不器用な信頼
シオが写しを作り始めたのは朝の早い時間だった。
羊皮紙を机に広げ、原本の設計図を横に置いて、丁寧に線を引いていく。凡例のある西半分から始めた。
ガルドはその隣で、次の工事区間の段取りを確認していた。
「ガルド様、この記号——地盤優先度の「二」のところ——」
「なんだ」
「記号の位置が、原本と少しずれている気がするんですが」
ガルドが写しを覗き込んだ。
「……一間ずれてる。書き直せ」
「やっぱり」シオが消しゴム代わりの革切れを使い始めた。「どうしてこんなにわかるんですか、一目で」
「場所が違うと計算が変わる。気になる」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
(シオは感覚で描く。それ自体は悪くないが、一間のズレが施工で出たときに誰も気づかなくなる)
「凡例の位置は枠内に収めてくれ。欄外に出ると申請書の合綴ができなくなる」
「わかりました」
シオがもう一度線を引き直した。今度はガルドが言う前に定規を当てた。
北農地東端の水路工事——今週から二期区間の施工に入る予定だった。段取りは固まっている。問題は地盤改良の順番だ。
ガルドは手帳を開いて計算式を確認した。
城壁北側区間の地盤改良が今月完了する。完了後、すぐに次の区間に入らないといけない。時期が遅れると冬前に仕上がらない。
(冬前に一期水路を完成させないと、来年の春まで設計通りの水の動きが確認できない。それだと二期の着工が半年遅れる)
手帳に工期の数字を書き込んだ。
午前が半分過ぎたころ、マルカが来た。
「少し時間をもらえますか」
「どうぞ」
シオが写しから顔を上げてマルカを見た。マルカは作業場の入口に立ったまま、いつもより少しだけ動作がゆっくりだった。
「写しの確認ですか」ガルドが言った。「一時間後なら仕上がります」
「……違います」
マルカが机の前まで来て、立ったままガルドを見た。
「昨日——お伝えしそびれたことがあります」
ガルドは手帳を閉じた。
「聞いています」
マルカが少し間を置いた。
シオが写しを置いて動かなくなった。空気が変わったのがわかったのだろう。
「この設計を——信じることにした」
マルカがはっきりと言った。
「水路が城門より強い。土木が先で、要塞はその結果になる。あなたの計算が方向を出す。そういう設計だということを——個人として、信じることにしました」
作業場が静かになった。
シオが「……」という顔でガルドを見た。今の台詞の重さをどこに置けばいいか測っているような顔だった。
(昨日伝えそびれていたのは、これか。まあ——言いにくい内容ではある。軍人が設計者に「信じる」と言うのは、仕事の文脈では)
ガルドは少し考えた。
「仕事の話でいいですか」
「……どういう意味ですか」
「計算が正しければ、信用は関係ない。計算が間違っていれば、信用があっても成立しない。設計はそういうものです」
マルカが少し目を細めた。
「それはわかっています」
「わかっているなら——」
「それでも言いに来ました」
ガルドは少し黙った。
(……まあ、言いに来た、か。確かに、昨日まで言わなかったことを今日言いに来たのはそうだ)
マルカが机の横の椅子を引いて、座った。
「聞かせてください。昨日の確認の続きがあります」
「どうぞ」
「設計情報の件です」マルカが声を落とした。「申請書を送った後——内容がゼルカ公国に渡っている可能性があります」
ガルドは手帳を再び開いた。
「どの程度の可能性ですか」
「はっきりとは言えない。ただ、王都側の動きを見ていると——貴族院に申請書が届く前に、ゼルカ側が動いている節がある」
「前に届く前に」
「はい」
シオが「それって……」と口を開きかけた。マルカがシオをちらりと見た。シオが口を閉じた。
「どのルートですか」ガルドが言った。
「特定はできていない。ただ、貴族院の内部か——申請書を運んだ経路のどこかに、情報が漏れる場所がある可能性があります」
ガルドは計算書の最初のページを開いた。
「控えを作っておいてよかった」
「……計算書の控えですか」
「先日作りました。原本は俺が持っています。申請書の添付分は写しです」
マルカが少し黙った。
「……そうでしたか」
「情報が渡っているとして——渡っている内容は申請書の範囲内ですか、それとも設計図の全体ですか」
「申請書の範囲内、だと思います。今のところ」
「なら、一期水路の設計は向こうに渡っている可能性がある」
「はい」
