世界初の軍事設計図
三日かけて、図は完成した。
羊皮紙二枚。縦半間・横三分の一間の大判。水路・城壁・地形の輪郭を全部一枚に収めた、この世界に存在しない種類の図面だった。
シオが朝来たとき、ガルドはすでに机の上の図を見ていた。
「……昨日の夜から描き直したんですか」
「直した部分がある。北農地東端の水路勾配を修正した」
シオが机を覗き込んだ。
「どれが修正した部分ですか」
「ここだ」ガルドが指で示した。「前の版では水路の底面が一間で四分の傾斜だった。土質を再計算したら三分半が正確だ。誤差は小さいが、施工では出る」
シオが「三分半……」と手帳に書き始めた。
(この傾斜の差を気にするのは俺だけかもしれないが、施工で一間ずつ積み上げていけば最後に狂いが出る。最初に直しておく方がいい)
「修正した版に清書してくれるか。俺は外周の地形線を確認する」
「わかりました」
午前中、マルカが来た。
昨日の件とは別の話だ、とガルドは最初に確認した。マルカの話の続きはまだ来ていない。ただ、マルカが来るなら来てもらった方がいい。図の確認者としてちょうどいい。
「完成したと聞きました」
「今朝、修正版を仕上げました」
「見せてもらえますか」
「どうぞ」
マルカが机の前に立った。図を手に取り、上から見た。
しばらく動かなかった。
(昨日と同じ顔だ。考えると止まる)
「……これは」
「統合設計図です」ガルドが言った。「水路・城壁・地形の三つを一枚に収めた図です」
「三つを、一枚に」
「それぞれ別の図で見ると、どこに水路を引けば城壁が不要になるかがわからない。一枚で見る必要があります」
マルカが「一枚で見る」と繰り返した。
「……いや」マルカが図の左端を指で示した。「この記号は何ですか」
「どれですか」
「この——丸の中に斜線が入っているもの」
「水路の流れ方向です。矢印で書くと線が多くなりすぎるので、丸と斜線で方向を示しています」
マルカが「……凡例はありますか」と言った。
シオが横から口を開いた。「ガルド様、この図には凡例が——」
「後でいい」
「でも申請書のときも凡例がないと——」
「後でいい。今は全体を見てもらう」
マルカが図を縦に持ち直した。
「この線の太さが違うのは意味がありますか」
「あります」ガルドが応えた。「太い実線が城壁の最終ラインです。細い実線が水路。点線が今後の施工予定区間」
「太さで区別している」
「太さと線種で区別しています。凡例は今日中に作ります」
シオが「今日中に」と確認した。ガルドは「うん」とだけ言った。
(シオが「後でいい」と止めたことに反応している。まあ、凡例が必要なのはわかっていた。申請書のときに一度経験しているから)
マルカが図を机に戻した。
「正直に言うと——これは何の図ですか」
「設計図です」
「軍事設計図ですか」
ガルドは少し間を置いた。
「土木設計図です」
マルカが「……土木設計図」と言った。
「水路を引き、地形を整え、城壁を配置する。全部土木の仕事です。それを一枚に収めた図です」
「ただ——これを使えば要塞の設計ができる」
「土木設計の結果として、要塞になります。順番が逆です」
マルカがガルドを見た。
「順番が逆」
「要塞を作るために水路を引くのではないです。正しい場所に水路を引いたら、結果として守れる地形になる。土木が先です」
マルカがしばらく黙った。
(こういう顔をするとき、この人は納得はしていないけど反論もできない状態だ。まあ、軍人として要塞設計を習ってきた人間には、土木が先という話は——逆に感じるのかもしれない)
「少し教えてもらえますか」
マルカが図を再び手に取って言った。
「どうぞ」
「西端の水路——ここですね」マルカが指で示した。「ここから城壁の北側ラインまでの距離はどれくらいですか」
「六十五間です」
「この六十五間の間に、地形の変化はありますか」
「あります。農地の手前に低地が一か所あります。地図には書いていないですが、計算書には入れています」
「計算書に入れてある、とは」
「この低地に水が溜まる条件を計算しました。大雨のときに水が溜まれば、騎兵が通れない区間がここに追加されます。水路を引かなくても自然に守れる」
マルカが「……自然に守れる」と言った。
「ただし、大雨のときだけです。普段はそこを通れます。だから水路で恒常的に変えます」
「大雨と普段の差を計算している」
「施工前に計算しておかないと、水路をどこまで引くかが決まらないので」
マルカが「なるほど」と手帳を取り出して書き始めた。
