なんだこの地形は
街道の端で、ヴァルツは馬を止めた。
本隊から六里。先遣隊が沼地の入口に向かってから一刻が経とうとしていた。報告が来たのは、その直後だった。
「先遣隊より伝令。沼地に入れない、と」
副官のレッカが馬を寄せて言った。レッカは二十七の年で、ヴァルツ配下では一番判断が速い男だった。その男が今、伝言の言葉を選んでいるのが分かった。
「入れない、とはどういうことだ」ヴァルツが言った。
「地面が沈む、と——」レッカが続けた。「先頭が足を取られて動けなくなったと。足が抜けない、と言っております」
「騎馬が」
「はい」
ヴァルツは前を向いた。街道の先に沼地があった。ここからでは水路の輪郭は見えない。ただ、草と葦が生えた低地が広がっているのが見えた。朝の光の中で、その低地はどこが地面でどこが水面なのか、遠目には判然としなかった。
「先遣隊の位置は」
「沼地の入口、手前三百の場所に下がりました。十三騎が動けないままとのことです」
「十三騎」
ヴァルツがその数字を繰り返した。数字として頭に入れるためだ。感情の言葉ではない。確認だ。
「他は引いたか」
「引けた者は引きました。十一騎が入口まで戻っています。残りは——」
「残りは出せない」
「はい」
レッカが短く答えた。
ヴァルツは三十二年の騎兵指揮官だった。十八の年から馬に乗り、二十五の年で中隊を率い、三十の年に将軍位に就いた。平坦地での騎馬突入、緩斜面の速攻、渓谷の誘導撤退——そのどれも体に入っている。沼地は初めてではなかった。辺境の小戦で、泥濘の湿地を迂回した経験が二度ある。
だから今朝の報告は、最初は信じられなかった。
「もう一度聞く」ヴァルツが言った。「騎馬が足を取られた、というのは——踏み込んだ場所が泥だったか」
「地面に見えた場所が、水路だったと言っています」
「水路」
「草が生えていたので地面と判断したが、蹄が刺さって抜けなくなった、と」
ヴァルツが額に手をやった。手を下ろした。
「水路が見えなかったということか」
「はい。外から見ると、区別がつかなかったと」
それだけだった。
ヴァルツは街道の先の沼地を再度見た。草が生えている。葦が茂っている。低地で、空気が湿っている。この時期、南西の辺境は霧が多いと聞いていたが、今朝は霧が出ていない。空は晴れている。にもかかわらず、どこが通れてどこが通れないのか、この距離では分からない。
(地図を見ていた。二週間前に偵察が来た地図だ)
手元の地図を思い出した。ヴァルダ沼地の外周と、主要な街道が書いてあった。西街道から入れば沼地を通って集落に至ると、偵察の報告書に書いてあった。水路については——水路があるという記述はなかった。
「参謀のカロンを呼べ」ヴァルツが言った。
カロンが馬を寄せるまでの間、ヴァルツは街道の脇に降りた。
地面を見た。街道の脇の土だ。踏み固められた土だ。この土と沼地の土は違う。分かっている。では沼地の中の地盤がどうなっているかと言えば——見ていない。偵察も確認していなかった。
そこを失念していた。
失念したのではなく、沼地を通れないとは思わなかった、というのが正確だった。沼地の入口から集落まで、騎馬で一刻もかかるまい、と計算していた。先遣隊が突入して地形を確認し、本隊が続く。それが今日の段取りだった。
「将軍」カロンが馬から降りてきた。「報告を聞きました」
「地図を出せ」
カロンが地図を広げた。二人で地図を覗いた。
「西街道から入ったとして——ここからここまでが沼地だな」ヴァルツが指を走らせた。「先遣隊はここで止まっていると言うが」
「はい。地図上では、この位置から集落まで直線で六百ほどです。沼地の幅はおよそ二百——」
「二百を騎馬で通れなかった」ヴァルツが言った。「先頭十三騎が今も動けない」
「地盤の問題ということでしょうか」
「水路があると言った。草が生えた水路だ。外から見て地面に見えた」
カロンが地図を見直した。地図には水路の記載がなかった。カロンがその事実を確認してから言った。
「偵察の報告書には、水路の記述がありませんでした」
「二週間前の報告だな」
「はい」
「二週間で水路が生えるか」
それは問いの形をしていたが、答えは分かっていた。ヴァルツ自身がすでに答えを持っていたが、口に出して確認したかった。
「水路は——」カロンが少し間を置いた。「二週間ではできません。ある程度の規模の掘削と、土手の設置が要ります。最低でも一か月、それ以上かもしれません」
