地盤を調べてから建てろ
「魔法師が泥遊びをしてるぞ」
声が聞こえた。ガルドは振り返らなかった。しゃがんだまま杭を地面に当て、手の平で慎重に押す。
城壁の南側。表層は柔らかい。指一本半で硬さに当たる。
朝から調べていた。
城壁の南側、東側、北側。順番に杭を刺し、深さを記録していく。クルトが横で手帳に数値を書き込んでいた。
「南壁の中央、深さ指一本半。東の角から三間の地点、指二本弱」
「……かなり差がありますね」
「差があることが問題だ。建てる場所によって地盤の強さが違う。設計がそれを無視している」
クルトは鉛筆を止めた。
「城壁を最初から作った人間が、これを調べなかったということですか」
「調べなかった。そもそも調べるという発想がなかったんだろう」
(なぜそういう順番になるのか、俺にはわからない。建てる前に地盤を見ない。作ってみて傾いたら直す。そのやり方で何十年経ったんだ)
ガルドは立ち上がり、城壁を見上げた。
南側の城壁は北側より傾きが浅かった。同じ壁でも、場所によって地盤の強さが違えば、沈み方が違う。沈み方が違えば、傾き方も違う。全部繋がっていた。
「昨日の城壁真下のデータと合わせると、どういう見立てになりますか」
「まだ全部調べ終わっていない。東側の残りを片付けてから判断する」
「今日中には終わりますか」
「終わる」
東側を調べ終えたのは、昼過ぎだった。
そこで声が増えた。
「おい、見ろよ。あの魔法師、杭を地面に刺してる」
「地盤調査とか言ってたぞ。なんだそれ」
「魔法師に土いじりさせてどうするんだ。工事はいつ始まるんだよ」
ガルドは立ち上がり、方向を変えた。声の方を確認する必要はなかった。職人だとわかった。クルトが昨日「明日の朝には五人ほど来られると」と言っていた。
集団が四人、城壁の南門近くに固まって立っていた。三十代から四十代。手に道具袋を持っている。全員こちらを見ていた。
一人が何か言った。声は届かなかったが、隣の男が笑った。腕を組んで、ガルドのほうを顎でしゃくる。別の一人も笑った。呆れたような、あるいは不審に思っているような顔だった。
ガルドは視線を地面に戻した。
「クルト」
「はい」
「あの人たちに、午後に話をすると伝えてくれ」
「……今すぐ来てもらわなくてよいのですか」
「今は調査の途中だ。中断したくない」
クルトが小走りで職人たちのほうへ向かった。ガルドはまた杭を持った。
「段取り八分、仕事二分だ」
ガルドは小声で言った。誰に言うわけでもなかった。
師匠がいつも言っていた言葉だった。前世の師匠の声は、今でも鮮明に思い出せる。「現場でドタバタするやつはな、全員準備が足りてないんだ」と言いながら、着工前の三日間を全部現地調査に使った。当時は遠回りに思えた。後になって、その三日間が全ての精度を決めていたとわかった。
(この世界でも変わらない)
東側の城壁沿いに、さらに五箇所を確認した。
ここの地盤は南側と似ていた。表層が薄い場所と、比較的厚い場所が混在している。ただ、城壁の真下だけは違った。どの箇所も、杭が入らない。
ガルドは城壁の石を指先で触れた。
古い石だった。積み方が荒い。目地の隙間から湿気が染み出している。石そのものは悪くないが、目地の材質が弱い。水が入れば凍結した冬に膨張して亀裂が広がる。
(それはまた後で考える)
今は地盤だ。
「なあ、あいつ何してんだ」
「さっきから同じことしてるぞ」
「泥遊びじゃないか。魔法師の仕事かよ、それ」
声がまた聞こえた。今度は少し近かった。
ガルドは振り返らなかった。杭を次の地点に立て、ゆっくり押す。
深さ、指一本と少し。
「笑えるな。魔法師が地面に棒を刺してる」
