悪くない
水が走った。
出口が開いた瞬間、ガルドは地面に手を当てていた。土魔法を通して、水が動き出す感触が来た。低地の縁に向かって——水が東に向かって流れ始めた。
(動いた)
立ち上がった。溝の縁から出口の方向を見た。地表の水路の終端、石の内壁で固めた区間の先に、細い水の線が光っていた。
激流ではない。滲むような流れだった。だが確かに南に向かって動いていた。
「……出てる」
シオが小声で言った。
カリが手を止めた。ダンが出口の方向を見た。
誰も声を出さなかった。
水が、南に向かって流れていた。
「水路を確認する」
ガルドはそれだけ言って歩き始めた。
第一区画から第四区画まで、全四十二間の排水路。出口まで繋がった経路を端から端まで歩いた。
傾斜に問題はなかった。水が各区画を通って滞らず、低地の縁まで向かっていた。透水層から滲んだ水と地表を流れる水が、出口で合流していた。
(設計通りだ)
水面が一寸七分の傾斜で、低地に向かって薄く流れていた。
「クルト」
「はい」
「今の状態を記録してくれ。全区画開通、水流を南方向に確認。表面流量と各区画の傾斜を記録してくれ」
「……記録します」
クルトの声が一拍遅かった。いつもより間があった。手帳を開く手も、少し止まっていた。
出口が開いたのを見た者が、誰かに伝えた。それが繰り返された。
一時間もしないうちに、城壁の周囲に人が集まっていた。農地で働いていた者たち。普段は城壁の外に来ない者たちも来ていた。
みんな出口の方を見ていた。
細い水の流れ。南に向かって続く水の線。
「水が——」
「動いてる」
「城壁の外に出てるぞ」
「何かやったのか」
ガルドは気にしなかった。施工済みの区間を測量杭で再確認していた。傾斜の数値を最終記録する。
「ガルド様」
シオが来た。走ってきたらしく、息が少し荒かった。
「みんな出口のところに集まってます」
「ああ」
「水が流れてるのを見てます。みんな何が起きてるかわかってないみたいで——」
「完成したら水が流れると言った」
「言いましたけど——見てる方は、なんか、すごく驚いてますよ」
「完成してから言え、と言った。これが完成だ」
シオが少し黙った。それから小さく笑った。
エドワン老が来た。
クルトが先に走り、領主の来訪を告げた。
七十近い老人が、城壁の外を歩いてきた。珍しかった。排水設計を聞きに来た一度以来、この場所まで出てきたことはなかった。
人垣が割れた。
エドワンが出口の方向を見た。水が流れていた。次に排水路の全体を見た。それから城壁の東側に目を向けた。
ガルドは測量杭を置いて向かった。
「出口まで繋がりました」
「……そうか」
エドワンが低く言った。
「水が南に流れている」
「設計通りです。城壁の北側への水圧が落ちます。地盤の含水量が下がれば傾きが止まります。完全に安定するには時間がかかりますが」
「わかった」
エドワンが水路を見たまま、しばらく黙っていた。
集まった人たちが水の流れを見ていた。誰かが手を水路に浸けた。「冷たい」と言った。誰かが笑った。
エドワンが視線を水路から外した。
ガルドを見た。
それから——深く頭を下げた。
ガルドは少し間を置いた。
(下げるのか)
「頭を下げなくていいです。依頼された仕事をしただけです」
「……そういうわけにはいかん」
エドワンが頭を上げた。目が赤かった。泣いているのかと思ったが、そういう顔ではなかった。
水の方に目を向けたまま、何かを探しているような間があった。
「三十年、この城壁を見てきた。何をしても変わらなかった」
「地盤が原因でした。地盤を直せば変わります」
「言葉で言うのは簡単だが、誰も気づかなかった」
「気づかなかったんじゃなくて、調べなかった。調べれば分かる、調べなければ分からない」
エドワンが「そうか」と言った。それ以上は言わなかった。
少し離れた場所で、トゲが水路を見ていた。
レンと並んで、何かを話していたが、ガルドには聞こえなかった。
(何を言っているかは、どちらでもいい)
