表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/9

水の流れを逆にする

 「ここが、逆です」


 ガルドが指差したのは、泥の中の小さな湿った染みだった。誰も何も言わなかった。


 職人の一人が、首を傾けた。




 試し掘りは朝から始めた。


 城壁の北側、壁面から一間離れた地点。職人二人がスコップを手に立っていた。ガルドとクルト、それからシオ。昨日「来ます」と言った通り、少年は朝に来ていた。


 「どの深さまで掘ればいいんですか」


 シオが聞いた。


 「二尺でいい。まず俺が土魔法で感触を取る」


 ガルドはしゃがんで地面に手のひらをついた。土魔法を通す。土中の密度が手に伝わってくる。やはり城壁の真下から連続する硬さだった。表層の柔らかい部分が薄い。その下が——


 (水が流れている)


 確かめた。水分の動きが、感触として出る。だがその向きが、おかしかった。


 「掘ってくれ。二尺でいい」


 職人二人がスコップを入れた。柔らかい表層はすぐ終わった。そこから先は固かったが、掘れた。石ではなかった。密度が高い粘土だった。


 一尺半ほど掘ったところで水が滲み始めた。


 「止めてくれ」


 ガルドが穴を覗き込んだ。滲み方を見た。水は静かに出てきているが、一方向に寄っていた。


 穴の南側の壁面から染み出している。


 (南から来ている)


 「クルト、記録してくれ。水の染み出し方向は南。深さは一尺半。地盤はこの深さで高密度の粘土に変わる」


 「……南から、ですか」


 「そうだ」


 「南というのは——」


 「水が北から南に向かって流れているのではなく、南から北へ逆に流れている、ということだ」


 クルトの手が止まった。


 「……逆に、流れている?」




 「集まってくれ」


 ガルドは立ち上がり、穴から数歩離れた。職人二人、クルト、シオが集まった。


 「この沼地の水は、見た目には北から南に流れているように見える。だが地下では逆だ。南から北へ流れている」


 「それって……」


 シオが言いかけて、口を閉じた。


 年かさの職人——昨日も話した男で、名をダンといった——が腕を組んだ。


 「逆に流れているとして、それが城壁と何の関係がある」


 「地下水が北へ向かって流れる。城壁の北側の地盤を下から水が押す。だから北側の城壁が傾く。地盤の表層が剥がれていくのは、水が持ち上げているからだ」


 「……」


 ダンが穴を見た。


 「だから城壁の真下が硬かったのか。水に洗われて、細かい土だけが流れ出て、重い粒子が残った」


 「正確には少し違うが、大筋はそうだ」


 ダンが短く「ほう」と言った。


 もう一人の職人——若い方でカリという名だった——が眉を寄せた。


 「それで、どうするんですか。地下水を止めるのか」


 「止める必要はない。向きを変える」


 「……向きを変える?」


 「水を北ではなく、東か西に逃がす排水路を作る。地下水の向きをコントロールすることで、城壁の地盤への圧力をなくす」


 「地下水の向きを、変えるんですか」


 「そうだ」


 カリとダンが顔を見合わせた。




 「水の流れを逆にする、という話ですが」


 クルトが手帳から顔を上げた。


 「……逆に、というのは。逆にするとはどういう意味で」


 「今は北向きに流れている地下水を、別方向に流れるよう排水路で誘導する。水が抵抗の少ない方向に自然に移動する性質を利用する」


 「……はあ」


 「流れを止めるのではなく、出口を替える。北への出口を塞いで、東への出口を作る。水は自然に東に流れる」


 「……」


 クルトの顔が「わかったようなわからないような」という表情だった。


 「つまり——水路を作る、ということですか」


 「作る。ただし、今ある水路の逆向きに作る」


 「逆向き」


 「今ある水路は北に向かっている。新しく作るのは東か西に向かう水路だ。地下水をその方向に引き込む」


 「東か西に向かう水路を作れば、地下水がそちらに流れる……」


 「そうなるように設計する」


 クルトがまたメモを書いた。ガルドは待った。


 「……すみません。もう一度確認させてください。今ある水路の、向きが逆、というのは」


 (この説明を言葉だけでわかれと言うほうが無理だ)