「ということは、偵察が来た時にはすでにあった」
「おそらく、気づかなかったのかと」カロンが言った。「草や葦が茂っていれば、遠目には判断できない可能性があります」
ヴァルツは黙っていた。
(二週間前の地図と今日の地形が違う。それが問題ではない。二週間前の偵察が水路を見落としたことも、問題ではない。問題は——水路が、あの位置に存在した理由だ)
「正面は無理か」レッカが言った。
「正面は捨てる」ヴァルツが答えた。「嵌まった騎馬を引けなかった以上、同じ場所に突っ込む理由はない」
「では北か南か」
「両方確認する。カロン、地図を見ろ。沼地の北側に回り込める道はあるか」
カロンが地図を広げた直した。街道から北の丘陵を指でなぞった。
「北側に丘陵があります。道は——獣道程度かと。騎馬では通りにくい」
「歩兵は通れるか」
「歩兵なら、時間はかかりますが」
「どのくらいかかる」
「半日、あるいはそれ以上になるかと」
ヴァルツが腕を組んだ。
「南は」
「南側は農地です。農地を通り抜けられれば沼地の東端に出ます。ただし農地の状態が——この季節は湿っているかもしれません」
「騎馬で農地を突っ切るのも、嵌まる可能性がある、ということだな」
「はい。特に今朝、霧はないですが——この辺りは地盤が弱いと聞きます」
ヴァルツが地図から目を上げた。沼地の方角を見た。
外壁が見えた。
今朝、それに気づいた。先遣隊が街道から沼地に入ろうとした時に、背後から報告が来た。「沼地の中に壁がある」と。騎馬が足を取られたのは、その直後だった。ヴァルツは外壁を遠目に確認した。石造りだった。城壁ではない——高さはそこまでない。だが、七区間か八区間分か、線として伸びていた。
「あの外壁は、偵察報告にあったか」ヴァルツが言った。
「報告には——集落の周辺に石積みの改修が進んでいる、とありました。城壁の修繕かと記載されていましたが」
「外壁だ。沼地の縁に沿って建ててある」ヴァルツが言った。「あれは防衛のために建てたんじゃない。地形に合わせて建てた。沼地の境界に沿っている」
「地形に合わせて」
「水路と外壁の位置関係を見ろ。離れていない。沼地の中に水路があり、外壁がその内側を囲っている。騎馬で入れば、水路に誘導される。その設計だ」
カロンが地図を見て、視線を上げた。外壁の方角を見た。また地図を見た。
「意図的に、水路を——」
「誰かが設計した」ヴァルツが言った。「この地形は、自然にできたものではない。誰かが測量して、水路を引いて、外壁を建てた。それが今朝、十三騎を止めた」
レッカが馬を寄せて来た。
「将軍。嵌まった騎馬のうち三騎、どうにか引き出せそうとのことです。残りは——むずかしいと」
「引ける者は引け。引けない馬は捨てろ」
「馬を」
「騎手の命が先だ」ヴァルツが言った。「泥の中に日が暮れるまでいる意味はない。引ける者は今のうちに引く。後は——考える」
「了解しました」
レッカが引き返した。
ヴァルツはカロンと残った。
「設計師がいる」ヴァルツが言った。静かな声だった。感情の言葉ではない。確認だ。
「はい」
「騎馬突入を見越して、水路を地面に見えるように作った。外壁を建てて囲いにした。迂回路が限られるように地形を使った——それが今朝の地形だ」
「誰が」カロンが言った。
「知らん」ヴァルツが短く答えた。「名前は知らん。だが——見当はつく。こういうことができる人間は、数少ない」
「魔法師ですか」
「設計師だ」ヴァルツが言った。「魔法があっても、設計がなければこうはならない。魔法だけならこの地形は作れない。水路の位置が計算されている。外壁が地形と連動している。誰かが図を引いた。数字を出した。その上で作った」
カロンが黙っていた。
「ゼルカに、この種の設計師がいるか」ヴァルツが問うた。独り言の口調だった。カロンへの問いでもあったが、カロンが答える前に、ヴァルツ自身が続けた。「いない。俺が知っている限り、いない。だからここに来た時に、誰かが設計した、という前提で来なかった」
「失礼ながら——地図を読んでいても、この水路は読めなかったと思います」
「そうだ」ヴァルツが言った。「誰も気づかなかった。見えない設計だ。地面の上に乗ってみて初めて分かる——そういう設計をした」
しばらくの間、沼地の方を眺めていた。
