第8章:遠い記憶2
夜が深まり、森の奥は冷気と血の匂いに包まれていた。
魔力灯の青白い光が、樹木の影を伸ばしてゆく。
貴族たちの笑い声が、獣の悲鳴と交錯する。
ヴァルドは、護衛としてその惨劇をただ見守るしかなかった。
——そのはずだった。
茂みの奥から、小さな影がよろめき出てくる。
毛皮に覆われた手足、怯え切った瞳。
まだ八歳ほどの獣人の子供だ。
母親を失い、ひとりで逃げ惑っていた。
「……っ!」
その瞬間、森の上空が閃光に包まれた。
高らかに笑う声が、静寂を切り裂く。
「ふふ、見つけたわ。可愛い獣の子……逃げても無駄よ?」
声の主は、緑のドレスを翻した少女——
イリーナ・レイベルン。レイベルン家の長女であり、若くして雷魔法の才を持つ貴族令嬢だった。
黒い長髪が風に舞い、翡翠色の瞳が冷たく光る。
イリーナは指先に魔法陣を描き、詠唱を始めた。
「天裂く雷鳴よ、穢れを焼き尽くせ——《リヴァイン・スパーク》」
眩い雷光が空気を切り裂き、子供の影を照らす。
——その瞬間、ヴァルドの体が勝手に動いた。
彼は地を蹴り、子供を抱きかかえるように飛び出した。
雷光が大地を焦がし、爆風が森を吹き抜けた。
「なにをしているの、愚民?」
イリーナの声は、静かに、だが底冷えするほど高慢だった。
彼女は唇を歪め、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「護衛の分際で、私の“獲物”に手を出すなんて……死にたいの?」
ヴァルドは子供を背後に庇いながら、低く言い返した。
「貴族だろうが誰だろうが、命を弄ぶ権利はない……!」
イリーナの表情が一瞬だけ驚愕に染まったが、
すぐに愉悦の笑みに変わった。
「面白いわ。犬のくせに吠えるなんて。じゃあ、少し躾をしてあげる」
彼女の指先から、稲妻が奔った。
「——《サンダー・ラッシュ》!」
ヴァルドは反射的に剣を抜き、地を蹴って距離を詰めた。
詠唱の隙を突く——それが彼の狙いだった。
「今だッ!」
だが、その瞬間。
詠唱の言葉など一切なく、イリーナの掌から雷光が走った。
ヴァルドの体が硬直し、全身を電撃が貫いた。
「が……あああッ!」
体が焼ける匂い。視界が白く飛ぶ。
彼は地に倒れ、動けなくなった。
「教えてあげるわ、下民。魔法の使用に“詠唱”なんて必要ないの」
イリーナは優雅に髪をかき上げ、微笑んだ。
「詠唱はただの遊びよ。貴族の間で、どれだけ優雅に力を操れるかを見せつけるための“儀式”にすぎないの。残念だったわね?」
彼女はゆっくりと歩み寄り、ヴァルドの前で立ち止まる。
その手を、倒れた彼の頭に当てた。
「じゃあ——もう少し、貴族らしい“心”を分けてあげる」
冷たい魔力が頭の中に流れ込む。
光と闇が混ざり合い、記憶がぐちゃぐちゃに掻き回されていく。
過去の記憶が剥がれ落ち、別の言葉が脳に焼き付く。
> “アーガスノルンに忠誠を誓え。反逆者を許すな。エリス・ノルンを監視せよ——”
雷光が再び弾け、獣人の子供が電撃に包まれて消えた。
焦げた土の上に、ただひとりヴァルドだけが残された。
彼の瞳は、すでに別の者の色をしていた。
かつての理想も、怒りも、悲しみもすべて消え失せて。
イリーナは満足げに笑い、森を背に歩き出す。
「いい子ね。あなた、今日から私の忠実な犬よ」
風が吹き抜け、森に残るのは、焼け焦げた匂いと沈黙だけだった。
この瞬間から、ヴァルドは「アーガスノルンの忠犬」として再生される。
彼の人格は改竄され、やがてエリスを追い詰める“監察官”へと変貌していく。
それは、かつて彼が最も憎んだ貴族社会そのものに、自らが呑み込まれる瞬間でもあった。