(悪くない前提で段取りを組もう。渡っているとして、ゼルカが一期水路の設計を見て何がわかるか。水路の配置と延長距離。地盤改良の優先区間。それだけでは全体の意図はわからない。計算書がなければ、なぜその位置に水路があるかの根拠が読めない)
ガルドはしばらく手帳を見た。
「設計情報が渡っているとしても——今の計画を変える必要はない」
「なぜですか」
「設計図だけ見ても、計算書がなければ意図が読めない。計算書がなければ再現もできない。水路の位置だけわかっても、なぜそこに引くのかが分からないと、防衛設計として読めない」
マルカが「……なるほど」と言った。
「段取りを変えない。工期通りに進める。それだけです」
「わかりました」
シオが「あの……」と控えめに口を開いた。
「なんだ」
「マルカさんが「信じることにした」って言ったのに、ガルド様がすぐ「仕事の話でいいですか」って返したのは——なんというか、もったいなくないですか」
マルカが少し苦笑した。
ガルドはシオを見た。
「もったいない、とは」
「いや……なんか、マルカさんが大事なことを言いに来てくれたな、と思いまして」
「大事なことを言いに来た。うん」
「で、ガルド様は「仕事の話でいいですか」」
「そうだ」
「……うん、まあ、そうですよね」シオが手帳を開いた。「ガルド様はそういう方ですよね」
(そういう方、か。まあ——仕事の話に整理した方が処理しやすい。それだけだ。マルカが言いに来たこと自体は、よくわかった)
マルカがガルドを見た。
「一つだけ聞かせてください」
「どうぞ」
「「仕事の話でいい」と言いましたが——信じるかどうかは、あなたには関係ないですか」
ガルドは少し間を置いた。
「……計算を信用するのは自由です。計算が正しければ成立する」
「それは聞きました」
「ただ」
マルカが少し前のめりになった。
「……まあ」ガルドが言った。「信じてもらった方が——段取りが組みやすい」
(……我ながら、そういう言い方をするとは思っていなかった。まあ、間違いではない)
「それだけですか」
「それだけです」
シオが「今の、どっちが勝ったんですかね」とひとり言のように言った。マルカが「どういう意味ですか」と言い、シオが「いや、なんか……どちらの話も正しい気がして」と言った。
マルカが少し笑った。
「それで」マルカが手帳を出した。「今日は確認があって来ました。設計情報の件の他に——一期水路の着工時期です」
「今週から北農地東端区間に入ります」
「工期は」
「地盤改良が五日。その後、水路の掘削が十日。合計で今月中に一本目は完了できます」
マルカが書き留めた。
「地盤改良は、城壁北側のものと同じ手順ですか」
「基本は同じです。ただし北農地区間は表層が城壁側と違う。粘土の含水比が高い。施工時に水が出る可能性がある」
「水が出るというのは」
「地盤を締め固めるときに含まれている水が押し出されます。出た水を横に誘導しながら進める必要があります。城壁側ではほとんど出なかった。農地側では出ると計算しています」
「……出た水はどこに」
「今ある小さい農業用水路に流します。水路が完成するまでの間の仮設です。完成後は自然に水路に流れるようになります」
マルカが「仮設、か」と手帳に書いた。
「申請書の内容に含まれていますか」
「一期工事の計算書に含まれています。別紙です」
マルカが「確認します」と言って鞄から申請書の写しを出した。
「……ありました。排水処理の仮設計画、十五行目」
「そうです」
マルカが「見落としていた」と言って線を引いた。
「あと一つ」マルカが申請書を鞄に戻した。「設計の話ではないんですが」
「どうぞ」
「あなたは——この設計が完成した後、次に何をするつもりですか」
ガルドはしばらく手帳を見た。
「次の設計です」
「次の、とは」
「正門の設計。水路が完成すれば、正門が担う役割が変わります。どういう形が最も機能するか、計算し直す必要がある」
「……この工事が全部終わってから、ですか」
「終わってからと並行して。できるところから計算を始めます」
マルカが少し間を置いた。
「あなたは、止まらないですね」
「止まる理由がない」
シオが「でも夜は寝てますよ」と横から言った。
マルカが「そうですか」と言った。
「当然だ」ガルドが言った。「寝ないと計算が鈍る」
シオが「ちゃんと人間のことを知っていた」と手帳に何かを書いた。マルカが「書かないでください」と言った。
夕方、ガルドは工事現場に出た。
