脅威になる前に
正門の設計は、外壁の施工が続いているうちに始めることにした。
外壁は職人に任せておける。特殊土質の配合比率は確認済みだ。施工手順も段取りも、シオが手順書を持っている。ガルドがいなくても動く。
なら、次の仕事を始める。それだけのことだった。
ゼルカ公国の偵察三騎が国境の詰所に戻ったのは、日が暮れてしばらく経ってからだった。
詰所は小さかった。石壁が湿っていた。灯りが少なくて、室内が暗かった。
先頭の騎兵——アルンと呼ばれていた男——が詰所の奥の部屋に入った。奥には指揮官が地図を広げて待っていた。
「ネリウス隊長」アルンが言った。「報告があります」
ネリウスは地図から顔を上げた。四十代の男だ。傷のある顎を持ち、目が細い。辺境の指揮官として長くやっている顔をしていた。
「ヴァルダ沼地の状況はどうだ」
「変わっていました」アルンが言った。「前回と、かなり」
三騎が揃って報告した。
先月の視察では、工事の気配はなかった。沼地に農地があり、崩れかけた城壁があった。辺境の、よくある貧しい領地だった。
今回は違う。
「東縁に壁が立ち始めていました」アルンが言った。「数間分です。まだ高くはない。ただ——測量杭が規則的に並んでいる。水路の掘削も始まっている」
「水路の向き」ネリウスが聞いた。
「沼に繋げる方向でした。沼地の端に向かっています」
ネリウスが地図に指を置いた。ヴァルダ沼地の位置を指でなぞる。
「……囲うつもりか」
「そう見えます」アルンが言った。「水路と壁で。沼地全体を」
部屋の中が静かになった。
もう一人の騎兵——ドウが言った。「まだ工事中です。完成してはいない」
「そうだ」
「なら——今なら、まだ手薄なはずです」
ネリウスが地図から目を離した。視線が卓上に落ちた。
少し考えてから言った。「あの沼地——今の状態で、何があると思う」
「工事の人員だけです。要塞守備の兵はいない。壁は立ち始めているが、全体から見れば部分だ」
「水路は」
「まだ完成していない。掘削が始まった段階です」
ネリウスが腕を組んだ。
「完成させたら、どうなる」
誰も即座には答えなかった。
ネリウスが続けた。「あの沼地は、もともと侵攻しにくい地形だ。湿地が多い。騎兵が入れない区間がある。それに壁と水路が加わったら——」
「……難しくなります」アルンが言った。「かなり」
「今ならどうだ」
「今なら——まだ動線がある。沼の東縁は固まっていない。迂回できる区間がある。工事中で人員が散っている」
ネリウスが地図を指先で叩いた。一度だけ。
「脅威になる前に動く」
低い声だった。判断を言い渡すときの声だった。
「完成を待つ必要はない。完成前に制圧する。今なら手薄だ。今なら間に合う」
「……いつ動きますか」アルンが聞いた。
「準備を始める。一月あれば整う」
誰も反論しなかった。
ドウが「報告を上に上げますか」と聞いた。
「上に上げる。同時に、部隊の召集もかける。許可が出次第、動く」
ネリウスが地図を折りたたんだ。
音もなく、所作だけが素早かった。長くこの仕事をしている人間の動きだった。
翌朝、ガルドは詰所の卓に手帳を広げた。
正門の設計だ。
正門は要塞の弱点になりやすい。どんな地形も、出入口がある限り穴が生まれる。入口を強くしすぎれば重くなる。軽くしすぎれば突破される。そのバランスを、水路と地形と合わせてどう取るか——そこを今日中に計算の方向性だけでも出したかった。
手帳の白いページに、まず沼地の地形図から書き起こした。記憶から引き出した実測値だ。
正門を置く候補地は三か所ある。
(北東の丘の縁。東の農道交点。南の旧街道口)
それぞれに優劣がある。北東は地盤が安定しているが、そこまでの道を整備するコストが大きい。東は農道と連動させやすいが水路との干渉が難しい。南は既存の道がある分、工事量が少ないが、地形的に外からも入りやすい。
(……まず仮置きで試算してみよう)
鉛筆を走らせ始めた。
シオが来たのは、朝の太陽が少し上がった頃だった。
「おはようございます。今日は何の段取りですか」
「正門だ」
「あ、もう始めてるんですか」シオが手帳を取り出した。「昨日「始める」って言ってましたね。本当にすぐ始めた」
「段取りは早い方がいい」
「外壁まだ終わってないのに」
「同時進行できる」
「……なるほど」シオが卓の向かいに座った。「候補地は決まりましたか」
「三か所を試算している。地形・コスト・水路との干渉、三つを並べて比べる」
「どこが一番良さそうですか」
「まだわからない。計算が出てから判断する」
シオが手帳に「正門候補地三か所・試算中」と書いた。
「マルカ様には連絡しましたか」
「正門の話はまだだ。試算が出てから見せる」
「……わかりました。出たら教えてください。私から言うのはやめておきます」