「修繕するとか言ってたのに、工事は始まらんし。遠くから来た甲斐があったもんだ」
(文句があるなら帰ればいい。止めない)
ガルドは黙って次の地点に移った。
城壁の角に近い場所だった。しゃがんで杭を当てる。今日の調査でここが一番気になっていた箇所だった。城壁の角は荷重が集中する。地盤が弱ければ、ここから沈む。
ゆっくり押した。
指一本弱で硬さに当たる。
(薄い。ここが一番薄い。城壁の角の地盤が一番弱いのか——)
手を止めた。
待て。
城壁の傾き方を思い出した。北側が一番傾いていた。北側の角は東角だ。今いる場所から反対側になる。東角の地盤はまだ調べていない。
「クルト、もう一箇所確認する。東角だ」
クルトが小走りで追いついてきた。
「北側は明日にする予定でしたか」
「予定変更だ。今日中に角を全部確認しておきたい」
「わかりました」
東角の地盤を確認したのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。
杭を刺した。指三本弱で硬さに当たる。
ガルドは杭を抜いて、もう一度刺した。指三本弱。三本目も同じだった。
(逆だ)
東角は薄くなかった。北側の角が一番傾いているのに、地盤は他の角より厚い。
ガルドはしゃがんだまま、地面に手のひらを当てた。感触を確かめた。土の密度が、ここは明らかに違う。
(おかしい。地盤が弱いから傾くと思っていたが——ここは厚い。なのに、北側の傾きが最も大きい。地盤の厚さと傾く方向が逆だ)
ガルドは城壁を改めて見た。北側の城壁。傾きが一番急な場所。
そして城壁の真下。
杭が入らない異常な硬さ。
表層が厚くて、しかも城壁の真下が岩盤みたいに硬い。それなのになぜ傾く。
(……逆だからか?)
一つの仮説が浮かんだ。
城壁の荷重を支えているのが、その異常に硬い何かだとしたら。周囲の柔らかい地盤が少しずつ沈んでいるのに、城壁の直下だけ沈まない。城壁だけが周囲より高い位置に残る。相対的に周囲が下がるから、城壁が「傾いて見える」。
あるいは。
城壁の真下の硬い何かが、部分的に分布している。均一でない。東側は深いが西側に近づくにつれて消える。それで傾く方向に偏りが出る。
「クルト」
「はい」
「城壁が傾いている方向は、どちら側に傾いているか確認できるか」
クルトが手帳をめくった。
「北側の城壁は……内側に、ということでしょうか、外側に」
「どちら向きだ」
「ガルド様の視察でメモを取りましたが、北西方向に、とあります」
(北西。城壁の真下の硬い何かが、北東側に偏っていると考えれば筋が通る。だが確証はない。掘らないとわからない)
「試し掘りの場所を決める。城壁の真下、北側の中央付近だ。職人に頼む」
「今日の午後に話をされるとのことでしたが」
「今がちょうどよかった」
職人たちのところへ行った。
四人が南門の日陰で休んでいた。ガルドが近づくと、全員がこちらを見た。
「待たせた。地盤調査が終わった」
一番年かさの男が鼻を鳴らした。
「終わったって言うが、一日中地面に杭を刺してただけだろう。そんなことが修繕の役に立つのか」
「立つ」
「根拠は?」
ガルドは地面を見た。
「ここに描く。ついてきてくれ」
「は?」
「図を描いた方が早い。来てくれ」
ガルドは歩いた。職人四人と、クルトがついてきた。
空き地の端に来た。ガルドはしゃがみ込み、棒の先で地面に線を引き始めた。
「これが城壁の平面図だ。北を上にした」
「……地面に?」
「紙より大きく描ける。見やすい」
職人たちが顔を見合わせた。
ガルドは線を引き続けた。城壁の輪郭。南門の位置。北側の壁。東角、南角、西角。
「今日調べた結果を重ねる」
城壁の輪郭に沿って、別の記号を書き込んでいく。数字と短い線の組み合わせだった。