「六十五間の内側に低地あり——距離は何間ですか、城壁から」
「城壁から西に四十間」
「ここに低地がある」
「水路を引く優先順位から言えば三番目です。自然に一定の効果があるので、先に他の区間をやります」
マルカが書きながら「優先順位を決める根拠は何ですか」と聞いた。
「効果と工期のバランスです。工事量が少なくて効果が大きいものから先にやります」
「段取り、ですか」
「段取りです」
シオが小声で「段取り八分、仕事二分」と言った。マルカが「知っています」と言った。
「この記号の話を聞いていいですか」
マルカが図の中央を指した。斜めの短い線が二本並んでいる部分だった。
「地盤の硬さです。二本は中硬地盤——杭が一尺入る程度の地盤です。一本は軟弱地盤、三本は硬地盤」
「三段階ですか」
「五段階ですが、今の図には三段階しか出ていないです」
「凡例にはその五段階を」
「全部書きます」
マルカが手帳に「地盤記号・五段階」と書き留めた。
「この記号の隣に数字がありますね」
「地盤改良の優先度です。数字が小さいほど先に施工する区間です」
「優先度が一番高いのは……ここですか」マルカが城壁の北側を指した。
「そうです。城壁の基礎改良の続きです。先月から入っています」
「先月からもう施工しているんですか」
「申請書と無関係な区間です。城壁基礎の地盤改良は、第二アークからの続きです。別の手続きで対応できる」
マルカが「……なるほど」と言った。どこか感心しているような声だった。
図の読み合わせは昼を過ぎても続いた。
マルカが一区画ずつ指で追いながら質問し、ガルドが答える。シオが手帳に要点を書き留める。
「この東端の点線は、二期の水路ですか」
「そうです。一期が完成してから水の流れを確認してから引く予定の区間です」
「確認してから、というのは」
「一期の水路を引いた後、実際に水がどこに溜まるかを見ます。設計と違う動きをすれば修正します。修正を見てから二期の区間を確定します」
「設計通りにならない可能性がある」
「あります。計算は現場の全部を掴めないので」
マルカが「計算でも確実にはならない、というのは——計算の意味がなくなりませんか」と聞いた。
ガルドは少し考えた。
「計算は「どこに問題が出やすいか」を先に知るためのものです。問題が出た後に対応するより、出る前に準備する方がいい。計算が完全でなくても、方向は出ます」
「方向が出れば」
「準備できます。段取りが組めます」
シオが「コルダさんに「感触は問題を見つける、計算は原因を説明する」と言っていましたよね」と横から言った。
「似た話だ」
「ということは、計算は準備をするためのものですか」
「計算はそのためにあります」
シオが「……なんとなくわかった気がします」と言って手帳に書いた。
(わかった気がするのと理解しているのは違うが——まあ、今は気がするでいい。繰り返していけばわかる)
「一つ確認していいですか」
マルカが手帳を閉じながら言った。今度は声が少し低かった。
「どうぞ」
「この図を——この一枚を見れば、誰でも防衛設計の全容がわかりますか」
ガルドは少し間を置いた。
「凡例と計算書が揃えば、読める人間には読めます」
「読める人間には、とは」
「設計図の読み方を知っている人間、ということです。この世界に設計図を読んだことのある人間がどれだけいるかは知りませんが」
マルカがわずかに表情を変えた。
「……この図は、何部作りますか」
「今は原本一枚です。申請書に添付する写しを一部作る予定です」
「それ以外には」
「今のところない。必要があれば作ります」
「……そうですか」
マルカが短く言って、手帳をしまった。
昨日の続きの話は、今日も出なかった。
(まあ、出す気になったときに言う。この人が言わないときは言わない理由がある。それだけだ)
夕方、エドワンが作業場を訪ねてきた。
「今日も図の話か」
「完成しました」とシオが元気よく言った。「見てみてください、エドワン様」
エドワンが机の図を手に取った。
老いた目で、ゆっくりと全体を見た。
「……大きいな」
「二枚です」ガルドが言った。「一枚目が西半分、二枚目が東半分。並べると全体になります」
クルトが「並べましょうか」と言って、隣の机を引き寄せた。二枚の図が横に並んだ。
エドワンが両方をゆっくりと見た。
視線が西端の水路から始まり、北農地を経由し、城壁のラインを辿り、東端の正門予定地で止まった。
しばらく動かなかった。
「…………」
「エドワン様?」シオが少し声をかけた。
