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段取りが済んでいれば怖くない

 松明の数は、七本だった。


 外壁の上から確認したのはガルドではなく、見張りの兵だ。ガルドが自分の目で数えたのは、外壁の足場に上って西の方角を見た時だ。沼地の向こう、街道の入口のあたりに、橙の点が七つ動いていた。霧の薄い夜だった。


 計算書が読んでいた霧が、この夜には薄かった。




 マルカが来たのは報告から四半刻後だった。


 詰所の前で合流した。ガルドはすでに外壁の上から戻っていた。


「七本か」マルカが言った。


「七本だ。動きが遅い。沼地の入口で止まっている」


「先遣隊の斥候だ。本数からして十人以下。地形を見ている」マルカが腕を組んだ。「夜に来た理由は霧を避けてか」


「そう読む。霧の時間帯を外して動いた——霧の計算書の穴が別の方向で出た」


 マルカが少し口を結んだ。ガルドが計算書の中で「弱点」として開示した霧の問題は、予測通りではなく予測外の形で現れた。来ない霧を使って、向こうは夜に動いた。設計外の事態ではなかった。設計の枠内にある話だった。


(霧がないなら夜に来ればいい——そういう計算をする相手だ)


「今夜、仕掛けてくるか」


「来ない」マルカが言った。「斥候は地形確認だ。今夜は見て帰る。本隊に報告して、次の動きを決める。本格的な接触は早くて明日の昼。地形確認に時間を使えば、明後日の朝になるかもしれない」


「それで良い。今夜は見張りを増やすか」


「増やす。こちらから動くな。外壁の上から視界を確保するだけだ」


 ガルドが頷いた。それならば計算書の中にある話だ。外壁を越えて動かない、水門には触れない。今夜はただ、段取りを守る夜だった。




 詰所に戻った。手帳を開いた。


 「計算外事態:先遣隊夜間接触——夜の松明七本・沼地入口で停止・霧回避の夜間行動」と書いた。ガルドが昨夜マルカに「計算外のことが起きてから設計するのが設計者の仕事だ」と言った。その通りになっていた。


 計算外の事態は起きた。しかし計算は壊れていない。


 七本の松明が沼地の入口に来た、それだけだ。外壁は立っている。水門はコルダが操作できる。合図の手順は決まっている。地盤はこの三日の間に段取り通りに動いた。


(今夜、段取りは揺れていない)


 ガルドはランプを消した。


 夜明けまで少し眠ることにした。見張りの交代はマルカが段取りを持っている。今夜のガルドにできることは、明日の計算書を頭の中で一度整理してから眠ることだ。それだけだった。




 夜明け前、シオが詰所の前にいた。


 ガルドが外に出た時、シオが詰所の前の石垣に背をもたせて立っていた。夜が白み始める前の暗さの中で、手帳を胸に抱えていた。目が赤い。眠れなかったのか、それとも泣いていたのかは、ガルドには判断できなかった。


「眠れなかったか」ガルドが言った。


「……はい」シオが小さく答えた。「松明のことを聞きました。見張りの人から」


「そうか」


「七本、ということは——」


「先遣隊の斥候だ。地形を見に来た。今夜は動かない」


 シオが頷いた。手帳をもう少し強く抱えた。


 昨日の昼前にシオはここに施工記録の補足を持ってきた。いつも通りのやり取りだった。ガルドが「後で計算書に転記する」と言った。シオが帰り際に「大丈夫です。計算書があります」と言った。その夜に松明が来た。


(計算書があると言ったのに、眠れなかった——それが正直な話だ)


 ガルドは石垣の横に立った。西の方角は、まだ暗かった。沼地の輪郭が霧の中でぼやけている。今朝は霧が出ていた。松明の光は見えない。


「怖いか」ガルドが聞いた。


 シオが少し間を置いた。答えるまでに、数回息をした。


「……はい」シオが言った。声が、少し揺れていた。「昨日の昼まで、計算書があると思っていました。設計があると思っていました。でも夜に松明が来て——なんか、急に、わかったんです」