 「描いた方が早い」


 ガルドは棒を拾った。




 地面を見た。


 広さが必要だった。この場所では小さい。


 ガルドは城壁から五間ほど離れた空き地に向かった。全員がついてきた。


 「ここでいい」


 ガルドは地面に棒の先を当て、線を引き始めた。まず城壁の外形。縦に長い長方形。北を上にした。


 「これが城壁の全体だ」


 「……大きく描くんですね」


 シオが言った。


 「歩いて確認できる大きさで描く。紙に描いても実感が掴めない」


 「……記録には紙の方が」


 「後で清書する」


 クルトが何か言いかけたが、ガルドはすでに次の線を引いていた。


 城壁の内側に点線を描く。水が地下を通る経路の想像図だ。南から入って北に向かう矢印。


 「これが今の地下水の流れだ。南から入って、北の地盤を押している。北側の城壁の下を水が通る」


 ダンが頷いた。


 「それは今の説明でわかった」


 「次。今の排水路だ」


 城壁の外側に細い線を描く。北向きに伸びる線。


 「今の水路はこう——北向きだ。表面の水を北に流そうとしている。だが地下水は南から来ているから、北に流そうとする水路に逆らって水が入ってくる。水路が機能しない」


 「……排水路が、逆方向ということか」


 ダンの声が変わった。


 「そうだ。水が来る方向に向かって排水しようとしている。だから水が溜まる。城壁が水没する」


 「なんで、そんな水路を最初に作った」


 「地下水の向きを調べなかったからだ」


 ダンが黙った。


 ガルドは続けた。


 「正しい排水路はこうなる」


 城壁の東側に沿って、縦に線を引いた。東に向けて伸びる水路の図。


 「東向きの排水路を作る。地下水を東側の低地に向けて誘導する。地下水が東に流れ始めれば、城壁の北側への圧力がなくなる」


 「東に向けて」


 「そうだ。水は低い方に流れる。東の端は今より一尺低い。誘導路を作れば自然に流れる」


 「——」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 全員が地面の図を見ていた。


 シオが図の中に描かれた矢印を目で追っていた。南から来る線、北へ向かう今の流れ、東に向かう新しい線。


 「じゃあ」


 シオが言った。


 「今の水路は——全部、向きが逆ってことですか」


 「そうだ」


 「全部、掘り直しになる」


 「そうなる」


 シオが「ああ」と小さく声を出した。驚いたような、合点がいったような声だった。


 カリが首を振った。


 「待ってください。水の向きを変えるって……地下の水は止められないでしょう。水は勝手に流れる。どうやって東に向けるんです」


 「地下の排水層を作る」


 「はい?」


 「土魔法で地盤の特定の層に透水性を持たせる。東向きに細い通路を作る。水は抵抗の少ない方向に移動する。北への通路を土魔法で圧縮して透水性を下げ、東への透水層を開けば、水は東に流れる」


 「……土魔法で、地盤の中に通路を作るんですか」


 「そうだ」


 カリがまた黙った。


 ダンが地面の図を再度見た。


 「……土魔法でそれができるなら、話はわかる。ただ、俺たちは石工だ。土魔法は使えない。俺たちが何をすることになる」


 「表面の排水路の掘削だ。東向きの水路を地表に開く。東の低地まで、一定の傾斜を保って掘る。計算した傾斜で掘るには、測量が必要だ。それは俺がやる。掘削は石工に頼む」


 「測量に合わせて掘る、ということか」


 「そうだ。傾斜を一箇所でも外したら水が途中で止まる。均一に掘れないなら掘り直しだ」


 ダンが短く頷いた。




 「ガルド様」


 シオが近づいてきた。全員が少し離れて話しているタイミングだった。


 「なんだ」


 「この排水路、東の低地に水を流した後——その水はどこに行くんですか」


 ガルドはシオを見た。


 (聞いていたか)


