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水路が罠になる

 夜明けの少し前、ガルドは水門の前に立っていた。


 コルダが隣にいた。昨夜のうちから位置についていたコルダは、今朝は防寒のための外套を羽織っていた。それ以外は、いつも通りの石工の顔だった。何も言わずに水門のレバーの位置を一度確認して、また沼地の方を向いた。


 霧は薄かった。


 昨日の夜から今朝にかけて、霧が出ていない。霧がなければ街道から外壁の輪郭が見える。外壁の輪郭が見えれば、向こうも地形を確認できる。計算書の穴として開示した「霧の中での視界確認」は、今朝は問題にならない。問題にならない——のは、こちらにとっても向こうにとっても同じだった。


「水量は」ガルドが聞いた。


「昨日の夕方から変わっていない」コルダが言った。「今朝早く一度確認した。設計通りだ」


「三分の一開放で三時間か」


「そうだ」


 コルダが短く答えた。施工者の言葉だった。確認したことを報告する、それだけだ。計算書に書かれた数値と現物が一致している——コルダが毎朝そこに立っているのは、その確認のためだ。


「第一水門、確認した」コルダが言った。

「タイムラグは」

「十秒以内には収まる」


(三十年、段取りを積んだ男がここにいる。これで十分だ)




 夜明けが来た。


 霧のない朝の夜明けは早かった。東の方角から光が広がって、沼地の水面が一気に明るくなった。水路の水が光を跳ね返した。外壁の輪郭が、空に向かって黒い線を引いた。第一水門から北稜線まで、一本の線だ。


 ガルドは西の街道の方角を見た。


 まだ何も来ていなかった。


「来るとすれば今日の昼前後だ」コルダが言った。見ていた方角が同じだった。「マルカが言っていた」


「そうだ。本隊が六里の位置にいる。先遣隊が昨夜の斥候報告を受けて動くなら——朝に出発して昼前後に沼地の入口に着く計算だ」


「その計算書、正確か」


「マルカの軍の計算だ。施工の段取りより信頼できる」


 コルダが少し口の端を動かした。笑ったのか、そうでないのかは分からなかった。




 午前の霧がないまま、時間が動いた。


 ガルドは詰所に戻って計算書を開いた。第一パターン——西の街道から正面。これが来た場合の手順を確認した。手順は変わっていない。計算書に書いた通りだ。


 外壁の上の見張りが三人いる。合図の旗は外壁の上に置いてある。コルダは水門の前にいる。シオは計算書の写しを持って——どこにいるかは確認していなかった。


 シオが詰所に入ってきたのは、その直後だった。


「来ました」シオが言った。


 一言だった。昨日の夜の動揺とは違う声だった。


「外壁の上の見張りから伝言が来ました。西の街道、沼地の入口の手前に——騎馬の一団が見えると」


「数は」


「二十から三十、と言っていました。確認中だそうです」


 ガルドが立ち上がった。計算書を机の上に置いた。手帳を手に取った。


「マルカは」


「外壁の上にいます。上に来てほしいと」




 外壁の足場に上った。


 マルカが外壁の上で西の方角を見ていた。ガルドが横に立った。


 見えた。


 街道の入口、沼地の手前、馬の群れが止まっていた。ここからでは一頭ずつの輪郭は分からない。ただ、動くものが固まっている。昨日の昼には何もなかった場所に、今朝は塊がある。


「騎馬が入ってきた。二十、いや三十騎か」マルカが言った。

「先遣隊だ。本体じゃない」ガルドが言った。

「水門は」

「もう少し」


 マルカが外壁の縁から身を乗り出して見ていた。「騎馬のみ。二十五から三十の規模。旗は一本だけ立てている。偵察用の旗だ。本格的な突入ではない——ここまで来て地形を最終確認している」


「止まっているのはなぜだ」


「沼地が見えているから止まっている」マルカが言った。「この地形、外から見た目は分かりにくい。どこが沼でどこが地面か、遠目には区別がつかない。近づいて地面を確かめながら進む——それが向こうの段取りだ」