「この数字が表層の深さだ。指一本半、指二本、指一本弱——杭が入った深さを場所ごとに記録した」
「杭が入った深さが何を示す?」
「地盤の強さだ。表層が薄い場所は軟らかい。柔らかい地盤の上に重い石壁を建てれば、柔らかい側から沈む」
「……当たり前じゃないか。だから傾いたんだろう。わかってることを調べてどうする」
「どこが一番弱いかを知らないと、どこを補強するかが決められない」
男が黙った。
ガルドは続けた。
「闇雲に補強すると、材料と時間が三倍かかる。必要な場所だけを正しく補強すれば、一回で終わる。その一回の精度を上げるために調べる」
「……」
「もう一つ。城壁の真下だけ、杭が全く入らなかった」
「入らない?」
「最初から硬い。表層もない。石か何かが埋まっている可能性がある。これは明日、掘って確かめる」
年かさの男が眉を寄せた。
「城壁の真下を掘るのか。崩れないか」
「崩れない範囲で確認する。一人か二人手伝ってくれ」
男はしばらく地面の図を見ていた。他の職人たちもそれぞれ地面を眺めていた。
「……まあ、話はわかった」
「わかれば十分だ」
「ただ、俺たちは石工だ。地面の話は専門外でな」
「知っている。地盤調査は俺がやる。石工には石材の加工と積み直しを頼む。そのための段取りを今やっている」
「段取り、か」
「段取り八分、仕事二分だ」
男は短く笑った。馬鹿にした笑いではなかった。
職人たちが宿に引き上げていった。
ガルドは一人、地面の図の前に残った。
図を見直す。今日のデータが全部そこにある。南側、東側、角ごとの深さ。城壁の真下の記号には丸を重ねて「入らず」と書いた。
(明日は試し掘りだ)
何が埋まっているのか、掘ればわかる。わかったら、それに合わせて設計を修正する。正しい順番だ。
「ガルド様」
クルトが後ろに立っていた。
「何だ」
「あの、図のことなのですが」
「清書したいか」
「……はい、できれば」
「今日中に時間があれば」
「わかりました」
クルトがメモを取り出し、地面の図を手帳に書き写し始めた。ガルドは立ち上がり、腰を伸ばした。
その時、視界の端に何かが見えた。
城壁のそばに、人が立っていた。
一人だった。他の職人たちとは離れた場所に、ひとりで地面の図を眺めている。
小さかった。職人たちより頭一つ、体も細い。十代だろう。まだ少年と言ってよい年齢だった。
職人の連れか、あるいは使いか。ガルドはそう思った。
だが少年は動かなかった。地面の図を、じっと見ていた。
少年がガルドを見た。
目が合った。少年は視線を逸らさなかった。
少年がゆっくり近づいてきた。
十六か七か。髪が短く、鼻の頭に土が少しついていた。手が大きかった。石工の家の子供に多い、親の仕事を幼い頃から手伝った手だとガルドは思った。
少年はガルドの前で立ち止まり、地面の図を指差した。
「これ、なんですか」
「地盤調査の結果図だ」
「……じばん、ちょうさ」
「地盤。地面の強さ。建物を建てる前に確かめる」
「建てる前に」
「そうだ」
少年がまた図を見た。今度はしゃがんで、ガルドが書いた記号を一つ一つ見た。
「この数字が深さですか。杭が入った深さ」
「聞いていたのか」
「少し。遠くにいたので、全部は聞こえませんでした」
「そうだ。数字が大きいほど深く入る。深く入るほど表層が厚くて柔らかい」
「じゃあここは」 少年が城壁の真下の記号を指した。「入らなかったってことですか」
「そうだ」
「なんで入らないんですか」
「それを明日調べる」
少年が顔を上げた。
「俺も見ていいですか」
ガルドは少年を見た。
「お前、職人か」
「見習いです。石工の。父親が今日来た四人のうちの一人で」
「名前は」
「シオです」
