛らしさ』は確かに自分にはなさそうだな、とラヴィーナは思う。
なにより、ここでこれ以上会話を長引かせても、周囲に話のタネをまき散らすばかりで何もいいことはなさそうだ。
カリウスとの婚約届の取り下げはまだ済んでいない。ベルコート男爵がこのことをどう把握しているか知らないが、両家で手続きに当たらなければならないことだけは確かだ。
楽しくもない手続きに時間をかけることになる煩わしさに、ラヴィーナは深くため息を落とした。それもまた、カリウスの不興を買ったらしい。
「こんな時に泣きも怒りもしないだなんて、つくづく可愛げがないな」
知っている、とラヴィーナは思う。
ラヴィーナは姉妹の中でも容姿が劣る。姉たちはキャラメルやカフェオレ色の柔らかな髪色なのに対して、ラヴィーナのそれは昏い土色で、家族には「ミルクを入れる前に生まれてきたせっかちさんだ」とよくからかわれた。
濃紺の瞳に少し勝ち気に見える吊り目も愛嬌に欠け、幼い頃には祖母に「お前は器量は今ひとつなのだから、せめてきちんと勉強なさい」とよく言われたものだ。
ならば必死で勉強したらいいことがあったかといえば、賢いばかりの女は可愛げがないと評され、ラヴィーナは、結局自分は何をどう頑張っても『可愛い』とか『愛らしい』とはほど遠いのだと悟った。
「正式な手続きは早急にお願いいたします。では、私はこれで」
今日の目的は、ミリアナに誕生日プレゼントを渡すことだ。
祝いの席で、こんな会話がこれ以上人の耳目を集めるなど、あってはならないことだ。
ラヴィーナは揺れそうになる気持ちを、掌を握り込んで堪える。
ソフィアの代理を務めなければいけない。ここに来たのはそのためだ。
胸の内でくり返して、カリウスにゆったりと微笑みかけると、彼は嫌悪露わな眼差しでラヴィーナを睨み付ける。それでも、それ以上何かを言うこともなく背を向けた
翌朝、先触れもなく押しかけてきたベルコート家との間で、婚約は早々に破棄されるに至った。