「ガルド様、完成の記録が取れました」
クルトが来た。手帳を持っていた。
「ありがとう。次の段取りを始める」
クルトが少し固まった。
「次の——排水路が完成したばかりで——」
「道路だ」
「道路、ですか」
「水没している区間が三カ所ある。排水が変わったことで状況が変わるかもしれないが、基礎から直す必要がある区間もある。測量が必要だ」
「今日から、ですか」
「段取りだけだ。測量は明日から始める。今日は記録の整理をしてくれ」
「……わかりました」
クルトが手帳に何か書き始めた。「記録の整理」のつもりが「道路の段取り」を書いているような顔だった。
「あと」
クルトが手を止めた。
「石材の在庫を確認してくれ。第四区画の出口工事で使った在庫の残りを把握しておきたい。道路の一部は石の基礎が必要になる」
「材木屋に確認すればよいですか」
「石材の在庫がある業者を当たってくれ。今日中でなくていい。明日の測量から先に始める」
「わかりました」
クルトが走り始めた。手帳を開いたまま走っているので、字が読めるかどうかはわからなかった。
夕刻前、人が引き始めた頃、シオが来た。
「ガルド様」
「何だ」
「弟子にしてください」
ガルドは測量杭を置いた。シオを見た。
「弟子は取らない」
「でも——」
「俺は職人じゃない。土木の施工者だ。弟子という形では教えられない」
「じゃあ施工者の見習いとして」
「それも取らない」
シオが少し黙った。
「じゃあ、勝手についてきます」
「……」
「現場に来て、見て、測量を手伝って——それなら許可はいりませんよね。現場には誰でも来ていいんですよね」
ガルドは少し間を置いた。
(いつからこういう言い方をするようになった)
「測量の手順は体に入っているか」
「第三区画まで全部やりました」
「深さの読み間違いは」
「一度、第二区画の後半で目盛りを読み違えました。すぐ気づいて修正しました」
「道具の手入れは」
「毎日やってます。杭の先端が錆びていたら削って補正します」
ガルドはしばらくシオを見た。
「道路の測量は三日かかる。来るなら朝の六の刻に来い。遅れたら置いていく」
シオが「わかりました」と言った。
「弟子という話は終わりだ」
「はい」
「はい」と言ったが、顔は全然別の返事をしていた。
(気にしない)
ガルドは次の測量点に向かった。
夜になってから、ガルドは一人で出口の場所に戻った。
月が出ていた。沼地の夜は霧が出ることが多いが、今夜は薄かった。雨の後の地盤が水を引き込んでいるせいかもしれない。
水の音がした。
細い音だった。激流でも、川の流れでもない。水が低地に向かって滲んでいく、かすかな音だった。
排水路の完成体。全四十二間の水路と十二間の透水層。城壁の北側の地下水脈を逆向きに変えた地下の構造。
見えるのは水路だけだ。地下の施工は見えない。だが結果は出ている。水が動いている。
(前世では何本の水路を引いたか)
川の改修、低地の排水、農業用水の整備——前世では、これより何倍も大きい施工を何十本もやった。この世界の、この規模の排水路は、前世の基準なら小さな現場だった。
(だが)
ここには、前世になかったものがある。
この設計で農地が変わる。城壁が安定する。あの老領主が頭を下げた。
(前世では完成しても誰も頭を下げなかった。当たり前のことをやったからだ。ここでは当たり前のことが当たり前ではない)
水が流れていた。
沼地の中を、水が南の低地に向かって流れていた。
ガルドは水路の縁に立ったまま、しばらくそれを見ていた。
何かを言おうとして、やめた。
声にならなかった。
水の音だけがあった。
(……悪くない)
そう思った。思うだけにした。
明日からは道路だ。測量をして、問題箇所を洗い出して、段取りを始める。排水が変わったことで道路の状況がどれだけ変わるか、まず確かめる。
「段取り八分——」
つぶやいて、止めた。
聞いている者はいない。
夜の沼地で、水の音だけが続いていた。




