地形を知ることが最大の防衛
朝の霧が沼地に低く立っていた。
ガルドは測量紐を腰から外しながら歩いた。シオが手帳を抱えて後ろをついてくる。
「今日の段取りは?」
「午前に西側の地形を確認します。水の流れ方を現地で見てから、午後に計算書に落とします」
「地図を持ってきたか」
「はい。昨日の続きを」
シオが手帳と一緒に羊皮紙を抱えているのが見えた。地図は半分ほど書き込まれている。測量のたびに書き足してきたものだ。
(段取り八分、仕事二分。今日は測量が仕事の大半だ)
西端の沼地に入ると、足が少し沈んだ。
初夏の朝で、地面はまだ湿っている。植生が変わる場所で、葦が群生している。奥の沼が光を反射して白く見えた。
「ガルド様、ここから先は馬で入れませんよね」
「馬は無理だ。人間でも、この先の区間は腰まで浸かる場所がある」
「ゼルカの偵察騎馬も、ここで止まったんですかね」
「見た範囲からすると、そうだろう。国境線まで来て、地形を確認して、引き返した」
ガルドは足元の地盤を踏み確かめながら進んだ。葦を避けて、水面が近い場所を選んで歩く。
「ガルド様」
後ろからシオの声ではない声がした。
振り返ると、マルカが十歩ほど離れたところに立っていた。昨日と同じ革の鎧。霧の中で、額が広い顔がこちらを見ている。
「何をしているんですか」
「測量です」
「測量」
「地形の確認をしています。どこに水が溜まるか、どこが通れないか。沼地の西側を改めて測り直す必要がありまして」
マルカが足元を見た。地面が湿っているのに気づいたのか、少し慎重に一歩踏み出した。
「ついていいですか」
「構いません。ただし、転んでも助けません。足元を見て歩いてください」
「……わかりました」
(なんで来るんだろうとは思うが、見たいなら見ればいい。まあ、昨日「計算が出たら見せてほしい」と言っていたから、仕事の一環か)
一時間ほどかけて、西端から北寄りの地形を歩いた。
ガルドは測量紐を張り、距離と方位を確認しながら止まった。シオが手帳にその場所の記録を取る。
「ここが——」ガルドが足元を踏んだ。「水路を引くなら最適な場所です。地盤の高さが周辺より二寸低い。水が自然に集まってくる」
「今は何もないですよね、ここ」
「ない。ただ、水は流れたい場所に流れる。この地形で水路を設計するなら、自然の流れを使う方が早い」
シオが手帳に書き込みながら「この位置、地図に落とします」と言った。
マルカがすぐ後ろに立って、地面を見ていた。
「水路の話をしていますが——これは防衛のための測量ですか」
「そうです」
「水路を作って、どう防衛するんですか」
ガルドは少し間を置いた。
「立ち話より、地図の方が早い」
「では見せてもらえますか」
「昼前に戻ります。そこで」
(説明は地図がないとできない。この地形の話は、言葉だけでは伝わらない部分がある。まあ、待てる人間のようだから問題はないか)
昼前に作業場に戻ると、ガルドは地図を床に広げた。
昨日より書き込みが増えている。今朝の測量で西側の地形データが入った。等高線に見立てた線が細かく入り、水の溜まりやすい場所に印がついている。
マルカが立って上から見下ろした。シオが端を押さえた。
「昨日もこれを見ましたが、今朝の分が入ったんですか」
「シオが書き足しました」
シオが「朝の測量分、西端から北側まで入れました」と言った。
「ここが」ガルドが指を置いた。「偵察騎馬が止まった場所の推定位置。西端の、葦が群生しているあたりです」
「ここから城壁が見える?」
「見えます。新しい城壁の輪郭は、この距離なら視認できます」
マルカが地図に顔を近づけた。
「西から東に向かうとして——ここで沼に阻まれる」
「その通りです。西からの侵攻は、この沼地を抜けるか、北に回り込むか、南端を迂回するかの三択になる。今の地形で、騎兵部隊が使える経路は限られます」
「北の迂回路は」
「農地と村落があります。通過はできますが、道路が整備されているので歩兵には問題ない」
「つまり、北から来るのが現状では一番通りやすい?」
「今は、そうです」
「今は」マルカが顔を上げた。「今は、ということは——変えられると」
「変えます」
ガルドは地図の東側に指を移した。
「一般的な要塞設計なら、東の侵入路に城門を強化して、そこに防衛力を集中させます」
「その通りです。城門に強固な塔を建てて、侵入口を絞るのが基本です」
「ただ、この地形でそれをやると——」ガルドが地図の西側から東側まで指でなぞった。「西の沼地は天然の障害物として活きているのに、東だけを固める形になる。コストが偏る」
マルカが腕を組んだ。
「コストが偏るというのは……」
「石材と人手を城門の塔に集中させれば、西の沼地を使うことに手が回らない。でも、この沼地は今でもかなりの障害物です。水路を引けば、もっと広い範囲を守れる。コストは分散しますが、守れる面積が増えます」
「……それは、理論的にはわかります」マルカが少し慎重に言葉を選んだ。「ただ、私が見てきた要塞設計では、水路よりも城門の強化が優先されます。水路は維持管理が難しい。詰まれば終わりですし、乾季には効かない」