 ガルドが沼地の方を見た。


 確かに見えにくい。今朝は霧がない。空は晴れている。にもかかわらず、沼地の地面と水路の区別は、外から見れば判然としない。草が生えている場所が地面に見える。水路の端に葦が茂っている場所は、向こうから見れば歩ける地面に見える可能性がある。


 それはガルドが設計の段階から計算していたことだった。


(来い。地面に見える場所から来い——そこが水路だ)


「動き始めたら合図を出す」ガルドが言った。「旗か鐘か、霧の状況を見て判断する。今朝は霧がない。旗で行く」


「了解した」マルカが短く言った。「動く前に準備の旗を一本立てろ。コルダが見ているはずだ」


「見ている。夜明け前から位置についている」




 待った。


 外壁の上でガルドとマルカが並んで待った。シオが少し後ろに立っていた。手帳を胸に抱えていた。昨日の夜とは違う立ち方だった。背筋が伸びていた。手帳を抱える手に力が入っていたが、手は震えていなかった。


 ガルドは街道の方角を見続けた。


 騎馬の塊が、動いた。


 止まっていた塊の先頭が、前に出た。一頭、二頭、三頭——先頭の騎馬が沼地の入口から中に入り始めた。ゆっくりとした速度だった。地面を探りながら進んでいる。足場を確かめながら進む、慎重な動き方だった。


「来た」マルカが言った。


「準備だ」ガルドが横の見張りに言った。


 見張りが赤い旗を一本、外壁の上に立てた。




 コルダが旗を見た。


 水門の前に立っていたコルダが旗を確認して、レバーを確認した。三分の一開放の位置に刻み目がある。昨日から何度も確認した刻み目だ。施工した自分の手を通してある場所だ。


 コルダが待った。


 外壁の上から見ていると、先頭の騎馬が沼地の中に進んでいた。草が生えた場所を選んで進んでいる。その草が生えた場所は——地面ではない。水路の端だ。表面の草が地面に見えるが、その下は水を多く含んだ沼地の地盤だ。ガルドが三年前に測量を始めた時から知っている地盤だ。


 騎馬が、その地盤の上に乗った。


 何も起きていなかった。まだ水は来ていない。水門は動いていない。ただ——先頭の騎馬が沼地の内側に入った。後続が続いた。二頭、三頭、五頭。塊が動いている。


「どこが地面に見えているんだ」シオが小さく言った。ガルドには聞こえていた。「あそこは水路の——」


「外から見ると区別がつかない」マルカが言った。「設計の話か」


「設計の段階から計算した」ガルドが言った。


 マルカが短く息を吐いた。




 先頭の騎馬が、十頭を超えていた。


 沼地の入口から三分の二ほど入った地点で、先頭が止まった。止まった——のではなく、足が沈んだ、ということが外壁の上から見て分かった。一頭が足を取られた。後続が止まった。詰まった。前が止まったから後ろも止まった。


「今だ」マルカが言った。


「合図だ」ガルドが見張りに言った。


 見張りが赤い旗を、もう一本立てた。二本。




「開けろ」ガルドが言った。

「承知」コルダが答えて、レバーを引いた。


 水門が開いた。


 刻み目の三分の一の位置、それだけだった。コルダが動かしたのは、その一動作だけだ。設計通りの操作だ。計算書の手順通りだ。


 水路に水が流れ込んだ。


 音がした。水の流れる音だった。沼地の方からではなく、水路の底から聞こえてくる音だった。外壁の上に立つガルドには聞こえなかったが、水門の近くにいたシオは後で「水門が開いた音がした」と言った。コルダはその音を聞いていた。設計通りの音だった。水路の断面積と開放量から計算した流量——その数値と一致する流れの音だった。


 ガルドが見ていたのは沼地の中だった。


 先頭の騎馬が、また動こうとして——動けなかった。


 足が沈んでいた。一歩踏み出して、蹄が地面に入った。引き抜けない。もう一頭が同じ状態になった。後続が気づいて止まった。止まった場所の地面も、すでに水を含み始めていた。


(動いている。設計通りに動いている)


