城門より水路が強い
「城門より水路が強い」と言ったら、マルカの顔が固まった。
固まったまま動かなかったので、ガルドはもう一度同じことを言った。
「城門より水路の方が強い。それだけです」
貴族院からの手紙は、昨日の夕方に開けた。
内容は「申請書類の書式についての照会を予定している。詳細は後日改めて連絡する」という、素っ気ない六行だった。
エドワン老は「照会とはなんだ」と言い、シオは「前向きな内容ではないですか」と言い、ガルドは「三日前に送ってきた手紙が今日届いたのか」と日付を確認して手帳に書き留めた。
今朝になってマルカが来た。
「手紙の件は聞きました。照会が来るなら、私が窓口になれます。詳細が届いたら教えてください」
「わかりました」
「ただ——」マルカが作業場の椅子を引いて座った。「その前に、申請書の内容を改めて確認させてください」
「確認、とは」
「昨日の段階では、七枚の書類全体を通して読みました。ただ、設計の意図を理解できていない部分があります」
(そうか。読んだ人間が理解できない書類というのは、問題がある。照会が来るなら、先に内容を整理しておいた方がいい)
「どこがわかりませんでしたか」
「水路の設計です」マルカが書類の写しを机に置いた。「城壁と城門を後回しにして、水路を先に作る理由が——正直、軍事設計の観点から納得できていないです」
シオが「またその話になりましたね」と小声でガルドに言った。
「シオ、静かにしていてくれ」
「改めて聞きますが」マルカが書類を指で示した。「城門を強化した方が防衛力は上がらないですか」
「上がりません」
「その根拠を教えてください」
ガルドは机の引き出しから地図を出して広げた。
「城門は一か所を守ります。水路は全周を守ります」
「……どういうことですか」
「城門を一つ強固にしても、守れるのは城門が向いている方向だけです。別の場所から来られたら意味がない」
「そのために城壁があります。城壁が全周を守り、城門はその出入り口です」
「この地形では城壁を全周に張るのにどれだけかかりますか」
マルカが少し黙った。
ガルドは地図の外周をなぞった。「北側の農地区間で四十間、西の沼地に沿って六十間、南端の出口まで含めると百五十間を超えます。これを全部石壁にするのと、水路を引くのとではコストが全く違う」
「コストの話は」
「コストの話ではないです。コストが同じだとしても、水路の方が強い。その話をします」
マルカが「同じでも、水路の方が強い?」と言った。
「はい」
(どういう顔をしたらいいかわからない、という表情だ。まあ、「水路が城門より強い」という話は、確かに聞いたことがない発想だと思う)
「城壁は」ガルドが言った。「敵が来てから役立つ。水路は最初から機動力を削る」
「……最初から」
「騎兵百人を想定してください。城門の前まで来たとき、騎兵は城門を突破する力を持っています。でも、沼地と水路の中を通ってきた騎兵は、馬が疲弊しています。足元が不安定で、槍を構えることも難しい」
「それは——確かに」
「城壁の前まで来る前に、すでに戦力が落ちている。城門を守る前の話です」
マルカが腕を組んだ。
「偵察騎馬が止まった場所の話を覚えていますか」とガルドは言った。
「西端の葦の群生地点です」
「そこから城壁まで、今の地形で騎馬が通れる経路はどこですか」
マルカが地図を見た。視線がゆっくりと動いた。北の農地を通る道を辿り、東の侵入路を確認し、南端の迂回路を確認した。
「……北の農地経由か、南端を迂回するかです。西からは——」
「西からは入れない」
「はい」
「北の農地を通る経路に、水路を一本引いたら?」
マルカが地図の北端を見た。
「……騎馬は通れなくなる」
「そうです。残るのは南端の迂回路だけになります。迂回路に水路を引けば、攻める側の選択肢はゼロになる」
「選択肢がゼロになった攻城方法は」
「包囲です。包囲するには、守る側の補給が切れるまで時間をかけるしかない。でも、ヴァルダは農地があります。水路があれば農業生産が維持できる。守り続けられます」
シオが「なるほど……」と手帳を書き止めて顔を上げた。「水路って農業のためでもあるんですよね」
「そうだ。農業用の水路を防衛に兼用する。コストが一回分で済む」
マルカが「……先日も同じことを言っていましたね」と言った。「一石二鳥、でしたか」
「シオが言いました」
「ガルド様が言ってくれればもっと格好良かったです」
「シオ」
「はい」
「ただ」マルカが言った。「水路は壊される可能性がありませんか。城門を一か所に集中させれば、守りやすい。水路を広げれば、それだけ管理が難しくなる」
ガルドは少し考えた。これは良い反論だった。
「その通りです。水路は壊せます。ただ」
「ただ?」
「城門を破られたら終わりです。水路は壊されても、別の水路が機能します」
マルカが「……」と黙った。