「ここは沼地です」
「……」
「一年中、水の量が問題になることはない。むしろ雨季には水量が増えて、守りが厚くなる」
マルカが何か言いかけて、止まった。
(この人、反論を準備しているんだろう。ただ、この地形に対する反論というのは、そもそも別の地形の話になってしまうから噛み合わない。沼地の話をしているのに、一般的な要塞の話で返してくるのはしょうがない。見てきたものが違う)
「一つ確認させてください」
マルカが言った。
「どうぞ」
「水路で敵の動線を制限する、という発想は——一般的な軍事設計の話ではないですよね」
「そうですね。水利設計の話です」
「それを防衛に応用する?」
「地形を守る側に有利にする、という話です。水路は元々農業用に引きます。同じ水路を防衛に使えるなら、コストが一回分で済む」
シオが「一石二鳥だ」と小さく言った。
マルカがシオを一瞬見て、ガルドに戻った。
「……理屈は取れます。ただ」
「ただ?」
「一般的な要塞設計と全く違う」
「全く違います」
マルカがまた黙った。
(「全く違う」の何が問題なのかを聞こうかとも思ったが、まあ、この人が困っているのは承認の問題だろう。軍事的な判断として正しいかどうか、という話だけではなく、前例がない設計を申請書に通せるかどうか、という話がある)
ガルドは地図の北側を指さした。
「北の農地を通る侵入路を塞ぐのに、今必要なのは城門の強化ではないんです」
「では、何が必要ですか」
「この農地の東端に、水路を一本引く。そこから北側の沼地に水を引き込む。地盤が変わる。馬で通れる区間が減る」
マルカが地図の北端を見た。
「農地の端に水路を一本——それだけで、侵入路が変わるんですか」
「変わります。地盤は水分量で大きく変わる。今は農業用の排水で乾いている区間があります。そこに水を戻せば、騎兵は通れなくなる」
「……歩兵は?」
「歩兵は通れます。でも、歩兵だけで攻城戦はしない。騎兵がいないと突破力がない。騎兵を使えない地形に誘導できれば、攻める側の選択肢が減る」
マルカが地図から目を上げた。
「それが——あなたの設計思想ですか」
「防衛は地形から始まります。地形を変えることができるなら、城門より先に水路を設計する」
沈黙があった。
シオが「……かっこいい」と小声で言った。
(シオ、それは言わなくていい)
マルカがゆっくりと地図の全体を見回した。
「あなたが測量を続けてきたのは、最初からこのためですか」
「測量は施工の基本です。何を作るにしても、地形を知らないと設計できない。今回は防衛に使えるかどうかを確認するために、改めて測り直しているだけです」
「改めて、ということは——着任後の測量データとは別に?」
「以前のデータは施工精度を上げるための測量でした。防衛を意識した視点では取り直していない。水がどこを流れたいかを、守る側の目線で確認するのは今回が初めてです」
マルカが少し目を細めた。
「……守る側の目線で、地形を読む」
「そうしないと設計できないので」
「私が見てきた要塞視察では——」マルカが少し考えながら言った。「測量はしますが、侵入路の分析が中心です。どこから敵が来るかを先に決めて、そこに防衛力を置く。地形そのものを変えるという発想は、持っていなかった」
「一般的な要塞はすでに建っている場所を使います。地形を変えられるなら、話が変わります」
「あなたは変えられる」
「土魔法と水路があれば、この程度の地形変更はできます」
マルカが「この程度、か」と小声で言った。
(どう聞こえたかは知らないが、この程度というのは事実だ。難しい工事ではない。地盤改良より簡単だ)
「一つ、聞いていいですか」
マルカが言った。
「どうぞ」
「城門は、作らないんですか」
「作ります。ただし最後です」
「最後?」
「水路を引いて、地形を整えて、敵の動線が決まってから——どこに城門が必要かが見えてくる。先に城門を作ると、城門に合わせた設計になってしまう。順番が逆です」
マルカが「……」と短く黙った。
「城門が先ではなく、地形が先」
「そうです」
「私は今まで、城門の設計から始まるのが当然だと思っていました」
「この土地ではそれが当然ではなかった」
シオが「ガルド様が来るまでは、城門どころか城壁も傾いてましたよ」と言った。
マルカが「……そうでしたね」と少し乾いた声で言った。
(シオが余計なことを補足したが、まあ事実だ)
「わかりました」
マルカが言った。
ガルドは地図から目を上げた。
「ただし——」
「ただし?」
「申請が通らなければ工事はできません」
「知っています」
「今の申請書の様式では、水路の防衛利用について記入できる欄がありません。追加の書類が必要になります。審査にも時間がかかる可能性がある」
「……そうですか」
「わかりました、では——」マルカが少し眉を寄せた。「審査が終わるまで、水路の工事は止めるということですか」
「申請書に書いてある通りに作るだけです」
マルカが「……は?」と言った。
「申請書に記載した工事を、記載した通りに進めます。変更が出た場合は事前に報告する、と昨日お伝えした通りです」
「そうですが——」