 その感触は計算書の中にあった。数値として書いてあった。三分の一開放で三時間、含水率が変わる、騎兵不能になる——ガルドはその数字を何度も計算していた。今、その数字が、地面の上で動いていた。


 数字が地面になった瞬間だった。


 外壁の外から風が来た。北の方角から、水面を渡ってくる風だった。遠くで水が動く音がした。




 騎馬の隊が混乱した。


 先頭が動けない。後続が追いついて詰まった。後ろに引こうとして、後続も足が取られ始めていた。来た道を戻ろうとした騎馬が方向を変えようとして、蹄が沼地の地盤に入った。引き抜こうとして、馬が横に傾いた。


 騎手が声を上げているのが、外壁の上まで届いた。言葉は聞き取れなかった。ただ、声の調子が分かった。命令を出す声ではなかった。困惑の声だった。泥が馬の蹄を引き剥がすような、重い音も届いた。馬の鼻息が荒くなっている。引き綱を引く騎手の叫びが、声の中に混じっていた。


「引けない」マルカが言った。静かな声だった。「来た道に戻れない。足が取られている。前も後ろも地面が変わっている」


「三時間かけて変わる設計だが——先頭が踏んでいた場所は水路の上だ。水が入れば早い」ガルドが言った。「後続が入った場所は沼地の地盤だ。含水率が上がれば同じになる」


「向こうの指揮官は何を考えている」マルカがつぶやいた。答えを求めているわけではなかった。


「地形を読み間違えた、ということだ」ガルドが言った。「外から見た地面と、実際の地盤は違う。測量しなければ分からない」


 マルカが少しガルドの方を見た。何かを言おうとして、口を閉じた。測量した者だけが知る、という言葉を、マルカは自分に向けて飲み込んだ、とガルドには見えた。




 沼地の中で、騎馬の隊が動けなくなっていた。


 全部が沼地に嵌まったわけではない。後方にいた騎馬は地面に戻れた数頭がいた。だが先頭の十頭を超える騎馬は足が取られたまま動けずにいた。騎手が馬から降りようとして、降りた足が地面に沈んだ。くるぶしまで、それから膝に近い位置まで。沼地は重さを受け取って均等に沈む。馬に乗ったまま動けない。降りても動けない。


(設計通りだ。設計通りに地面が機能している)


 その認識が来た時に、ガルドは外壁の上で一度目を閉じた。


 計算書を書いた時のことを思い出した。数値を書いた。含水率を書いた。三分の一開放で三時間、と書いた。その数値が今、地面の上で動いている。計算書の中にあった数字が、馬の足を止めている。設計した通りに、地面が機能している。


 目を開けた。


「……沈んでいる」マルカが言った。

「十三騎、確認できます。残り、引いていきます」シオが言った。

「数を書き留めろ」

「書いています」


「引けない騎馬が増えている」シオが小さく続けた。シオも外壁の上から見ていた。「後ろに引こうとしているのに——」


「地盤が変わるのは今の水路だけじゃない」ガルドが言った。「第一水門が開いたことで、水路全体の含水率が変わる。後続が踏んでいる場所も、じわじわ変わっていく。今は三時間かからない。入った位置が悪い」


 シオが手帳を開いていた。ガルドが見えていたが、何も言わなかった。外壁の上で、沼地の中の騎馬を見ながら、手を動かしていた。時刻だけじゃない、馬の声も書いておく、と思っていた。あの音は後で計算書と照合できる。


(書ける、ということだ。それで十分だ)




 半刻後、後方にいた騎馬の数頭が引き返した。


 街道の方角に戻っていった。追いかけるものは何もなかった。沼地の中に嵌まった騎馬は、引き返した数頭には追いつけなかった。外壁の上から見て、それが分かった。


「撤退の報告を出しに行った」マルカが言った。「あの数では本隊に連絡するより他にない」


「本隊が動いてくるか」


「動いてくる前に判断する」マルカが言った。「先遣隊の騎馬が沼地で嵌まった、という報告を受けた指揮官が何を考えるか——正面突破の選択肢は消える。次の選択肢を探す。時間がかかる」


