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7/10

悪くない

 水が走った。


 出口が開いた瞬間、ガルドは地面に手を当てていた。土魔法を通して、水が動き出す感触が来た。低地の縁に向かって——水が東に向かって流れ始めた。


 (動いた)


 立ち上がった。溝の縁から出口の方向を見た。地表の水路の終端、石の内壁で固めた区間の先に、細い水の線が光っていた。


 激流ではない。滲むような流れだった。だが確かに南に向かって動いていた。


 「……出てる」


 シオが小声で言った。


 カリが手を止めた。ダンが出口の方向を見た。


 誰も声を出さなかった。


 水が、南に向かって流れていた。




 「水路を確認する」


 ガルドはそれだけ言って歩き始めた。


 第一区画から第四区画まで、全四十二間の排水路。出口まで繋がった経路を端から端まで歩いた。


 傾斜に問題はなかった。水が各区画を通って滞らず、低地の縁まで向かっていた。透水層から滲んだ水と地表を流れる水が、出口で合流していた。


 (設計通りだ)


 水面が一寸七分の傾斜で、低地に向かって薄く流れていた。


 「クルト」


 「はい」


 「今の状態を記録してくれ。全区画開通、水流を南方向に確認。表面流量と各区画の傾斜を記録してくれ」


 「……記録します」


 クルトの声が一拍遅かった。いつもより間があった。手帳を開く手も、少し止まっていた。




 出口が開いたのを見た者が、誰かに伝えた。それが繰り返された。


 一時間もしないうちに、城壁の周囲に人が集まっていた。農地で働いていた者たち。普段は城壁の外に来ない者たちも来ていた。


 みんな出口の方を見ていた。


 細い水の流れ。南に向かって続く水の線。


 「水が——」


 「動いてる」


 「城壁の外に出てるぞ」


 「何かやったのか」


 ガルドは気にしなかった。施工済みの区間を測量杭で再確認していた。傾斜の数値を最終記録する。


 「ガルド様」


 シオが来た。走ってきたらしく、息が少し荒かった。


 「みんな出口のところに集まってます」


 「ああ」


 「水が流れてるのを見てます。みんな何が起きてるかわかってないみたいで——」


 「完成したら水が流れると言った」


 「言いましたけど——見てる方は、なんか、すごく驚いてますよ」


 「完成してから言え、と言った。これが完成だ」


 シオが少し黙った。それから小さく笑った。




 エドワン老が来た。


 クルトが先に走り、領主の来訪を告げた。


 七十近い老人が、城壁の外を歩いてきた。珍しかった。排水設計を聞きに来た一度以来、この場所まで出てきたことはなかった。


 人垣が割れた。


 エドワンが出口の方向を見た。水が流れていた。次に排水路の全体を見た。それから城壁の東側に目を向けた。


 ガルドは測量杭を置いて向かった。


 「出口まで繋がりました」


 「……そうか」


 エドワンが低く言った。


 「水が南に流れている」


 「設計通りです。城壁の北側への水圧が落ちます。地盤の含水量が下がれば傾きが止まります。完全に安定するには時間がかかりますが」


 「わかった」


 エドワンが水路を見たまま、しばらく黙っていた。


 集まった人たちが水の流れを見ていた。誰かが手を水路に浸けた。「冷たい」と言った。誰かが笑った。


 エドワンが視線を水路から外した。


 ガルドを見た。


 それから——深く頭を下げた。


 ガルドは少し間を置いた。


 (下げるのか)


 「頭を下げなくていいです。依頼された仕事をしただけです」


 「……そういうわけにはいかん」


 エドワンが頭を上げた。目が赤かった。泣いているのかと思ったが、そういう顔ではなかった。


 水の方に目を向けたまま、何かを探しているような間があった。


 「三十年、この城壁を見てきた。何をしても変わらなかった」


 「地盤が原因でした。地盤を直せば変わります」


 「言葉で言うのは簡単だが、誰も気づかなかった」


 「気づかなかったんじゃなくて、調べなかった。調べれば分かる、調べなければ分からない」


 エドワンが「そうか」と言った。それ以上は言わなかった。


 少し離れた場所で、トゲが水路を見ていた。


 レンと並んで、何かを話していたが、ガルドには聞こえなかった。


 (何を言っているかは、どちらでもいい)