「なにが」


「死ぬかもしれないって」


 ガルドが答えなかった。


「計算書があれば守れるのは知っています。設計が合っているのも知っています。でも——それでも死ぬかもしれないって、昨夜急に思って、眠れなくなりました。怖くて怖くて、手帳を開いても何も書けなくて」


 シオが石垣から少し離れて、両手で手帳を持ち直した。


「情けないです。こんなことじゃ役に立てないって思いながら、それでも怖くて」


 ガルドはしばらく、西の方角を見た。


 霧がある。松明は見えない。外壁の輪郭だけが、夜明け前の薄明かりの中にある。




「段取りが済んでいれば、怖くない」ガルドが言った。


 シオが顔を上げた。


「怖いのは段取りが埋まっていない時だ。何をすべきか分からない時だ。手が止まる時だ。それが一番怖い」


 ガルドは外壁を見た。七区間目が完工した外壁が、南の第一水門から北稜線まで途切れずに続いている。


「水門の合図の手順は決まっている。コルダが覚えた。外壁は第一水門から北稜線まで一本の線になった。動線は三パターン全部に計算書がある。穴は二つあった——合図の伝達と霧の視界だ。合図はコルダが埋めた。霧は昨夜、向こうが別の選択肢で動いた。霧を使わずに夜に来た。だからこの朝、霧は問題じゃなくなった」


 シオが黙って聞いていた。


「段取りが積んである。水路が機能する。外壁が止める。水門がコルダに動かせる。その上で先遣隊が来た。——何が怖い?」


 シオが少し考えた。


「……それでも死ぬかもしれないのが、怖いです」


「そうだ」ガルドが言った。「死ぬかもしれない。それは段取りを全部積んでも変わらない。設計が完璧でも変わらない。命の話は計算書に書けない」


 シオが息を詰めた。慰めの言葉を言おうとしていないのが、ガルドの口調から分かる。シオがそれを分かって、息を詰めている。


「ただ——段取りが積んであれば、やることが分かる。合図が来たら計算書の手順に従う。水門の前に立って待てる。外壁の上から見ることができる。手が動く。手が動けば、怖さは仕事の邪魔をしない」


「怖さが消えるわけじゃない、ということですか」


「消えない。消えた方がおかしい」ガルドが言った。「怖いのは正しい。死ぬかもしれない状況だから、体が怖がる。体が正確に状況を読んでいる。問題は、怖さに手を止められることだ。手が止まった時に段取りが崩れる。だから段取りを先に積んでおく」


 シオが少し考えた。


「段取りが積んであれば、怖くても手が動く——ということですか」


「そうだ」


「……それが、「段取りが済んでいれば怖くない」という意味ですか」


「怖くないんじゃない」ガルドが言った。「段取りが済んでいれば——怖さが手を止めない、ということだ」




 シオが手帳を開いた。


 暗い中でも、書こうとしている。ガルドが「ランプを持ってこい」と言うより前に、シオが石垣の上に手帳を置いて、夜明けの薄明かりの中で文字を書き始めた。


(書ける手が動いているなら、それで十分だ)


「書いたか」


「はい。「段取りが済んでいれば、怖さは手を止めない」」シオが言った。「そのままで良いですか」


「一字一句じゃなくていい。意味が正確に残れば」


 シオが頷いた。もう少し書き足して、手帳を閉じた。


「ガルド様は怖くないんですか」


 ガルドは少しの間、西の方角を見た。


 霧が沼地の上を低く流れている。外壁の向こう、街道の方角は何も見えない。七本の松明は昨夜見た場所に、もうない。斥候は帰った。今頃は本隊に報告しているはずだ。次に来る時は——今夜ではないが、今夜ではないという確信もない。


「怖い」ガルドが言った。


 シオが顔を上げた。


「段取りが積んであっても、怖い。計算書が合っていても、怖い。設計通りに動かなかった場合の計算が頭に浮かぶ。そういう計算が止まらない。それが怖さだ」


「それでも——」


「段取りを積んだからだ」ガルドが言った。「何が起きたら計算書の外に出るかを、全部書いてあるから、起きていない時でもその計算が回る。計算が回るから、怖い。段取りを積んだ人間は、段取りが崩れる場面を一番よく知っている」