「その間に地盤が完全に変わる」ガルドが言った。「三時間で騎兵不能含水率だ。そこまで待てば、第一パターンの対応は終わる」


 マルカが頷いた。短い頷きだった。




 コルダが水門の前に立ったまま、外壁の上のガルドを見上げていた。


「このまま保つか」マルカが外壁の縁越しにコルダの方を見て言った。声が届く距離ではないが、問いの形で言った。


「保つ」ガルドが答えた。「レバーは動かさない。三分の一開放で計算した。コルダはそれを知っている」


 ガルドが手を一つ挙げた。そのままでいい、という意味だった。コルダが頷いて、また水門の方を向いた。三分の一開放の状態が続いている。水が流れている。地盤が変わっている。コルダがそこに立っていれば、それで今日の段取りは機能している。


「水路、設計通りだ」コルダが外壁の上に向かって声を上げた。

「第二区間の流量は」ガルドが答えた。

「問題ない。読み通りだ」


(あそこに三十年の仕事がある)


 ガルドは沼地の方を見た。


 嵌まった騎馬は動けないままだった。数頭は完全に足が取れなくなっていた。騎手が降りて、引き綱を引っ張っているのが見えた。馬が動こうとして、足が抜けない。水を含んだ地盤は、馬の重さに対して均等に沈んでいる。どちらに引いても同じだった。


 これはガルドが計算した地盤だった。ガルドが何度も杭を打って確認した地盤だった。前世で学んだ地盤工学が、この沼地の土に合わせて動いている地盤だった。




 外壁の上でシオが手帳を閉じた。


「書きましたか」ガルドが聞いた。


「はい」シオが言った。「水門を開けた時刻と、騎馬の動きが止まり始めた時刻と、後続が引き始めた時刻を書きました。あと——馬が足を取られた時の様子を書きました。設計書の数値と一致するかどうか、後で確認できるように」


「良い記録だ」


 シオが少し顔を上げた。


「怖かったか」ガルドが聞いた。


「怖かったです」シオが言った。「ただ——手が動きました。段取りがあったので、書くことが分かっていました」


 ガルドが前を向いた。沼地を見た。


 水路が光を受けていた。第一水門から流れ込んだ水が、水路全体に広がっていた。その水路の上を、今朝の騎馬が「地面だ」と思って踏んできた。葦が茂っていた。草が生えていた。外から見れば、地面だった。測量した者だけが地盤を知っていた。


 設計とはそういうものだった。




 マルカが詰所に戻ると言った。「本隊が次に動くまでの時間を計算する」と言った。ガルドは「計算書の第二パターン、第三パターンを確認してくれ」と答えた。マルカが頷いて足場を降りた。


 シオも続こうとして、足を止めた。


「ガルド様」


「何だ」


「先遣隊が嵌まった時——ガルド様は目を閉じていました。一瞬だけ。何を考えていましたか」


 ガルドが少しの間、沼地の方を向いたままだった。


「確認していた」


「何を」


「計算書と、地面が一致しているかどうかを」ガルドが言った。「数字は紙の上にある。地面は目の前にある。一致した時に——一度確認するだけだ」


 シオが少し考えた。


「それだけですか」


「それだけだ」


 シオが手帳を抱えたまま、足場を降りていった。


(それだけじゃないが、言葉にならない)


 ガルドは外壁の上に一人残った。


 沼地の中の騎馬は、まだ動けずにいた。水が地盤を変えていた。三時間の計算書が、今実際の時間として動いていた。


 北の方角の空に、雲が出ていた。


 本隊は六里の場所にいる。先遣隊が引いた報告を受ければ、次の動きを選択する。マルカの計算では、次の接触まで時間がある。その時間に第二パターン以降の段取りを確認する。空欄を埋める。手を動かす。


 設計した通りに地面が動いた。


 それは確かだった。それで今日の段取りが一つ終わった。


 北の雲が厚くなっていた。マルカの計算では第二パターン、陸路迂回、接触まで最短で半日。次の段取りはすでに紙の上にある。


「次は迂回してくるか」マルカが詰所から声をかけた。

「北側を通るなら半日かかる」ガルドが言った。

「夜の接触もあるか」

「計算書を出す」


 次が来る。



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