ハイエナのボスであるメスはオス化する(その1)
「やっとお邪魔虫がいなくなった、とでも言わんばかりの顔をしているな、あかね」
あれからしばらくしてハグロがハクメンにいとまごいを告げたため、今庭園にいるのはハクメンとあかねだけだ。案の定、野点のセット一式は印紙で作り出されたものらしく、ハグロはそれらを一枚の札に戻して持ち帰ってしまった。
ハグロが大社を訪れたことに、大層な理由はない。単なる顔見せであり、ちょっとした社交を兼ねたあいさつである。手みやげとして名酒を何本か持ってきたことから、ただの思いつきでないらしい。しかし、お供もつけずにふらりとハクメンの元を訪れるとは、なかなか肝が据わっている。まるで、どこかの守役見習いのようだ。
「別にそんなことありませんけど――――」
ハクメンの言葉は、あかねは身を沈める。今あかねがいるのは、ハクメンの巨大なとぐろの中だ。はた目から見ると大蛇に巻き付かれている、いや正確に言うならば大蛇に押し潰されているようにしか見えない。胴体と胴体の間に挟まるような感じで、あかねはすっぽりととぐろの中に収まっている。
無毒のヘビは獲物に巻き付き、絞め殺してから食べることが多い。一般に言われているように、獲物の骨を砕くことはない。ただ窒息死させるだけだ。しかし、あかねとハクメンのサイズは違いすぎる。ハクメンが口を開けば、絞める必要もなくあかねは一呑みだ。口からするりと食道を通り、胃に一直線である。おやつ代わりにもなりはしない。
生物ならば本能的に恐怖する体勢にもかかわらず、あかねはリラックスしきっている。ハクメンがちょっと力を入れれば、あっさりと全身が粉砕骨折する場所に位置しながら、あかねはまったく怖がっていない。ハクメンを全面的に信頼していると言えば聞こえはいいが、ここまでいくと危機意識の欠如と言われても仕方がない。
「あの人、ハクメン様になれなれしすぎです。ヘビの化外でもないのに、まるで身内みたいじゃないですか」
自分しか許されない、自分しか入ることのできないとぐろの中で、あかねは非難がましい目つきでハクメンの顔を見つめる。鏡を見てから言うべき彼女の言葉に、返ってきたのは案の定ハクメンの大笑だった。
「はははははっ! お前がそれを言うか。よりにもよってお前が!」
身じろぎ一つせずに、ハクメンは大口を開けてさも楽しそうに笑う。身じろぎしないのは、それだけであかねの身が傷つくからだ。豪放磊落に見えて、この白い大蛇は非常に繊細でもある。だが、その笑い声自体は凄まじい。空気はおろか、空間さえも振動させるエネルギーが込められている。
「人の振り見て我が振り直せ、ということわざがあったと思うが?」
ひとしきり笑ってから、ハクメンはとぐろの隙間に入り込んだあかねを見据える。なれなれしいとは、まさにあかねのような人間を指す語だ。ハクメンの巨体を、抱き枕か何かと勘違いしているのだろうか。あかねに言わせれば、こここそが彼女の特等席らしい。
「私はいいんです。身内みたいなものですから」
「お前如きが化外の身内になると豪語するとは、世も末だな。人間は人間、化外は化外。此方から彼方へと気軽に敷居をまたげると思わぬ方が身のためだ」
ハクメンはあかねの思い上がりをたしなめる。その事は常々、ハクメンが危惧している問題でもあった。
実際、あかねは人間でありながら化外と親しみすぎるきらいがある。元より、あかねはほぼ生まれながらに化外を感知する五感を持って生まれている。三枝家の長い歴史を振り返っても、ここまで感覚だけで化外と渡り合っている守役は珍しい。その分、あかねは法術の類はからきし駄目だ。彼女にとって、化外と触れ合うことは本能で行う分野である。
人間には人間の住むべき場所があり、それは化外もまた同じである。むやみやたらと二つの世界を隔てる帳を跳ね上げ、向こう側へ首を突っ込むのは危険だ。あまりに深入りしすぎると、あかねは化外の側に引きずり込まれてしまう。生きながら神隠しに遭うようなものだ。
「いいじゃないですか。とにかく、女の子の心はいろいろと複雑なんです。“隅っこに描いた松虫のこと”なんです」
「“墨絵に描きし松風の音”だ。適当なことを口走るな。お前が無知で愚昧で矮小なのは天地神明に誓って保証するが、好きこのんでそれを喧伝する必要はないのだぞ」