(なぜシオが言いに行く話になるのか理解できないが、まあ)
「わかった」
施工班の声が外から聞こえてきた。
外壁の施工が続いている。特殊土質の配合作業の音と、土魔法師の低い掛け声が交互に来る。昨日から始めた四区間目の施工だ。三区間までで施工精度と速度は確認できている。今日からは本格的な量産体制に入る段取りを組んでいた。
ガルドは声に気を取られることなく手帳を見ていた。
計算は計算だ。現場は現場だ。段取りが整っていれば、どちらも同時に動く。
(南の旧街道口は外からも入りやすい——ここは水路で補完できるか)
旧街道口を正門にする場合、入口の手前に横断水路を一本引けば、敵の動線を一本に絞れる計算になる。ただし横断水路の幅を確保するには現在の設計との干渉を再確認しないといけない。
(……干渉する区間が、ここになるか)
手帳の地形図に線を引いた。
マルカが顔を出したのは、昼を過ぎてからだった。
「外壁の施工は順調か」
「問題ない」ガルドが言った。「昨日の四区間目は計算通りの速度で進んでいる」
「今日は」
「五区間目に入っている。今日の夕方には確認できる」
マルカが卓を覗き込んだ。手帳に広げた図面を見た。
「……正門の話か」
「そうだ。三か所を試算している」
「外壁が終わる前に正門の設計をするのか」
「段取りだ。正門の設計が外壁完成に間に合わなければ、次が詰まる」
マルカが「なるほど」と言った。言い方に何かが混じっていた気がしたが、ガルドは手帳に目を戻した。
「候補地を見せてもらえるか」
「まだ試算の途中だ。数字が出てから見せる」
「そうか」マルカは一歩引いた。「なら——施工の確認だけして帰る。また数字が出たら教えてくれ」
「わかった」
マルカが詰所を出た。
シオが「マルカ様が来るたびに「また数字が出たら教えてくれ」って言って帰りますね」と言った。
「計算が出るまで待てるということだ」
「……そういう理解でいいのか、よくわかりませんが」
(理解して合っているとは思うが)
午後になった。
ゼルカの指揮官が部隊の召集をかけ始めていることを、ガルドは知らない。
北の国境に近い村で、酒場の男が「最近、ゼルカ側に人が増えてる気がする」と言ったことを、ガルドは知らない。
ガルドが知っているのは、正門の候補地三か所のうち東の農道交点が、今日の試算で数字的に一番整合が取れているということだけだった。
(東の農道交点——水路との干渉を確認する必要があるが、地盤は安定している。農道に合わせて門を設計すれば既存の道の整備コストも下がる)
(ただし——この位置に門を作る場合、外側のアプローチ角度が課題になる)
外から正門に向かうとき、まっすぐ来られると突入されやすい。角度をつける必要がある。角度をつけると農道との連動が難しくなる。
(……水路でアプローチの角度を制御できるか)
手帳にもう一本の線を引いた。正門の手前に横断水路ではなく、斜めに走る誘導水路を引く案だ。これなら農道を農業用途で使いながら、軍事的なアプローチ角度を水路で制御できる計算になる。
(……悪くない)
外から声が来た。
シオの声だった。外壁施工の確認に行っていたシオが、急いで戻ってくる足音がした。
「ガルド様」
扉が開いた。シオが手帳を抱えて立っていた。
「どうした」
「五区間目の施工速度が出ました。計測しました」シオが手帳を開いた。「一・四二倍です。昨日の一・四前後から少しだけ上がりました」
「配合比率を変えた効果が出た」
「そうだと思います。記録としていいですか」
「入れておけ」
シオが手帳に書いた。「昨日と今日で一・四前後から一・四二。配合比率を少し変えただけでこれだけ出るって——すごいですね」
「配合の最適値がまだ確認できていない。しばらく変数を変えながら計測を続ける」
「配合の最適値が出たら、また設計が変わりますか」
「変わる可能性がある」
シオが「……マルカ様の段取りが大変そうだ」と小さく言った。
(それはマルカの段取りではなく俺の段取りだが)
「設計が良くなるということだ」
「それはわかってます」シオが笑って手帳を閉じた。「ガルド様は毎回そう言って設計を変えますね」
「より良い設計があるなら変える。それだけだ」
日が傾いた頃、マルカが再び顔を出した。
「施工の確認は終わった。今日の五区間目まで計算通りの速度だ」
「そうか」ガルドは手帳を顔の前に持っていた。
「そちらは」
「正門の候補地が一か所に絞れた」
マルカが眉を動かした。「今朝から始めたのに、もう絞れたのか」
「試算が出た。東の農道交点だ。水路との連動と地盤の安定性で、ここが一番整合が取れる」
「見せてもらえるか」
ガルドが手帳を卓に広げた。午前中から書き足してきた図面だ。候補地三か所の比較試算と、東の農道交点を正門とした場合の誘導水路の案が並んでいる。