 「東の低地は今は湿地だ。そこに集めた後、さらに南の沼に抜ける水路を別に作る」


 「三段階ですね。地下の透水層で方向を変えて、表面の水路で東に流して、東から南の沼に抜く」


 「そうだ」


 シオが地面の図を見た。考えているときの顔——昨日も見た、視線が動く前に一度止まる顔——をしていた。


 「その設計を見せてもらえますか。地図に描いたやつ」


 「今から描く。手伝え」


 シオの顔が変わった。「手伝う」という言葉に驚いたような、一瞬何が起きたかわからないような顔をして、それから「はい」と言った。




 ガルドは地面の図を広げた。


 城壁の全体図に、今度は東の低地までの距離を加えた。測量した数値を思い出しながら、歩幅で図の縮尺を調整する。五間を一尺として描く。


 「これが東の低地の境目だ」


 棒で線を引く。


 「ここから城壁東側の排水路の終点まで、距離が——シオ、俺が言う数字を地面に書け。土に書いていい」


 「はい」


 「東壁の外から低地の縁まで十二間。そこから南の沼まで二十間。高低差は全体で一尺八寸だ」


 シオが棒を持って数字を書き始めた。文字は少し崩れていたが読めた。


 「高低差一尺八寸を三十二間で割ると——」


 「十八で割ります。一尺が十八等分に対して三十二間だから——」


 シオが止まった。計算しようとして詰まっていた。


 「傾斜は約一寸七分で一間。百分の一を少し上回る」


 「……計算が速いんですね」


 「慣れだ」


 「なんで慣れてるんですか」


 「現場でやっていた」


 シオは少し黙ってから「そうですか」と言った。


 ダンが近づいてきた。


 「その傾斜で掘れということか」


 「そうだ。一間進むたびに一寸七分、地面を下げていく。均一に下がっていないと水が途中で止まる」


 「均一に、か。測りながら掘るのか」


 「測量杭を打つ。俺が深さを測りながら指示する」


 「——わかった」


 ダンが「まあ、やってみよう」という顔をした。完全に信頼しているわけではないが、話は聞く気になった——という顔だった。


 (それでいい。最後まで疑うなら完成を見ればわかる)




 図が完成した頃、クルトが戻ってきた。


 「あの——領主様から、お呼びがかかっています」


 「今、図を描いているところだ」


 「それは存じておりますが、エドワン様が……その、今の工事の状況を聞きたいと仰って」


 「工事はまだ始まっていない。段取りの最中だと伝えてくれ」


 「伝えましたが、段取りの話を聞きたい、と」


 ガルドは手を止めた。


 「今日中に行けるか」


 「昼過ぎには」


 「午後の調査を終えてから行く」


 「わかりました。そのようにお伝えします」


 クルトが戻ろうとしたところで、ダンが声をかけた。


 「領主様は、今の工事の話をするのか」


 「排水設計の方針を説明することになる」


 「……また「水の流れを逆にする」の話をするのか」


 「そうなる」


 ダンが苦笑いに近い顔をした。


 「あの話、俺はやっと半分わかったところだ。領主様に伝わるかな」


 「図を見せれば、わかる」


 「領主様の前で地面に図を描くのか」


 「もちろん」


 「……そうか」


 ダンはそれ以上何も言わなかった。




 シオが地面の図の前に残っていた。


 ガルドが傾斜の計算を図に書き加えている間、シオは一箇所を指で押さえていた。


 「ガルド様」


 「なんだ」


 「透水層——土魔法で地盤に作る通路ですが」


 「ああ」


 「その部分は、石工には見えないんですよね。全部土の中で起きていることで」


 「そうだ」


 「じゃあ、それが正しく機能しているかどうかは、どこで確認するんですか」


 ガルドは手を止めた。


 シオを見た。


 少年は真剣な顔をしていた。「難癖をつけている」のではなく、本当に気になっているという顔だった。


 (正しい問いだ)


 「穴を掘る。東向きに透水層を作った後、北側に水が溜まるかどうかを試す。溜まらなければ機能している。溜まれば調整する」


 「試してから本工事ということですか」


 「そうだ。段取りの一部だ」


 「……地盤調査も試し掘りも、全部段取りなんですね」


 「そうだ」


 シオが「段取り八分、仕事二分」と小声で繰り返した。昨日、職人たちとの話で聞いた言葉だった。


 「そういうことです、ということですか」


 「そういうことだ」


 シオが図を見て、また考える顔をした。


 「もう一つ聞いていいですか」


 「短くな」


 「透水層を作るとき——土魔法で地盤の向きを変えるということですが、今まで北向きだった水が、本当に東に向きを変えますか。水は低い方に流れる以外に、理由なく向きを変えますか」


 ガルドは少し間を置いた。


 (いい問いだ。ただし、答えを説明するには一時間かかる)


 「今日の午後、透水層の試作をする。見てから理解しろ。言葉で説明するより早い」


 「見ていいですか」


 「来てもいい」


 シオが「はい」と言った。今朝より声が少し高かった。




 午後になった。


 試作の透水層を作る前に、ガルドは東側の地盤をもう一度手で確かめた。土魔法を通して密度を読む。東の低地に向けて、粘土層に細い通路を通すイメージを作る。


 (ここと、ここ)