ハクメンの介意などまるで気にかけず、あかねはそんなバカ丸出しなことを言い散らす。
「私がバカでも、ハクメン様がそれで笑ってくれるからいいです」
そして同時に、舌の根の乾かぬうちに、そんな殊勝なこともまた言い始める。あかねのハクメンに対する無条件の信頼は、まるで肉親に対する情そのものだ。
「確かに笑いは妙薬とも言えよう。だが、私とヒトとでは滑稽を感じる箇所が異なるのを忘れるな。お前の家族や朋友に対して同じように振る舞えば、あるいは身の破滅が待っているかもしれないぞ」
やや回りくどいハクメンの物言いに、しばらくあかねは首を傾げていたが、やがて納得したらしく一言でこう要約する。
「笑いのツボが違うってことですか?」
「そういうことだ。せいぜい自重しておけ。笑わせられぬ道化ほど痛々しいものはない」
辛辣なハクメンの言葉に、さすがのあかねも黙ってしまった。ポジティブ思考が服を着て歩いているようなあかねだが、自分の行動が痛々しくなりかねないと思えば、多少自重したくなるだろう。
だが、その沈黙を破ったのは、あかねを黙らせた張本人であるハクメンその人だった。
「――――ふむ。良薬と思って助言したのだが、少々苦すぎたかな」
少し言い方がきつかっただろうか、とハクメンは言っている。あかねを気遣う様子は、まるで彼女の保護者である。よろず柳に風とばかりに受け流すハクメンだが、あかねにだけは妙に甘い。
「そ、そんなことないです。ありがとうございました」
「つまり、よそ事を考えていた、ということか」
慌てて反応するあかねを、ハクメンは動かぬ透明な鱗の向こう側から一瞥する。
「まあ、キツネの動向が気掛かりなのはよいことだ。それでこそ守役よ」
「えへへ。私、がんばってます?」
「見習い風情が調子に乗るな。もう終いにしてもよいのだぞ」
「すみませんもっとよく教えて下さい。後、時間を取り分けて下さって本当にありがとうございます」
今更ながら、あかねはハクメンに感謝する。そもそもあかねは、ジェーニョファミリーと街角組合の喧嘩について、ハクメンから何か助言がもらえないかと思って大社に来たのだ。ハグロが去った後、ここ最近の鬼灯町の情報をハクメンに報告している。
「この近辺にキツネが来るのは、確かに珍しい。鬼灯町は見ての通り私の縄張りに程近い。大社とキツネの組織である廓とは、有り体に言ってしまえば不仲だ。対立する組織の膝元へと、わざわざ足を運ぶ物好きはごく少数だ。奴は、そのごく少数のようだな」
「どうしてそんなに仲が悪いんですか? 昔喧嘩してたとか?」
「否。単に組織の有り様が異なるだけだ」
そう言うと、ハクメンは緩やかに頭をもたげ、あかねから視線を逸らす。
「まず大社。これは私を頂点とし、その下は比較的身分の上下がない」
「みんな仲良しだからですね」
「違う。私以外のすべては有象無象なだけだ。傘下の化外にとって、私さえいれば他はどうにでもなると思っているのだろう」
「すごいじゃないですか。カリスマってことですよね!」
手放しにあかねはハクメンを誉めるが、それは歩けるようになった幼い子供を誉めているような口調だ。語彙が乏しい上に、敬意の欠片もない。単純極まるあかねの思考がそのまま言葉になっているようなもので、当然のことながらハクメンは浮かれる様子など皆無だ。
「どうでもよい。元より、ヘビは群れず集わずまつろわぬもの。ゆるい結束と大まかな権力構造が性に合っているだけだ」
大社の頂点として、配下の無数の化外たちにかしずかれる。権力欲と名誉欲に満ちた人間ならば、垂涎のポジションである。だが、ハクメンにはそんなものなどさして関心はない。ただあるがままに、山の主を務めているだけだ。
「一方、廓は異なる。あの組織は、端から見れば異常なほど確固とした権力構造を有している。それも、完璧な女系社会だ」
「女系社会?」
「そうだ」
ハクメンの口調に、わずかながら混じる感情の変化を、かすかにあかねは感じ取っていた。大抵のことにハクメンは無関心で無感情だが、今は違う。ほんの少しだけ、ハクメンの口調には不快感があった。