マルカが図を覗き込んだ。少しの間、黙って見ていた。
「……この斜めの水路は」
「誘導水路だ。正門へのアプローチ角度を水路で制御する」
「農道を潰さずに」
「農業用として使える角度に設計してある」
「……」
マルカが腕を組んだ。
「お前は」マルカがゆっくり言った。「本当に守ることを考えているのか。工事の効率を考えているのか。どっちだ」
「両方だ」
「……同時にできるのか」
「計算が合えばできる」
マルカが溜め息をついた。不満そうではなかった。どちらかというと——呆れのような、それでいて否定しない溜め息だった。
「わかった。試算の続きが出たら見せてくれ」
「また数字が出てから連絡する」
「……いつもそれだ」
シオが「でも毎回出してくれますよ」と隅から言った。
「それは認める」マルカが言った。
マルカが出ていった後、シオが「最近、北の様子がおかしいって誰かから聞きましたか」と言った。
ガルドは手帳を見ていた。「聞いてない。何が」
「私も詳しくは知らないんですが——昨日、村の人が「北の方から人が増えてる気がする」って言ってたのを聞いたので」
「そうか」
「気になりませんか」
「今は正門の設計が先だ」
「……まあ、そうですよね」シオが手帳を開いた。「一応、記録しておきます。「北側の往来に変化あり・要確認」で」
「そうしてくれ」
(そういう情報は、確認できてから判断する。今の段階ではただの雑談かもしれない)
ガルドは手帳に目を戻した。
誘導水路の角度を計算し直す。農道との干渉を最小化しながら、正門の防衛角度を確保する。そのための最適値を出す。
外から施工の声が来ていた。六区間目の施工が始まっている。職人たちが段取り通りに動いている。
ゼルカの詰所では、ネリウスが文書を書き終えた。
「上への報告書だ」ネリウスがアルンに渡した。「急使で送れ」
「内容は」
「ヴァルダ沼地に要塞建設が進んでいる。完成前に制圧の機会がある。一月以内に部隊の準備を整える。許可を求める——以上だ」
アルンが文書を受け取った。「……一月で準備できますか」
「できる。兵はいる。問題は道だ。あの沼地に入る道を事前に確認しておく必要がある」
「偵察をもう一度出しますか」
「出す。次は三騎ではなく、一騎でいい。目立たない方がいい」
アルンが「わかりました」と言って部屋を出た。
ネリウスは地図をまた広げた。
ヴァルダ沼地の位置に指を置いた。湿地のためにこれまで放置されてきた土地だった。誰も欲しがらない。誰も気にしない。そういう場所だった。
だが——壁が立ち始めていた。
水路が引かれ始めていた。
完成させてはいけない。完成したら、あの沼地は全く別のものになる。
(今なら間に合う)
ネリウスはそう判断した。
夕暮れになった。
ガルドは詰所の外に出て、施工した外壁の区間を見た。
今日で五区間まで完成した。合計十五間分の外壁だ。特殊土質を配合した壁は、通常の施工より白みがかった表面になる。夕暮れの中で、その白さがはっきりと出ていた。
シオが隣に来た。
「今日も計算通りでしたね」
「そうだ」
「外壁が全部できたら、どのくらいの見た目になるんですか」
「計算上は——高さ二間半。全体で三十区間弱になる」
「三十区間」シオが壁を見上げた。「今が五区間で……あと二十五区間あるんですか」
「そうだ」
「まだ六分の一しかできてないんですね」
「始まったばかりだ」
シオが「それでこの存在感か」と言った。小さくだが、はっきりと。
ガルドは少し間を置いた。
(……確かに、まだ六分の一でこれだけ立っている。完成したら)
(計算通りになるだけだ。計算は最初から合っていた)
「正門の試算、明日の午前には出る。マルカに見せられる状態にする」
「連絡しておきましょうか」
「頼む」
シオが手帳を開いた。夕暮れの中でペンを走らせる。ガルドは壁から視線を沼地の方へ移した。
水路の掘削区間が遠くに見えた。測量杭が並んでいる。日が傾いて、水面に光が散っている。
沼地はいつも通りの夕暮れだった。
鳥の群れが北から南へ飛んでいた。霧が出始めていた。
ガルドはそれを見ていたが、とくに何も思わなかった。鳥は毎日飛ぶ。霧は毎夕出る。それだけのことだった。
「帰るか」
「はい」シオが手帳を閉じた。「明日の段取りは」
「六区間目から九区間目の施工。それと正門の試算の続きだ」
「わかりました」シオが歩き出した。「また一日仕事が増えましたね」
「それが仕事だ」
「……ガルド様はそれが楽しそうで何よりです」
(楽しいというより、やることがある、というのが正確だが)
「帰るぞ」
「はい」
沼地の夕暮れの中、二人の影が詰所の方へ歩いていった。
壁はそこに残った。夕霧の中でも、白い輪郭だけははっきりと見えていた。