 二箇所に絞った。試作なので広さは必要ない。長さ三間、幅一尺の透水層を地下一尺半の深さに作る。


 魔力を集中させた。


 粘土の密度を下げる——細かい粒子の隙間を広げるイメージ。押し潰してあった粒子の向きを揃えて、東方向に水が流れやすい路を開く。


 汗が出た。精密な作業だった。


 「……」


 シオが無言で見ていた。クルトも横に立っていた。ダンは少し離れて腕を組んでいた。


 三分ほどで一本目の透水層が完成した。


 「クルト、試し掘りの穴に水を汲んでくれ。桶一杯でいい」


 「はい」


 水が来た。ガルドは穴に水を注いだ。しばらく待つ。


 水が染み出した方向を見た。


 南側からの染み出しが、ゆっくりと変わっていく。東側の壁面に滲みが広がり始めた。


 (動いた)


 手のひらにまだ魔力の余韻があった。粘土の粒子が向きを変えた感触——圧縮してあった隙間が開き、水が新しい経路に入り込む感触。小さな試作だが、方向は確かに変わった。


 「——」


 「東側から出てきた」


 シオが声を上げた。


 ダンも近づいてきた。穴を見て、それから城壁の北側を見て、また穴に視線を戻した。


 「……本当に、東に変わったな」


 少し間があった。


 「だから北が傾いたんだ。水が南から押してきて、北の地盤を押し出していた。逆にすれば止まる」


 「大まかにはそうだ。全量を変えるには本工事が必要だ。だが方向を変えられることは確認できた」


 「やばいな」


 ダンが言った。


 ガルドは「何が」と聞こうとして、やめた。褒めているのか驚いているのかわからなかったが、どちらでもよかった。


 カリが穴に手を入れた。指先で東側の壁面を触った。滲みが出ている場所だった。


 「……本当に変わった。さっきまで南から染み出してたのに」


 「水は動く。向きを作れば従う」


 「土魔法でこんなことができるのか」


 「できる」


 「俺、土魔法をなめてました」


 「よくあることだ」


 (土魔法が「補助魔法」だという評価はこの世界の大多数の見方だ。それ自体を今ここで否定する必要はない。結果が変える)




 日が西に傾いた頃、ガルドはクルトと共に領主館に向かった。


 シオは城壁の前に残っていた。地面の図を棒で書き写していた。自分の手帳代わりにするつもりらしかった。


 「シオ」


 「はい」


 「その図、明日も残っている。今日中に全部写さなくていい」


 「写したいんです」


 「……そうか」


 (弟子は取らないと決めている。ただ「なぜ」を聞いてくる人間が一人いるのは、悪い話でもない)


 ガルドはそのまま歩いた。




 館は石造りだった。手入れはされているが、城壁と同じく古い。基礎が弱い——と、ガルドはいつもの癖で見てしまった。


 「こちらです」


 案内の者に連れられて広間に入った。


 領主のエドワンが椅子に座っていた。七十近い老人だった。白髪が多く、動作は緩やかだが、目は鋭かった。着任初日にガルドの全否定を受け、「生意気な若造」という顔をした人物だ。今もその顔の半分は残っていた。


 「来たか」


 「呼ばれましたので」


 「工事は始まらないそうだが」


 「段取りの最中です」


 「段取り。何日かかる」


 「もう二日あれば方針が固まります。職人への作業指示が出せる」


 エドワンが指を組んだ。


 「聞いたぞ。水の流れを逆にするとか言っているそうだな」


 「そうです」


 「どういう意味だ」


 ガルドは周囲を見た。広間の床は石張りだった。砂と棒があれば描けるが、さすがに領主の館の床には描けない。


 「少し外に出てもよいですか」


 「外?」


 「図を見せた方が早いので」


 エドワンが眉を動かした。


 「……図とはなんだ」


 「地面に描いた説明図です。排水設計の全体が一目でわかります」


 「地面に描く設計図、か」


 「紙より大きく描けます。実寸に近い縮尺で見られます」


 エドワンはしばらくガルドを見た。


 「若造は変わった手を使うな」


 「慣れているので」


 「——まあ、いい。外に出よう」


 老領主が立ち上がった。


 クルトが小声で「エドワン様が自ら外に」と驚いたように言った。続けて「十年、この館に着任してから外でご説明を聞かれたことはなかったかと」と付け加えた。


 (驚くことか)