ガルドは続けた。「城門は一本だから強く見える。でも、一か所を破られたら全部終わりです。水路は十本あれば、五本壊されても残り五本が生きている。同じ兵力で全部の水路を同時に破ることはできません」
「……それは」マルカが言葉を止めた。「確かに」
「城壁も同じ理屈で、一か所を集中攻撃されると弱い。この土地の城壁は、廃墟の上に建っていた。基礎を掘り直した後の今でも、全周に均一の強度はまだ出せていない」
「それは知っています」
「だから、城門を強化する前に、外周の防衛を水路で均質化します。どこを攻めても同じ困難が待っている——そういう設計にする。集中攻撃で崩せる弱点を消す方が先です」
「弱点を消す、か」
マルカがゆっくりと地図を見た。今度は侵入路の分析ではなく、全体を眺めるような視線だった。
「一つ聞いていいですか」
マルカが言った。
「どうぞ」
「城門よりも水路が強い、という考え方は——どこで覚えたんですか」
(どこで、か。前世の現場で、という答えは出せない。まあ、計算から出た話だ)
「計算です」
「計算」
「敵の動線を何本減らせるか。地形の変更コストがいくらか。守備兵力が何人必要か。数字で比べると、水路の方が効率がいい」
マルカがしばらく黙った。
「……計算で出るんですか。防衛力が」
「全部は出ません。でも、どちらが守りやすいかは出ます」
シオが「計算で橋が設計できる、って聞いたとき、初めは信じられなかったんですよ、私」と横から言った。「でも、計算書通りに橋が直ったので——今は信じています」
マルカがシオを見た。「橋の話は、コルダさんから聞いたことがあります。補強計算書の話です」
「あの補強計算書も、同じ考え方です」ガルドが言った。「数値を根拠にして、どこに力をかければ安全率が上がるかを計算する。防衛設計も同じです。どこに水を引けば侵入経路が減るかを計算する」
マルカがゆっくりと頷いた。頷いたというより、考えながら首が動いた、という感じだった。
「……計算で設計するという話は、工事の話だと思っていました」
「防衛設計も工事の一部です」
「そうですね。そうなりますね」
(なんとなく衝撃を受けているらしい。まあ、この世界に「計算で防衛設計をする」という概念がなかったのだから、驚くのは自然だ)
「具体的に聞かせてもらえますか」マルカが書類を引き寄せた。「この申請書の水路設計で——どの水路が、どの動線を制限するか。番号をつけて説明してもらえますか」
「今でもいいですか」
「はい」
ガルドは地図に指を置いた。
「まず西端の水路です。偵察騎馬が止まった場所の南側に、延長二十間の水路を引きます。現状の沼地境界から十間内側になります。ここに水を引くと、西からの接近路が更に狭まります」
「今でも西からは入れないのに」
「今は自然の沼地が障壁になっています。水路を引くことで、沼地の境界線を設計通りに管理できるようになります。季節によって沼の範囲が変わるのを制御できる」
「なるほど」
「次に北の農地東端。ここに水路を一本引きます。延長は三十五間。農地を潤す兼用水路ですが、これで農地東端の地盤が変わります。今は馬で入れますが、水路が完成すると騎兵部隊が通れる幅が十五間以下になります」
「騎兵部隊が通れる幅が十五間以下、とは」
「縦列で入ることは可能ですが、横展開ができない。突撃できる形ではなくなります。歩兵がいれば十五間でも守れる」
マルカが手帳を出して書き始めた。
(自分で書くのか。まあ、書いてくれる方が後で確認がしやすい)
「続けます。南端の水門——ここは現状では出入り自由な水路の出口になっています。水門を設置すれば南端の制御ができますが、これは申請書の一期には含めていない。二期で申請する予定です」
「水門は、二期まで待ちますか」
「一期を完成させないと水門の位置が確定しないので。先に水路を作って、水の流れを見てから水門の位置を決める方が確実です」
「……段取りですか」
「段取りです」
シオが「段取り八分、仕事二分です」と補足した。
マルカが「わかっています」と少し苦笑した。
「改めて聞きますが」マルカが手帳から顔を上げた。「この設計が全部完成したとして——城門は、どこになりますか」
「東側の正面入口です。今の城壁の東門を改修する形になります」
「改修で済みますか」
「基礎は直っているので、門の構造を強化すれば対応できます。水路と地形が全周を守る設計なら、城門が担う役割は一か所の通過管理だけになります。大きな城門塔を建てる必要がない」
「城門塔が不要、か」
「今の敵の動線が収束する場所に城門を置く。その収束をこちらが設計する——それが水路の役割です」
マルカが「……」と短く黙った。
「つまり」マルカがゆっくりと言葉を選びながら言った。「城門の場所は、水路が決める」
「そうです」
「水路を設計してから城門を設計する」
「その通りです」
マルカが手帳に何か書いた。書いた後で、少し長い間、地図を見ていた。
(さっきから考え続けている。まあ、短時間で全部消化できる話ではない。先日の測量でも似たことがあった。この人は、考えると止まる)