嵌まった騎馬は、まだ動けていない。三騎を引き出したという報告がレッカから来た。残りは——地盤に取られたまま、昼を過ぎても動けないだろう。馬の重さが地盤に均等に沈んでいく。引けば引くほど、沈む。ヴァルツはそれを見ていた。
「設計通りに動かされている」ヴァルツがつぶやいた。
「はい」
「向こうは今、外壁の上で見ているだろう。先遣隊が嵌まるのを確認して——水門を開けたはずだ。地盤の含水量を変えるための水路だ。水門を開ければ水量が増えて、地盤が変わる速度が上がる。そういう設計だ」
「将軍、それを——今確認できますか」
「できん。地図も測量もなければ、中から見ないと分からない。だが、そういう設計だと分かる。結果を見れば、設計の意図は読める」
カロンが地図を折り直した。
「今後の判断ですが」と言った。
「北側迂回、歩兵で探らせる」ヴァルツが言った。「騎馬は全部止める。南側農地も、一度地盤の確認をしてから動く。今日はもう動かない」
「本隊への報告は」
「俺が書く」ヴァルツが言った。「正直に書く。西の街道から正面突破は不可能だ、水路が設計されていた、騎馬は効かない、と」
「設計師について——報告しますか」
「する」ヴァルツが言った。「誰が設計したか分からんが、こういうことができる人間がいる。そいつがこの要塞に関わっている、と書く」
カロンが頷いた。
「将軍は——この設計師を、どう見ますか」
ヴァルツが少しの間、沼地の方角を見ていた。嵌まった騎馬が、まだ光の中にいた。馬の輪郭が見えた。
「厄介だ」ヴァルツが言った。「感情ではない。純粋に厄介だ」
それだけ言って、馬に乗り直した。
「北側迂回の偵察を出す。夕方までに報告を取れ。本隊には今夜、使者を出す」
本隊への使者を出したその夜、ヴァルツは天幕の中で地図を広げていた。
今朝から何度見た地図だった。水路の記載がない地図だ。二週間前の偵察が描いた地図だ。
今朝の地形と、地図が違う。
いや、地図は間違っていない。地図を描いた偵察は見えるものを書いた。見えなかったものは書けない。水路が草と葦に隠れていたなら、偵察には見えなかった。偵察の失敗ではない。
問題は——誰かがそうなるように設計した、ということだ。
外から見て地面に見えるように水路を引いた。そういう意図で作った。そうでなければ、草が生えるような水路の引き方にはならない。水路を引くなら、通常は分かりやすい形で引く。水路が見えた方が、守る側は明確になる。なのに見えないように作った。
(だとすれば——この設計師は、敵の動きを先に計算した上で設計した)
そういうことになる。
敵の騎馬がどこから来るかを想定して、どこに水路を引けば誘導できるかを計算した。外から見て地面に見える位置に水路を引いた。外壁を建てて、逃げ場を限った。水門を操作して、入った後に地盤を変えた。
全部、事前に設計されていた。
今日、ヴァルツの先遣隊がやったことは、全部その設計の中に入っていた。
「何年かかった」ヴァルツが地図を見たまま、独り言で言った。
誰も答えない。天幕の中はヴァルツ一人だった。
この沼地に来てどのくらいか。外壁は七区間以上あった。水路は沼地全体に引かれているように見えた。これを一人の設計師が段取りして作ったとすれば——相当の時間をかけている。相当の数の職人が動いている。それが今朝の地形として完成していた。
三十二年騎兵を率いてきて、今日のような地形に入ったことはなかった。
感情で言えば腹が立つ。ただ、ヴァルツは感情の言葉でものを考えない習慣が長かった。
腹が立つではなく——厄介だ。純粋に、厄介だ。
(名前を知りたい)
という気持ちが、ふと出てきた。
何者かが、この沼地を設計した。その人間の名前をヴァルツは知らない。本隊への報告書にも「設計師の詳細不明」と書いた。分からないから書けなかった。
分からなくても、今夜の北側迂回の偵察は出した。明日の朝には結果が来る。南側農地の地盤確認も明後日には報告が来る。その上で、次の手を選ぶ。
設計師の名前を知らなくても、次の手を選ぶことはできる。
できるが——どこから入っても、また設計の中に入る可能性がある。
「今度は何を設計してある」ヴァルツがつぶやいた。
地図を折り直した。北側の丘陵に偵察路が描かれた紙を手前に引いた。
地形を読む。測量はできていない。できていないなら、足で確認するしかない。
今夜は寝ない夜になるかもしれなかった。