 シオが静かに聞いていた。


「ただ——その計算を止める方法は一つだ。手を動かすことだ。次の段取りを組む。一つ埋まっていない空欄を埋める。今夜の計算書の変更を手帳に書く。手が動いている間は、怖さは仕事の邪魔をしない」




 夜が明けていた。


 気づかないうちに、空が白くなっていた。霧の中で夜明けが来ると、光が均一に広がって、いつ明けたのか分からない。シオが石垣から離れて、詰所の方角を見た。


「コルダさんたちは」


「もう来ている」ガルドが言った。「昨日の夜のうちに全員に話は通っている。水門の前にコルダがいる。外壁の上に見張りが増えた。農家の避難はマルカが昨夜段取りを組んだ」


「全部、動いているんですね」


「昨日の夜が計算外の事態の始まりだった。計算外の事態が起きたから、今朝の段取りが増えた。増えた段取りは昨夜のうちに埋めた。だから今朝、空欄はない」


 シオが手帳を持ったまま、外壁の方を見た。


「私は何をすればいいですか」


 ガルドが少し間を置いた。


「今日は計算書の写しをもう一部作れ。計算書が詰所にしかない。外壁の上にも一部持っておく必要がある」


「写します。どのページを」


「全部だ」


「全二十六ページですか」


「今日中に終わるか」


 シオが少し考えた。真剣な顔で、手帳を開いて、何かを計算するように視線を動かした。


「……頑張ります」


「頑張れじゃない。できるかどうかを聞いている」


「できます」シオが言い直した。「朝から始めれば昼過ぎには終わります。ページ数は昨日全部確認してあります。書きやすいページと書きにくいページがあるので——図のページは手順が要りますが、計算式のページは速く写せます」


(段取りを考えてから答えた)


「なら頑張れ」


 シオが口を少し動かした。怒っているのか、笑っているのかは、ガルドには分からなかった。


「はい」




 マルカが来たのは夜明けから半刻後だった。


「農家の後退は昨夜のうちに動かした」マルカが言った。「南農地側の農家七軒。全員に伝わった。今朝の夜明け前に動き始めている」


「確認した」


「外壁の上の見張りは増員した。稜線方向に一人追加している。北側の死角が一つあったので塞いだ」マルカが手帳を見た。「お前の計算書に書いていなかった位置だ」


「書いていなかった。良かった」


 マルカが少し顔を上げた。


「計算書に書いていなかった穴を一つ埋めてもらった、ということだ」ガルドが言った。「穴は誰かが埋める。お前が埋めた穴なら、俺の計算書より確かだ」


 マルカが短く、息を吐いた。


「先遣隊が今日また来ると思うか」


「マルカの方が読みやすい」


「俺の読みは——昼前後だ」マルカが言った。「昨夜の斥候が本隊に戻って報告するまでに時間がいる。報告を聞いた上で指揮官が判断する。判断から先遣隊が動き始めるまでに半刻から一刻かかる。昨夜の松明が沼地の入口についた時刻から逆算すると、本隊は沼地から六里ほどの場所にいる計算だ」


「六里」


「騎馬で一刻半から二刻。昨夜戻った斥候が夜明け直後に報告を出したとして、指揮官の判断に一刻。先遣隊の移動に二刻。最短で今日の昼前だ。遅ければ午後になる」


 ガルドが手帳に書いた。「昼前から午後——先遣隊の本格接触」。計算書に一行書き加えた。


(マルカの計算は軍の計算だ。俺の計算書には書けない数字だった)