 「ガルド様、完成の記録が取れました」


 クルトが来た。手帳を持っていた。


 「ありがとう。次の段取りを始める」


 クルトが少し固まった。


 「次の——排水路が完成したばかりで——」


 「道路だ」


 「道路、ですか」


 「水没している区間が三カ所ある。排水が変わったことで状況が変わるかもしれないが、基礎から直す必要がある区間もある。測量が必要だ」


 「今日から、ですか」


 「段取りだけだ。測量は明日から始める。今日は記録の整理をしてくれ」


 「……わかりました」


 クルトが手帳に何か書き始めた。「記録の整理」のつもりが「道路の段取り」を書いているような顔だった。


 「あと」


 クルトが手を止めた。


 「石材の在庫を確認してくれ。第四区画の出口工事で使った在庫の残りを把握しておきたい。道路の一部は石の基礎が必要になる」


 「材木屋に確認すればよいですか」


 「石材の在庫がある業者を当たってくれ。今日中でなくていい。明日の測量から先に始める」


 「わかりました」


 クルトが走り始めた。手帳を開いたまま走っているので、字が読めるかどうかはわからなかった。




 夕刻前、人が引き始めた頃、シオが来た。


 「ガルド様」


 「何だ」


 「弟子にしてください」


 ガルドは測量杭を置いた。シオを見た。


 「弟子は取らない」


 「でも——」


 「俺は職人じゃない。土木の施工者だ。弟子という形では教えられない」


 「じゃあ施工者の見習いとして」


 「それも取らない」


 シオが少し黙った。


 「じゃあ、勝手についてきます」


 「……」


 「現場に来て、見て、測量を手伝って——それなら許可はいりませんよね。現場には誰でも来ていいんですよね」


 ガルドは少し間を置いた。


 (いつからこういう言い方をするようになった)


 「測量の手順は体に入っているか」


 「第三区画まで全部やりました」


 「深さの読み間違いは」


 「一度、第二区画の後半で目盛りを読み違えました。すぐ気づいて修正しました」


 「道具の手入れは」


 「毎日やってます。杭の先端が錆びていたら削って補正します」


 ガルドはしばらくシオを見た。


 「道路の測量は三日かかる。来るなら朝の六の刻に来い。遅れたら置いていく」


 シオが「わかりました」と言った。


 「弟子という話は終わりだ」


 「はい」


 「はい」と言ったが、顔は全然別の返事をしていた。


 (気にしない)


 ガルドは次の測量点に向かった。




 夜になってから、ガルドは一人で出口の場所に戻った。


 月が出ていた。沼地の夜は霧が出ることが多いが、今夜は薄かった。雨の後の地盤が水を引き込んでいるせいかもしれない。


 水の音がした。


 細い音だった。激流でも、川の流れでもない。水が低地に向かって滲んでいく、かすかな音だった。


 排水路の完成体。全四十二間の水路と十二間の透水層。城壁の北側の地下水脈を逆向きに変えた地下の構造。


 見えるのは水路だけだ。地下の施工は見えない。だが結果は出ている。水が動いている。


 (前世では何本の水路を引いたか)


 川の改修、低地の排水、農業用水の整備——前世では、これより何倍も大きい施工を何十本もやった。この世界の、この規模の排水路は、前世の基準なら小さな現場だった。


 (だが)


 ここには、前世になかったものがある。


 この設計で農地が変わる。城壁が安定する。あの老領主が頭を下げた。


 (前世では完成しても誰も頭を下げなかった。当たり前のことをやったからだ。ここでは当たり前のことが当たり前ではない)


 水が流れていた。


 沼地の中を、水が南の低地に向かって流れていた。


 ガルドは水路の縁に立ったまま、しばらくそれを見ていた。


 何かを言おうとして、やめた。


 声にならなかった。


 水の音だけがあった。


 (……悪くない)


 そう思った。思うだけにした。


 明日からは道路だ。測量をして、問題箇所を洗い出して、段取りを始める。排水が変わったことで道路の状況がどれだけ変わるか、まず確かめる。


 「段取り八分——」


 つぶやいて、止めた。


 聞いている者はいない。


 夜の沼地で、水の音だけが続いていた。



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