「一つ確認させてください」
マルカが言った。
「どうぞ」
「申請書の水路図に書いてある、この三本の線——」マルカが書類の一枚を指で示した。「それぞれ、今説明してもらった西端・北農地・南端の三か所ですか」
「そうです。西端が一期の優先工事で、北農地東端が一期後半です。南端の水門は二期です」
「この三か所で全周が制御できる」
「大まかには。細かい調整は実際に水を引いてみてから見直します。水は設計通りに流れない場合もあるので」
「設計通りに流れない」
「地盤の微妙な傾きや土質によって、流れ方が変わります。施工後に修正が必要な場合があります。申請書には修正の余裕を含めた工期で書いています」
マルカが「修正まで工期に含めてあるんですか」と少し驚いた顔で言った。
「含めていないと、修正のたびに追加申請が必要になります。面倒なので」
「……それは確かに面倒ですね」
シオが「ガルド様、面倒という理由で申請書の設計が変わるんですね」と言った。
「面倒な手続きを減らすために計画をしっかり作るんだ」
「それって同じことですか」
「同じじゃない」
シオが「……なんとなくわかりました」と言いながら手帳に書いた。
「もう一つ聞いていいですか」
マルカが言った。今度は声がさっきより少し低かった。
「どうぞ」
「この設計を見たとき——城門を後にして水路を先に作るという発想が最初に出てくるのは」マルカが少し間を置いた。「かなり特殊だと思います」
「普通の要塞設計ではないと思います」
「王都の軍事設計の担当者が見ても、同じことを思うはずです」
「でしょうね」
「申請書に書かれた設計の内容を、王都で読んだ人間は——設計の根拠をきちんと確認したいと思うはずです」
「だから計算書を別紙にしました」
「はい」マルカが頷いた。「それは正解だったと思います。ただ」
「ただ?」
マルカが手帳を閉じた。
「この設計の内容——根拠も含めて——申請書を読んだ人間以外に伝わっている可能性は、ありますか」
ガルドは少し間を置いた。
「申請書は封をして、マルカさんに渡しました。それ以前に、シオと俺とエドワン様以外は内容を見ていないはずです」
「測量中に同行したのは」
「マルカさんだけです」
「設計の話を聞いた人間は」
「俺とシオとマルカさんだけです。昨日と一昨日の話であれば」
マルカがしばらく黙った。
(この質問の意図がわかってきた。設計の漏洩を心配している。誰かに伝わった可能性を確認している——ということは)
「マルカさん」
「はい」
「この設計を見た人間が、他にもいる可能性がある——という前提で聞いていますか」
マルカが少し間を置いた。
「……この設計を見た人間が、他にもいる可能性はありますか」
ガルドは答える前に、一拍待った。
マルカの目が、地図から外れていた。窓の外を見ているわけでもなかった。どこでもない場所を、見ていた。
(これは俺への質問ではない。自分自身への確認をしているのか——それとも)
「……俺には、わかりません」
「そうですか」
「ただ」ガルドは言った。「マルカさんが今の質問をした理由は、聞かせてもらえますか」
マルカがゆっくりと顔を上げた。
少し間があった。
「……今日のところは、ここまでにします」
立ち上がり、書類の写しを鞄に収めた。動作は落ち着いていたが、来たときより少し早かった。
「設計の説明、ありがとうございました。よく理解できました」
「……またいつでも」
「はい。また来ます」
マルカが出ていった。
作業場が静かになった。
シオが手帳を持ったまま、ガルドを見た。
「……マルカさん、最後に変なことを言いましたね」
「うん」
「設計を見た人間が他にもいる可能性、って——どういう意味ですか」
ガルドは地図に目を落とした。
西端の水路。北農地の東端。南端の出口。三か所の設計が、まだ羊皮紙の上にある。
(この設計が誰かの目に入っているとしたら。ゼルカ公国の偵察が来ていたのは先週の話だ。申請書は昨日まとめた。順番はおかしくない)
「シオ」
「はい」
「計算書をもう一部作れるか。申請書と同じ内容の控えだ」
「……控えですか。なぜ」
「段取りだ」
シオが手帳を開いた。少し間があった。
「ガルド様」
「なんだ」
「マルカさんの最後の質問——答えを知っている、という感じでしたよね」
ガルドはしばらく地図を見た。
(知っているから聞いた、か。あるいは、知っているかもしれないから確認した、か)
「続きは、マルカさんが話してくれるときに聞く」
「それまでは」
「計算書を作る。設計を詰める。段取りを進める」
シオが「わかりました」と言って、手帳のページを新しくめくった。
(設計が漏れているとして——誰に、どのタイミングで。考えても今は答えが出ない。でも、マルカさんが知っているなら、また来たときに話す気でいると思う。待てばいい)
ガルドはペンを手に取った。
計算書の最初の行に、水路の延長距離を書いた。