ガルドは答えなかった。少年——シオが図を見ている。視線が動いている。単に眺めているのではなく、読もうとしている。
(「なんでそうやるんですか」と聞いてくる人間は少ない)
ガルドは地面にしゃがんだ。
「見ていいが、邪魔をするな」
シオが勢いよく頷いた。
「一つ聞いていいですか」
シオが言った。ガルドはクルトの書き写しに間違いがないかを確認しながら答えた。
「何だ」
「地盤を調べてから建てるって、普通じゃないんですか」
「この土地では普通じゃない」
「でも、なんで調べないで建てるんですか。調べた方がいいって、考えたら——」
「考えない」
シオが黙った。
「考えない。というより、考える必要があると思っていない。昔からそうやって建てていたから、ずっとそうだったから、問い直さない」
「……じゃあ、ガルド様はなんで調べるって知ってたんですか」
「現場で覚えた」
「どんな現場ですか」
「お前が知らない場所だ」
シオはしばらく黙っていた。考えているような顔だった。
「調べないで建てた城壁が傾いた。調べてから建て直せば傾かない。そういうことですか」
「そうだ」
「だから地盤調査が先、ということですか」
「それだけじゃない。調べてわかったことに合わせて設計を変える。調べた結果を無視した設計は意味がない」
「設計を変える……」
シオがまた図を見た。今度は長かった。
「わからないことがあったらまた聞きますか」
「来ればいい」
(ただし邪魔だけはするな)
ガルドは心の中でだけ付け足した。
日が傾きはじめた。
クルトが書き写しを終えて立ち上がった。
「これで今日の記録は完了ですね」
「ああ」
「明日の試し掘りは何時からにしますか」
「朝から。職人に頼む前に、俺が先に土魔法で構造を確認する」
「土魔法で確認できるのですか?」
「ある程度は。感触でわかる。ただ、目で見るには掘る必要がある」
「なるほど」
シオがまだいた。ガルドが立ち上がると、シオも立ち上がった。
「明日も来ていいですか」
「来ても来なくてもいい。止めない」
「来ます」
シオが走っていった。宿の方向だった。
(弟子は取らない。取るつもりもない)
ただ、あの「なぜ」の聞き方は珍しかった。石工の現場で、なぜを聞く人間はほぼいない。聞かなくても仕事は進む。聞く必要もない。それでも聞いてきた。
クルトが呆れたような顔をした。
「あの子、かなり積極的ですね」
「そうだな」
「職人の見習いが、あれだけ調査に興味を持つとは」
「珍しいのか」
「珍しいと思います。他の四人は、まだ半信半疑という顔をしていました」
「それでいい。半信半疑なら、完成した時に見ればわかる」
クルトが小さく笑った。
「……ガルド様は、そういうことには動じないのですね」
「嘲笑されることは慣れている。問題は仕事の質だ。質が出れば、態度は変わる。変わらなくても構わない」
クルトはまた手帳に何か書いた。記録を取っているのか、自分のメモを書いているのか、ガルドには判別できなかった。
空き地に二人だけになった。
地面の図が夕方の光の中に残っていた。踏み荒らされていないのは、誰も踏まなかったからだ。図として読める何かに見えたのか、それとも単なる遠慮か。どちらでもよかった。
ガルドはもう一度図を見た。
城壁の真下の「入らず」の記号。
明日、掘る。
掘れば、何かがある。何かがわかる。わかれば、次の段取りが決まる。
(順番は正しい)
「ガルド様、そろそろ」
「わかった」
ガルドは図から目を離した。
明日は試し掘りだ。城壁の真下に何が埋まっているか、土魔法で探る。もし岩盤が出てきたなら、それは設計の前提が根本から変わることを意味する。
(面白くなってきた)
内心でだけ、そう思った。