「午前中は段取りを確認する」ガルドが言った。「水門の前にコルダがいることを確認してくれ」


「もういる。昨夜のうちに位置についた」マルカが言った。「コルダは今朝、夜明け前から水門の前に立っている。おかしな男だ」


「職人だ。段取りの時間に動く」


 マルカが少し口を閉じた。


「……お前たちは全員そういう人間なのか」


「そうだ」




 午前の霧が薄れていった。


 詰所の窓から、西の方角が少し見えるようになった。ガルドは計算書を机の上に置いて、一ページ目から順に確認した。説明する相手がいるわけではない。自分のための確認だ。


 一ページ目、地形図。水路の線と外壁の線が書いてある。今日の時点で変わっていない部分と、昨夜の松明によって変わった部分がある。変わった部分を一カ所、赤で印をつけた。「夜間接触——先遣隊斥候、霧回避行動、地形確認済みの可能性あり」。


 二ページ目、動線の三パターン。第一パターン(西街道正面)の可能性が最も高い。昨夜の松明は西の街道からだった。地形確認を済ませた相手が正面から来る選択をするかどうかは計算書の外だ。マルカに聞く話だった。


(計算書の外は、マルカに任せる。その分担が決まっている)


 シオが写しを始めているのが横で見えた。詰所の端の机で、計算書の一ページ目を広げて、慎重な字で写していた。「全部、朝から始めれば昼過ぎには終わります」と言った通りに、手が動いていた。


 昨夜眠れなくて、夜明け前に石垣の前に立っていたシオと、同じ人間だった。


(手が動いている。それで十分だ)




 外壁の上から、見張りの一人が降りてきたのは午の少し前だった。


「ガルド様」男が詰所に入ってきた。「西の街道、入口のあたりに——動きが見えます」


 ガルドが立ち上がった。


「旗を見るか」


「まだです。輪郭だけです。霧が晴れてきたので、街道の方が見え始めました。騎馬かどうかは、まだ距離があって分かりません」


「マルカに伝えろ。俺は外壁の上に行く」


 男が走った。


 ガルドが計算書を机に置いた。手帳を手に取って、外に出た。


 外壁に向かう途中、コルダが水門の前に立っているのが見えた。ガルドと目が合った。コルダが何も言わずに頷いた。ガルドも頷いた。それだけだった。三十年段取りを積んできた人間は、言葉を使わなくても段取りが通じる。


 外壁の足場に上った。


 西の方角を見た。


 霧が薄れていた。街道の輪郭が、水路の向こうに見えていた。


 その街道の上に——動くものがあった。


 距離がある。まだ輪郭だ。騎馬か歩兵かは分からない。だが動いている。昨夜の松明が止まっていた場所より、こちら側だ。


(来た)


 ガルドは外壁の上に立って、その動きを見た。計算書が頭の中で展開する。第一パターン、西の街道から正面。外壁で止める。水門を動かす。三時間で地盤が変わる。——その計算が、今実際に動こうとしていた。


 段取りが積んである。


 怖い。


 ただ、手は動く。




 足場の下からシオが上がってきた。写しの途中で見張りの報告を聞いて来たのだろう。手帳だけ持っていた。


「来ましたか」シオが聞いた。


 ガルドは西の方角を指した。


 シオが見た。動くものが見えた瞬間、シオの顔が一度固まった。息を一度、短く詰めた。


「……怖い、です」シオが小さく言った。「さっき怖さは手を止めないと分かったのに、見えた瞬間にまた怖くなりました」


「そうだ」


「ガルド様は」


「怖い」ガルドが言った。「見えたら怖い。それが正しい」


 シオが外壁の上に手帳を置いた。ガルドの横に立った。


「……計算書の写し、半分終わっています。昼過ぎには全部終わります」


「外壁の上に持ってくる分は、どのページが必要だ」


 シオが少し考えた。「七ページ目と八ページ目です。水門操作手順と流量の計算が書いてあるページです。合図の確認をするのに使います」


「そこから先に写せ。優先順位を変えていい」


「はい」シオがすでに手帳を開いていた。外壁の上で、計算書の七ページ目の内容を思い出しながら、手を動かし始めた。


(街道の向こうに先遣隊が来ている。外壁の上で計算書の写しを書いている——これが段取りだ)


 ガルドは西の方角を見続けた。


 動くものが少しずつ、形になってきていた。


 騎馬だ、とわかった。


 複数。昨夜の七本より多い。先遣隊が、本格的に動いてきた。



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