「権力、発言、実力、ありとあらゆる点において、キツネの化外の社会は女性の方が男性よりも優位に立っている。事細かな点においてまでな。キツネの高家はいずれも女性が当主であり、女性が政を取り仕切る。男性はまあ、その添え物のようなものだ。家を継ぐために必要な装置でしかないとも言えよう」
ハクメンの弁は淀みない。事実、大社と肩を並べるような組織として、真っ先に挙げられるのはこの廓だ。だからこそ、ハクメンも廓とキツネについて多くの情報を有しているのだろう。万が一廓と事を構えても、その時になって自分たちが無知をさらさないよう、準備にぬかりはない。
「分かるか? 方や一体の化外のみを絶対視し、それ以外についてはどうでもよいと言わんばかりの大社。方や堅固な階級制を作り上げ、女性が男性を徹底的に管理する廓。この二つの組織から生まれた化外が、相容れない思考を有するのもうなずけるだろう」
ぎょろりとハクメンの眼球が動き、瞳孔があかねの方を向く。
「え、ええ。何とかかんとか……」
可哀想なことに、ハクメンの弁舌に流されてあかねは目を白黒させている。まったくの理解不能ではないが、完璧に理解できたとも言い難い。だが、そんないっぱいいっぱいのあかねにさらに追い打ちがかけられる。
「ならば、お前の口で簡潔にまとめてみろ」
「はいぃ!?」
さらに、ハクメンは説明まで求めてきたのだ。
「さあ、遠慮することはないぞ」
ぐっとハクメンの鼻先が、あかねの顔に近づけられる。あかねが本当に理解しているかどうか、確かめる手段としては順当である。あかねの脳裏に、昔新年の祝いに屠蘇が振る舞われたときのことが蘇る。あの時自分は、杯に入れた清酒をハクメンに差し出した。ちょうど、ハクメンと自分とはこんな近距離だったはずだ。
「え、ええと、ええっと……つまり、ハクメン様の大社はハクメン様さえ敬っていれば後は適当でも大丈夫で、ハグロさんがいる廓は、男性差別をするがちがちのピラミッドみたいなところ、って感じ……でしょう……か…………」
過去に現実逃避しようとする意識を奮い立たせ、、あかねはそれなりに答えをまとめる。
「――――よろしい。なかなか飲み込みが早いぞ。それでよい」
幸いなことに、ハクメンの評価は甘口だった。
「だが、廓を悪く言うのはやめておけ。キツネたちは化外の長き歴史の中で、何度も絶滅しかかったのだ。人との骨肉の争い、恐ろしい流行病、さらには深淵に始祖が触れたことによる、始祖の発狂とその伝染…………」
ハクメンの目が遠くを見る。その目には、在りし日の出来事が昨日のそれであるかのように鮮明に見えているのだろう。深淵とは、異界の最も深奥に口を開けた、正体不明の虚空である。キツネの始祖はその深淵をのぞき込み、入り込み、踏み込み、そして文字通り狂った。その狂気は野火の如く伝染し、数多のキツネの化外が後を追うこととなる。
「ありとあらゆる不幸がキツネたちを襲い、その度に今度ばかりはキツネの血も絶えるかと、我々他の化外たちは思ったものよ」
「そんなことがあったんですか。可哀想ですね……」
何も知らないあかねは、ただの子供の感情でキツネの化外たちに同情する。だが、ハクメンは薄く笑う。曇天の下、嵐の前触れで木々が軋むような音だ。
「身の程知らずの詮索好きが、踏み込んではならないところに踏み込んだ結果でもあるがな。だが、奴らは絶えなかった。何としてでも生き延び、血をつなげ、次代に託すため、廓はなりふり構わなかった」
深淵との接触による発狂は、始祖の自業自得である。だが、キツネたちは始祖と心中することをよしとしなかった。文字通り、生き延びることに血道を上げた。
「そのために作り上げたのが廓よ。子を成し、子孫を増やすために女性を徹底的に守り抜き、そのためならば何でもするのが廓の存在意義だ。今の廓の時代錯誤とも言える女尊男卑は、幾度となく襲いかかった災禍をくぐり抜けるために編み出した、キツネたちの生き残る術の名残だな」
それだけ言うと、ハクメンはゆっくりとあかねから顔を離す。さすがにプレッシャーを感じていたのか、あかねの五体から力が抜けた。ハクメンは廓の権力主義をやや不快に思ってはいるが、廓自体を嫌ってはいない。生き延びるために作り上げたピラミッド型の権力構造が、既に形骸化してもなお受け継がれていることを無意味だと思っているだけだ。