 ガルドはすでに外への道を確認していた。




 庭の端の砂地。


 ガルドは棒を拾い、地面に城壁の外形を描き始めた。エドワンが杖をついて横に立って見ていた。付き人が二人ついていた。クルトが後ろに控えていた。


 「北を上にします」


 「ほう」


 「今の地下水の流れ——南から来て北に向かっています」


 矢印を書いた。エドワンが目で追った。


 「今の排水路」


 北向きの線を外側に描いた。


 「この向きに排水しようとしています。ところが水は南から来ている。南から来る水を北に流そうとしても、向きが逆になる。水が素直に抜けない」


 「……排水路が逆か」


 「そうです。そのため水が城壁の北側に溜まり続けて、地盤を押している。城壁が傾く原因はここです」


 「地盤を、押す」


 「地下水が城壁の真下を通る。石の重さと水の圧力が重なって、地盤が少しずつ押し出される。北側の城壁が外に傾くのは、水に押されているからです」


 エドワンが黙った。


 長い沈黙だった。


 「……正直に言う。初日、お前のことを生意気だと思った」


 「そうだったと思います」


 「今も少しそう思っている」


 「それは構いません」


 エドワンが短く笑った。笑ったのは初めてだった。


 「続けてくれ」


 「新しい排水路はこちら——」


 東向きの線を描いた。低地との接続。傾斜の数値。段階的な水の誘導経路。


 エドワンは黙って見ていた。説明を途中で止めなかった。


 「排水路が完成すれば、地下水の向きが東に変わります。城壁への圧力がなくなる。それから城壁の修繕を行えば、二度と同じ問題は起きません」


 「水路が、全部やり直しになるな」


 「今の水路は撤去します」


 「費用は」


 「後でまとめます。今日は方針だけです」


 「方針だけか」


 「段取り中なので」


 エドワンがまた笑った。今度は少し長かった。


 「……お前の言う段取りが終わったら、また来い」


 「わかりました」


 「その図——」


 エドワンが地面の図を指した。


 「紙に清書して持ってこい。俺にも手元で見たい」


 「クルトに清書させます」


 「そうしてくれ」


 ガルドは立ち上がった。


 エドワンが付き人の肩を借りて歩き始めた。立ち去る前に、一度振り返った。


 「若造」


 「はい」


 「水の流れを逆にするとはそういう意味か。初めて聞いたときはなんのことかと思ったが」


 「わかりましたか」


 「半分は」


 「残り半分は完成を見ればわかります」


 エドワンが「ふん」と言った。機嫌が悪い音ではなかった。




 帰り道、クルトが言った。


 「エドワン様が笑われるのを、私は見たことがなかったと思います」


 「そうか」


 「着任されてから、あのような表情は初めてで」


 「どんな顔をすればよかったんだ」


 「……いえ、そういう意味では」


 クルトが口を閉じた。


 城壁の前に戻ると、シオがまだいた。地面に図を写し終えたらしく、自分で描いた図の前にしゃがんで何かを書き加えていた。


 ガルドが近づくとシオが顔を上げた。


 「領主様のところはどうでしたか」


 「方針の説明をした」


 「伝わりましたか」


 「半分は」


 「半分」


 「残り半分は完成を見れば伝わる」


 シオが少し考えた。


 「ガルド様、明日は何を始めますか」


 「透水層の本工事だ。午前中に北側の圧縮を始める。地盤の中を触る作業だから、表面からは何も見えないが」


 「見ていていいですか」


 「見たいならいてもいい」


 シオが頷いた。


 「あと——」


 シオが少し間を置いた。


 「さっきの図の中で一つわからないところがあって。東の低地から南の沼に向かう最後の水路ですが、そこに傾斜をつけるとき、低地の地盤の強さが足りないと水路が崩れませんか。低地は水分が多いので」


 ガルドは止まった。


 (それを聞くか)


 「低地の排水路は石で内壁を作る。地盤が柔らかい区間は土魔法で圧縮して締める。それはカリとダンに相談してある」


 「もうそこまで段取りをしてるんですか」


 「そういうことだ」


 シオが「なるほど」と言った。満足したような顔だった。


 「明日、早く来てもいいですか」


 「六の刻でいい」


 「わかりました」


 シオが立ち上がり、自分が写した図を一度見てから走り出した。宿の方向だった。


 (弟子は取らないと言った。だが「なんで」を聞いてくる人間を育てるのは悪くない)


 ガルドはすぐにその考えを打ち切った。


 今は透水層だ。明日の施工順を頭の中で確認する。北側の圧縮から始めて、東向きの透水層を本工事で通す。その後に地表の掘削測量。工事が始まる前の最後の段取りだ。


 「段取り八分——」


 ガルドは小声で言った。


 (——仕事二分だ。まだ段取りが終わっていない)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