城壁北側の地盤改良区間——今月完了予定の区間の、残りの部分だった。施工済みの区間と未施工の境目あたりを、魔法で締め固めていく。
作業自体はいつも通りだった。土の感触を確かめながら、圧縮の範囲を決めて、魔力を通す。
北から三間目まで、問題なかった。
四間目に差しかかったとき——工具の反応が、少し変わった。
正確には、工具ではなく地盤だった。
土魔法を通したとき、手に返ってくる感触がいつもと違う。
腕の内側に、抵抗が来た。魔力が素直に入らずに、跳ね返される感覚だった。
(……重い)
粘土の厚みが変わったかと思った。深さを確認するために魔力を絞って細く通してみる。
下に何かある。
いつもの地盤改良区間では、表層の粘土の下に中硬地盤があって、その下に城壁下と同じ硬い層がある——そういう構造だった。
ここは違う。
中硬地盤がない。
表層の粘土の下に、いきなり硬い層がある。しかも、その硬さが均一ではなかった。
(……形がある)
ガルドは手を止めた。
ただの地盤の変化ではない。硬い層の形が、不規則だった。自然にできた地層が不規則になることはある。だがこの不規則さは——方向性がある。
南北に長くて、東西に短い。
(これは……自然な地層の変化ではない。向きがある。向きがある不規則さは、何かに沿っている)
前に気づいた、城壁真下の硬い層の話が頭に浮かんだ。あのときも不規則だと思った。あのときは掘るという判断をしなかった。今は工事区間の中心だ。
掘るかどうか。
(今は工事優先だ。掘り調査は後でいい。ただ——ここに何かある、という記録は取っておく)
ガルドはいったん手を止めた。腰の手帳を取り出して、この区間の地点を書き留めた。
北農地東端から城壁方向に十三間。深さは二尺以下。硬い層の広がりは東西一間半程度。
「なんか止まりましたね」
後ろでシオが言った。いつの間にか来ていた。
「記録をとる」
「何かありましたか」
「地盤がいつもと違う感触だった」
シオが「違う感触、というのは」と聞いた。
「硬い層の形が変だ。下に何かある可能性がある」
「……何か、とは」
「今はわからない。調査は後だ。今は工事を進める」
シオが「わかりました」と手帳を開いた。
「記録してください。今日の日付で、この地点に地盤の異変あり、と」
「異変、でいいですか」
「他の言葉がない。異変でいい」
シオが書いた。
夕暮れ時、ガルドは手帳の記録を確認しながら現場を引き上げた。
城壁下の硬い層。今日の区間の硬い層。方向性がある不規則さ。東西に短く南北に長い形。
(この土地は、全部つながっている。城壁下から始まって、農地側に向かって、何かが伸びている)
そういう感触があった。
まだ証拠はない。計算もできていない。ただ、感触は正直だった。
「ガルド様」シオが隣を歩きながら言った。「今日の地盤の件——マルカさんに言いますか」
「今は言わない」
「なぜですか」
「材料がない。感触しかない。感触だけで報告するのは段取りが悪い」
「……まあ、そうですね」
「掘り調査を入れるかどうかは、工事の進捗を見てから決める。今は工事を先に動かす」
「わかりました」シオが手帳を閉じた。「でも、気になりますね」
「うん」
「何があるんですかね、下に」
「今はわからない」
「ガルド様でもわからないものがあるんですね」
「掘ってみないとわからない」
シオが「それって、掘ろうとしてるってことですか」と言った。
ガルドは少し考えた。
「……段取りが組めたら」
シオが「やっぱり」とだけ言って、手帳を鞄に入れた。
作業場に戻ってから、ガルドは今日の計算書に一行追記した。
北農地東端区間・城壁方向十三間地点——地盤異常記録。詳細調査要否は翌月以降判断。
書いた後で手帳を閉じた。
写しの仕上がりはシオが確認した。凡例の位置も、一間ずれた記号も、訂正されていた。
「完成です」とシオが言った。「申請書に合綴できる形になっています」
「確認する」
ガルドが写しを見た。線は均一で、凡例は枠内に収まっていた。
「悪くない」
シオが「ガルド様が「悪くない」って言ったら、それって「よくできた」ってことですよね」と言った。
「そうだ」
「じゃあ素直に言ってください」
「言っている」
シオが「言えてないです」と言ったが、ガルドはもう計算書を開いていた。
(明日、申請書の添付を整えて、貴族院に送り返す。返答が来るまでの間に、一期水路の着工準備を済ませる。段取りは動いている)
机の上の設計図。凡例。計算書。
全部揃っている。
(まあ——悪くない)




