ハイエナのボスであるメスはオス化する(その2)
「だが、そんな幾星霜培ったキツネたちの堅苦しい掟も、どうやらそろそろ崩れつつあるようだな。あのハグロを見れば分かる」
けれども、ハグロのようなピラミッドの内部に収まりきらないキツネも姿を現してきていた。もしかすると、廓の構造が大きく変革する日も案外近いのかもしれない。
「本当に、フランクって言うか、型破りって言うか…………」
ハグロが口の端にのぼり、あかねがすかさずそれに食いついた。
「美人さんでしたよね! 私も大きくなったら、あんなモデル体型になりたいです!」
目を輝かせてあかねは力説するが、あいにく守役にあるまじき発言である。完全にハグロのことを、ただの無害なお客さん扱いだ。
「お前が注目するのは顔と体だけか。守役の役目はどこへ行った。お前が注目するべきは、なぜ今キツネがこの鬼灯町に来て、そして何を行おうとしているかではないのか?」
「……はい、その通りです」
ハクメンにぴしゃりと言われ、あかねは身をすくめる。すぐに落ち込みそうになる辺り、どうもあかねはこのところ情緒不安定である。
「…………私、今回はドジばっかりです。街角組合とジェーニョファミリーが喧嘩していても全然仲直りの機会を作れないし、目の前でカゲフサさんと双子の二人が喧嘩を始めちゃうし、カゲフサさんが撃たれちゃうし、おキヌさんには慰められるし、もう全部裏目に出てる感じなんですよ」
何のことはない。このところジェーニョ兄弟が鬼灯町を引っかき回していることに、あかねもまたほとほと迷惑しているのだ。自分の力量のなさを見せつけられ、落ち込みやすくなるのも無理はない。何といっても、あかねはまだ中学二年生なのである。大人と同じ強靱な精神を求めるのは、どだい無理な相談だ。
「知恵を絞る好機が目白押し、のように私には聞こえるが?」
ハクメンが冗談めかしてそう言うと、あかねはむきになって反論する。
「そんなこと全然ないです! 大変なことばっかりバーゲンセールです! おかしいなあ、どうしてこうなったんだろ。元旦に引いたおみくじは今年も大吉だったのに……」
あかねの発した妙な係助詞に、ハクメンが反応した。
「今年“も”か?」
「ええ。六年連続で大吉引いてるんですよ、私。幸運の持ち主です」
得意そうな顔であかねはアピールする。確かに六年連続で新年に大吉を引くのは幸運と言えるが、それがどうしたとも言える。だからといって、日常生活に何かしら恩恵があるようにも見えないのだが。
「――ということで、この三枝あかね、心を入れ替えて心機一転、これから真面目に一生懸命がんばる所存であります!」
自分が幸運の持ち主だと思い出したからか、あかねは暗い気分を振り払い、ハクメンに対し明るい声でそう宣言する。まるで入学式で新入生代表が読み上げる式辞のような、実に聞こえのよい言葉が散りばめられた宣言である。
あかねの舌がとろけるウイスキーボンボンのような巧言令色に、ハクメンは首をもたげた。想像を絶する重量と筋力が込められた胴体を動かし、とぐろの形を変える。戦艦の砲塔が旋回するかのような迫力がありながら、まったくの無音である。純白の鱗が擦れ合っても、地面を腹板が這っても、一切音が聞こえてこないのは不気味ですらあった。
とぐろが緩められ、自然とあかねはその間に挟まった体勢から、胴体に寄りかかって座るような体勢に変わる。
「ふん――――」
文字に起こすならば二文字。時間にして数秒足らず。その短いため息とも嘲笑ともつかない声だけで、あかねは気づいた。あかねと会話しているときには滅多に見せない感情を、ハクメンは見せている。
それは、一言で言うならば「不機嫌」だ。ハクメンが一切の表情を見せない大蛇でありながら、あかねは彼にして彼女の感情の変化を敏感に感じ取ることができる。あけっぴろげなまでに、ハクメンに心を許しているが故の察しのよさだ。何がハクメンの気に障ったのだろう。あかねは自分の言動を振り返るが、思い当たる節はない。
もっとも、あかねの言動を第三者が見るならば、とうの昔にハクメンに愛想を尽かされてもおかしくないのだが。ただの人間の小娘が、ヘビの化外の頂点に対してまるで友人か肉親のように接しているのだ。だからこそ、そんな不作法をずっと許容してきたハクメンが、今ここで突然立腹する理由が、あかねには分からない。
ハクメンは首をうねらせると、あかねの目の前に顔を寄せる。顔を横に向け、片方の目だけであかねをじっと見つめる。吸い寄せられるようにして、あかねの視線もまたハクメンの眼球へと固定される。淡々と、理解不能の憤りを宿した紅い瞳と漆黒の瞳孔が、こちらを見ている。なぜかその目を見て、あかねの脳裏にまったく異なる映像が思い描かれた。
それは黒い太陽だ。三千大千世界の何もかもを焼き尽す無限大の熱量を有しているにもかかわらず、光を一切放たない暗黒の天体。それは、自らの尾を噛むヘビのとぐろだ。世界に巻き付き、世界を呑み込むヘビの姿。混沌のただ中で燃え盛る、黒い太陽がこちらを凝視している。それこそがハクメンの本質ならば、いったいこの大蛇は何者なのか。