「いや——」エドワンがゆっくりと首を振った。「すまない。見とれていた」
(見とれる、か。まあ——この図を見て、今まで自分が住んでいた土地の全容がわかる、というのは確かに驚くかもしれない)
「質問があれば」とガルドが言った。
「ある」エドワンが図から目を離さずに言った。「この——城壁の北側に、線が三本ある。これは何だ」
「地盤改良の施工区間です。一本目が今月完了予定、二本目が来月、三本目は三ヶ月後の予定です」
「全部終わると、城壁全周の基礎が揃うということか」
「そうです」
「……そうか」
エドワンがまた図を見た。今度は図の中心、ちょうど農地と城壁の境の辺りを見ていた。
「ガルド」
エドワンが言った。今度はゆっくりと図から顔を上げた。
「はい」
「これが完成したら——」エドワンが少し言葉を止めた。「本当に守れるのか」
作業場が静かになった。
シオが手帳を持ったまま動かなかった。クルトも、立ったまま黙った。
ガルドは図を一度見て、エドワンを見た。
「守れます」
「……根拠は」
「計算書があります。どの経路から来ても、通れる幅が狭まります。包囲されても農地と水路があれば補給が続きます。一か所を集中攻撃されても、他の区間が生きています」
「計算で」
「計算で出ています。計算が全部を保証するわけではないですが——設計に穴はないです」
エドワンがゆっくりと頷いた。
「……三十年、この土地にいる」
声が少し低くなった。
「水害が出るたびに農地が流れた。城壁が傾いて、補修してもまた傾いた。何を直しても次が来た。なぜそうなるのかも、わからないまま続けてきた」
「下地が違ったからです」ガルドが言った。「排水の設計がなかった。基礎の計算がなかった。それだけです」
「それだけ、か」エドワンが苦笑した。「お前には「それだけ」に見えるのか」
「俺には「それだけ」です」
エドワンが図をもう一度見た。
「……そうか」
「守れます」
「わかった」エドワンが一度だけ頷いた。「信じよう」
エドワンが出ていった後、作業場が少し静かになった。
シオが「エドワン様、珍しいことを聞きましたね」と言った。
「そうか」
「本当に守れるのか——って、ガルド様でもそういう質問をされるんですね」
「俺が計算で守れると言ったから、守れるかどうかを確かめたかったんだろう」
「怖くなかったですか。大きいことを言っちゃったかな、とか」
ガルドは少し考えた。
「計算で出ているから言った。それだけだ」
シオが「……ガルド様はいつもそうですね」と言った。ため息のような声だった。
(怖いとか怖くないとかじゃない。計算が正しければ正しいし、間違いがあれば直す。それだけだ)
「凡例を作る」ガルドが言った。「今日中に仕上げる」
「まだ仕事しますか」
「まだある。シオ、手帳を開いてくれ」
「……はい」
シオが手帳を広げた。少しの間、机の上の図と、ガルドを交互に見た。
「ガルド様」
「なんだ」
「これ——本当に、すごいものですよね」
ガルドはペンを手に取った。
「凡例が揃えば設計図になる。今はまだ絵だ」
「そうですか」
「そうだ」
シオが「……わかりました」と言って、手帳の新しいページを開いた。
凡例を書き終えたのは夜だった。
記号の説明が十七項目。地盤の分類が五段階。水路の種類が三分類。施工優先度の表示が一から五まで。
図の横に凡例を並べると、ようやく設計図として完結した形になった。
ガルドはしばらく図を見た。
(悪くない)
心の中だけで、短くそう思った。
「シオ、明日写しを作ってくれ」
「申請書用のですか」
「そうだ。申請書の添付図は、凡例込みで一枚ずつ別紙にする」
「わかりました」
「今日はここまでだ」
シオが「お疲れ様でした」と言った。手帳を閉じながら、もう一度図を見た。
「……これが完成したら、マルカさんが驚きますかね」
「今日も驚いていた」
「図の工事が全部終わったら、もっと驚くかな、と思って」
「驚くかどうかは知らない」ガルドが言った。「守れるかどうかが大事だ」
シオが「そうですね」と言って、立ち上がった。
「ガルド様、私は先に帰りますね」
「うん」
「図、ちゃんとしまっておいてください。折れたらもったいないので」
「わかっている」
シオが出ていった。
ガルドは机の上の図を、もう一度見た。
水路・城壁・地形。三つが一枚に収まっている。
世界中のどこかに、同じものが存在するかどうかは知らない。この世界では、少なくとも今まで誰も作らなかったはずだった。
(まあ、必要だから作った。それだけだ)
図を丁寧に巻いて、革の筒に収めた。




