撤退すべきだ
朝のうちは静かだった。
ガルドは詰所の卓に手帳を広げ、正門の試算の続きをやっていた。昨日の計算で、誘導水路の角度は出た。今日は門の幅と両側の壁厚の整合を確認する段取りだ。
シオが来たのは、日が少し上がった頃だった。
「おはようございます。今日も正門ですか」
「そうだ」
「外壁の施工は?」
「段取りを渡してある。今日は見なくていい」
シオが向かいに座って手帳を開いた。「……ガルド様が「見なくていい」って言う日は計算が佳境なんですよね」と言いながら、手帳の端に「正門計算・佳境」と書き込んでいた。
「そうは言ってない」
「言ってますよ、雰囲気で」
(雰囲気で言うということはしていないが、まあ)
ガルドは手帳に目を戻した。
門の幅は三間半が最適だった。荷車が二台すれ違える幅と、敵の突入を絞れる幅のバランスだ。広すぎると突入時に守りにくい。狭すぎると農業用途が制限される。三間半は両方に使える計算だった。
マルカが飛び込んできたのは、そこから一刻も経たないうちだった。
扉が開く音が、いつもより速かった。足音がいつもと違った。
ガルドが顔を上げると、マルカが立っていた。息が少し乱れていた。普段と違う目をしていた。
「ゼルカが動いた」
ガルドの鉛筆が止まった。
シオが手帳を閉じた。
「……何が」ガルドが聞いた。
「ゼルカ公国だ」マルカが卓に近づいた。「正式に侵攻を決定した。沼地を取り戻すという名目で、部隊が動き始めている」
部屋が静かになった。
(……そうか)
「情報の出どころは」
「王都から来た。ゼルカが上に許可を取り、部隊の召集をかけた。一月以内に動くという見立てだ」
「規模は」
「歩兵五百から七百。騎兵が百前後。先遣隊が既にこちら側の国境に向かっていると思われる」
ガルドは手帳を置いた。
「道は」
「西の街道を使う。沼地の入口まで街道が整備されている。そこから先は、工事の様子を見ながら判断するだろう」
「先遣隊が来るまで、どのくらいある」
「早ければ三日。遅くとも五日だ」
シオが「三日……」と小さく言った。
マルカが卓の向かいに立ったまま、ガルドを見た。
「撤退すべきだ」
はっきりした声だった。
「要塞はまだ未完成だ。外壁は全体の三分の一に満たない。水路の掘削も途中だ。正門はまだ設計段階だ。今の状態で五百以上の部隊を相手にするのは無理だ」
「それで、どこへ撤退する」
「王都に向かう。領民を後退させ、援軍を要請する。要塞が完成してから戻る——それが軍事的に正しい判断だ」
ガルドはマルカの手を見た。腕が動いていなかった。
マルカの声に迷いはなかった。戦場を知っている人間の言い方だった。
ガルドは少し間を置いた。
(……撤退する、か)
「基礎は完成している」ガルドが言った。
「何?」
「外壁の一部が完成している。水路の配置は決まっている。地形の設計は動いていない。未完成なのは表面の話だ。骨格は入っている」
マルカが「それが守りになると思うか」と言った。
「設計通りに動けば、守れる計算がある」
「計算と実際の戦闘は違う」マルカが言った。「地形を計算した設計書があっても、敵は計算通りに動かない。騎兵が予想外の角度から来る。数が多ければ力で押し切ってくる。軍事はそういうものだ」
「わかってる」
「それでもか」
「だから計算してある」
ガルドが立った。
卓の端に積んであった書類の束から、一冊の計算書を取り出した。一月前からつけ始めた防衛設計の手帳だ。正門設計の計算書とは別のものだった。表紙に「水門操作・外壁配置・対応案」と書いてあった。積み重ねた計算の分だけ、そこそこの厚みがあった。
マルカの前に置いた。
「見てくれ」
マルカが手を出した。一ページ目から見始めた。
シオが隣からそっと覗き込んだ。ガルドは壁際に立って待った。
計算書には、水路の開閉パターンが図解してあった。西の街道から沼地に向かって来る場合、水路の状態によって歩兵が動ける区間と動けない区間が変わる。騎兵が入れる地盤と入れない地盤の分布も、測量値から計算していた。城壁のどの区間がどの方向から来る敵に対して有効か。水路が「堀」として機能する状態にするために、どの順番でどの水門を操作するか。
マルカが水路の図解のところで、指が止まった。ページをめくる速度が落ちた。
全部、数字だった。
地形の測量値と、施工済み区間の強度データと、水路の流量計算が、全部繋がっていた。
「……」マルカがページをめくった。
手が止まった。
「この水路の開閉順は——」
「西の街道から来る場合の想定だ。先遣隊が沼地の入口に差しかかった段階で第一水門を開く。すると西縁の地盤が水を含んで騎兵が入れなくなる。歩兵は動ける。ただし動ける区間が絞られる。そこに外壁が来ていれば——」