だが、そんな異形の光景はほんの一瞬だけしかかいま見えなかった。
「――ならば、このハクメンが手ずから任じた守役に問おうか」
ハクメンの放つ重たい言葉が、あかねの鼓膜を振るわせたからだ。現実に引き戻されたあかねに、ハクメンはこう言い放った。
「それが、お前の本当にしたいことなのか? それが、お前の本当に望むことなのか?」
とっさに、あかねは二の句が継げなかった。ハクメンが何を言わんとしているのかが、あかねには分からない。いったいどのように答えればいいのか、皆目見当がつかなかった。
「答えはどうした。急に舌が回らなくなったようだな」
「だって、ハクメン様が何を言いたいのか、私分かりませんから」
「愚直なまでに正直だな」
唇を尖らせるあかねから、ハクメンは顔を遠ざけた。虚構の黒い太陽は姿を隠し、現世の明るい太陽の光があかねの顔に差し込む。
「だが、それでよいのだ。お前のその蒙昧な有り様、先程の放言よりよほど人として正しいぞ」
あかねはなおも首を傾げる。ハクメンはあかねの宣言が相当気に食わなかったらしいが、それがなぜかあかねには分からない。
「まあよい。次会うときまでの課題としよう。私の問いに良き返答があること、期待しているぞ」
ハクメンの機嫌は、急速にフラットな状態へと戻っていく。雨から晴れへ、晴れから雨へと急変する山の天候のようだ。一方的にそう言われ、あかねはうなずくしかなかった。
どうやら、「本当にしたいこと」と「本当に望むこと」に対する自分なりの答えを、ハクメンに提出しなければならないようだ。
「ハクメン様ってなんだか…………」
そこまで言いかけて、あかねは口を閉じる。
「何だ?」
「いえ、やっぱりいいです」
「そうやって中途で途切れさせられると、かえって気になるな。何を言おうとしたのだ?」
「だから、やっぱりいいですってば。詮索しないで下さい」
ハクメンが不機嫌な様子を見せなければ、あかねはその先を口にしただろう。けれども、あかねは今ハクメンをこれ以上刺激したくなかった。だが、普段あけすけな彼女が口ごもることで、なおさらハクメンは興味ををそそられたらしい。
「お前程度が私に隠し事とは笑えぬな。いつもの口の軽さはどうした」
「秘密です秘密。聞いちゃ駄目なんです」
ハクメンは爬虫類特有の執念深さで、なおもあかねの言いかけた言葉の続きに執着する。
「……怒りませんか?」
「事と次第によるな」
「……今怒ってるから言いたくありません」
「私は怒ってなどいないぞ」
「いいえ、今怒ってます! 機嫌悪いです!」
とうとうそっぽを向いてしまったあかねに、ハクメンは呆れたように鼻から息を吐く。
「そこまで頑なならば仕方がない。詮索は止めだ。遠慮なく胸の内にしまっておけ」
そう言うなり、ハクメンもそっぽを向いてしまった。それぞれの顔が、別々の方向を向く。
生じた沈黙はいとも短かかった。
「……別に、教えてあげてもいいですけど」
「もう興味が失せたな」
「早すぎですよぉ。少しくらい興味持って下さい」
「私は移り気なのでな」
「移り気でもヤドリギでも構いませんから聞いて下さい。ねえ、聞いて下さいってば!」
「やかましい。無理強いして気を惹こうとするなど悪手にも程があるぞ」
とうとうハクメンの胴体に手をかけて揺すり始めるあかねに、ついにハクメンの方が折れた。
「それで、何を言おうとしたのだ?」
無理矢理話をねじ曲げて元に戻したハクメンに、ようやくあかねは小さく呟く。
「…………ハクメン様って、なんだか担任の先生みたいなこと言うな、って思っただけです」
「先生だと?」
全長三十メートルを超える大蛇を教師に例えるとは、あかねの発想の意外さにハクメンはあ然としている。
「課題を出すところがそっくりですよ。なんだか、学校で先生から宿題を出されたみたいです」
悪びれもせずにあかねは、さらにそう続ける。あかねにとって、ハクメンの問いかけはあたかも学校で突然出された宿題のようなものだった。
ややあって、地鳴りのような重たい腹に響く音が周囲の空気を振動させる。
「はははっ。私の問いはお前にとっては学業のようなものか」
それはハクメンの笑いだ。耳にするだけで正気を喰らうようなその恐ろしい響きは、あかねにとってはネコが喉を鳴らすそれと変わらない。むしろ、あかねはやっとハクメンの機嫌が直ったと安心さえしていた。
怒れば不機嫌、笑えば上機嫌。あかねがハクメンの感情を推し量る方法は、あまりにも単純だ。
「だが、このハクメンに示すべき答えは、ただ単に筆記帳に正答を書き写したものではないぞ」
ハクメンはそう言うと、守役との会話を締めくくる。
「私の問いに対する答え。お前のその、拙くも滑稽な生き方そのもので見せてもらおうではないか」