「……絞った場所を守る壁になる」
「そうだ」
マルカがもう一度ページを戻した。水路と外壁の位置関係の図を見た。
「外壁が未完成でも、この区間だけ完成していれば機能するということか」
「そうだ。全部できている必要はない。水路と外壁が連動している区間が確保できていれば、その計算は成立する」
「……今、どの区間が完成しているんだ」
「外壁は西縁の五区間分。水路は誘導路の一本が使える状態だ。不完全ではある。ただし第一・第二水門の制御に必要な基礎工事は全部終わっている」
マルカが計算書から顔を上げた。
「設計外の動きが来たらどうする」
「来る前に考えている」ガルドが計算書のページを開いた。「北側の高台から迂回した場合の想定が後半にある。このルートは地盤が軟弱で騎兵が通りにくい。ただし歩兵は通れる。その場合の対応案が三つある」
マルカが後半のページを開いた。三パターンの対応案が図と数字で並んでいた。
「……三パターン」
「どれが来るかは状況による。判断は現場でする。ただし判断の選択肢は事前に計算してある」
マルカがしばらく黙った。
計算書のページを最初から最後まで、もう一度見ていた。シオが息を潜めていた。ガルドは壁際から動かなかった。
(……どう判断するかは、マルカが決める)
(俺が言えることは言った)
マルカが計算書を閉じた。
卓の上に置いた。
少しの間があった。
マルカは表紙に指先を一度置いた。
「お前に任せる」
低い声だった。
「撤退の判断は俺が持っていた。今も持っている。だが——この計算書がある以上、撤退より先にやることがある」
「先遣隊が来るまでに、西縁の外壁をもう二区間分進める。水路の第一水門の動作確認もする」ガルドが言った。「三日あれば、設計通りに動ける最低限の準備はできる」
「三日でできるのか」
「計算が合っていれば、できる」
マルカが「計算が合っていれば、か」と繰り返した。何かを確かめるような言い方だった。
「お前は外れるとは思っていないだろう」
「外れる可能性は計算に入れてある。対応案が三つある理由だ」
マルカが短く笑った。笑い方ではなく、溜め息に近い音だった。
「……わかった。では俺は領民の後退路の確認をする。万一の場合の退路は整えておく。同時進行でやる」
「助かる」
「お前が「助かる」と言うの、珍しいな」
「段取りが複数要る。一人では回らない」
マルカが計算書を手に立ち上がった。
「この計算書、写しを一部もらえるか。俺が持っていたい」
「シオに頼む」ガルドがシオを見た。
「はい、今日中に写します」シオが手帳を開いた。「……分厚いな」
「頼む」マルカが言った。
「あと——」シオが少し言いにくそうにした。「一つ聞いていいですか。マルカ様」
「なんだ」
「撤退すべきだって言ってたのに、計算書を見て「任せる」って言いましたよね。……何が変わったんですか」
マルカが少し考えた。
「段取りがあったからだ」マルカが言った。「俺が「撤退すべきだ」と言ったのは、行き当たりばったりで戦っても勝てないからだ。だがこの計算書には、敵が来る前に何をするか全部書いてある。それがあれば話が変わる」
「……なるほど」シオが手帳に書いた。「段取りがある、か」
「そういうことだ」マルカが言った。「ガルド、一つだけ聞く」
「なんだ」
「本当に守れると思うか」
ガルドは少し間を置いた。
「思っている」
「根拠は」
「計算だ」
マルカが「そうか」と言った。今度は溜め息ではなかった。
マルカが出ていった。
詰所が静かになった。
シオが「……始まるんですね」と言った。
「そうだ」
「怖くないですか」
ガルドは手帳を手に取った。正門の計算書だ。
「今は段取りを組む方が先だ」
「それはそうですけど……」シオが手帳を見た。「私は少し怖いです」
「怖くていい」
「え」
「怖いから段取りを丁寧にやる。段取りが済んでいれば、後は動くだけだ」
シオが少し間を置いた。
シオがそれを聞いて、手帳に何か書き込んだ。たぶん記録だろうと思った。
「……わかりました」シオが言った。「では計算書の写し、始めます。今日中に終わらせます」
「頼む」
シオが計算書を手に取って作業を始めた。外から施工の声が来ていた。職人たちが段取り通りに動いている。
ガルドは手帳を広げた。
外壁の追加施工の段取りを組む。西縁の六区間目と七区間目。それと第一水門の動作確認。三日で全部終わらせる計算を出す。
(守れる計算はある)
(三日——計算が合っていれば、三日で足りる)
(あとは段取り通りに動くだけだ)
ガルドは計算を始めた。