「申請書の準備は今日から始めます。様式を確認して、書けることを全部書きます」
「書けることを全部……」
「何か問題がありますか」
マルカが「いえ、問題は——」と言いかけて止まった。
ガルドの言葉を繰り返しているような顔をしていた。「申請書に書いてある通りに作るだけ」——何かが引っかかっているらしい。
(何が引っかかっているのかは、だいたいわかる。「書いてある通りに」という言葉の範囲の話だ。まあ、申請書を見てもらえれば理解してもらえると思う)
「一つだけ確認させてください」
マルカが改まった声で言った。
「どうぞ」
「この設計が完成した場合——ヴァルダ沼地は、どういう防衛拠点になりますか」
ガルドは地図を一度見た。
「西と北は水路と沼地で騎兵が使えない。東からの侵入路は城門と城壁が守る。南は沼の出口で、そこには水門を置けばいい。主要な経路を全部塞ぐと、残るのは——」
「残るのは?」
「攻城戦になります。包囲か、正面突破か。どちらにしても、かなりの数が必要になる」
マルカがゆっくりと地図を見た。
「王都近郊の要塞でも、それほど守りが厚くないものがあります」
「そうですか」
「……驚いています、正直に言うと」
「設計を見てからにしてください。今はまだ荒い話です」
「それでも」とマルカが言った。「この土地で、この発想が出てくるとは思いませんでした」
(この土地で、というのはどういう意味なのかは聞かないでおく。沼地だからか、辺境だからか、土魔法師だからか。まあどれでも構わない。設計は設計で立つ)
「では、申請書の件ですが」
マルカが話を戻した。
「はい」
「様式の追記について、私から貴族院に相談することができます。水路の防衛利用を申請できる書式に変更してもらう手続きです。時間はかかりますが、正規の経路で進められる」
「それは助かります」
「代わりに——工事の内容を詳細に共有してもらう必要があります。設計の変更が出た場合は、私への連絡も合わせてお願いします」
「承知しました」
「それで」マルカが少し間を置いた。「申請書に書いてある通りに作るだけ、という話ですが——」
「はい」
「その申請書、誰が書くんですか」
「俺が書きます」
「あなたが」
「他に書ける人間がいないので」
マルカが「……なるほど」と言った。表情が少し固かった。
(なるほど、の意味が少し重い気がする。まあ、申請書の中身を見てから判断してもらえばいい。書けないことは何もない。ただ、この世界の申請書の書き方が前世の書類と少し違うので、そこだけ確認が必要だ)
「申請書の様式をもう一度見せてもらえますか」
ガルドが言った。
マルカが鞄から取り出した。昨日と同じ二枚の書類だ。
ガルドは受け取って、記入欄を一通り確認した。
「目的、規模、期間、使用魔法の種類——これに追記欄として地形改良の範囲と水路の延長距離を加えれば、必要な情報は全部入れられます」
「追記欄は様式外になりますが」
「様式外の追記は不可ですか」
「……規則上は、所定の様式を使うことになっています」
「では、所定の様式の余白を使います」
マルカが「余白を……」と言って、書類の余白を確認した。ほとんどない。
「裏面は」
「白紙です」
「裏に書きます」
マルカが「裏に」と繰り返して、少し疲れたような顔をした。
(様式の話というのは、書くことと書ける場所の話だ。書く内容が決まっているなら、場所の問題は解決できる。何が問題なのかをマルカさんはわかっているが、どう言えばいいかが出てこないのだろう。まあ、提出する前に一度確認してもらう約束をすればいい)
「提出前に一度、内容を見てもらえますか。形式が合っているか確認していただければ、差し戻しの回数が減ります」
マルカが「……そうしてください」と言った。声が微妙に疲れている気がした。
「ありがとうございます」
マルカが一呼吸置いた。
「ガルド様」
「はい」
「申請書を書くとき——どこに防衛水路を引くかを先に決めた上で書きますよね」
「もちろんです。設計の根拠が入らないと審査に通りません」
「測量が終わったら、設計書も作るということですか」
「今日の午後から計算を始めます」
「それも、一人で?」
「シオが計算書の整理を手伝います」
シオが「はい、やります」と元気よく言った。
マルカが「……わかりました」と言って、そっと申請書を鞄に戻した。
(申請書を返してもらっていない。まあ、内容を確認してから出す方が確かにいい。後で様式をシオに写させよう)
マルカが腰を上げた。
「今日はここまでにします。測量の続きは明日もありますか」
「午前に東側を確認します。午後は計算書の作成です」
「明日の午前、また同行してもいいですか」
ガルドは少し間を置いた。
「構いません。転んでも——」
「助けない、わかっています」
マルカが初めて少しだけ笑った。目の端が少し緩んだだけで、口はほぼ動いていなかったが、笑ったのは確かだった。
「足元を見て歩きます」
「そうしてください」
マルカが出ていった後、シオが「マルカさん、最初より少し柔らかくなりましたね」と言った。
「そうか」
「ガルド様の説明を聞いて、少し納得したんじゃないですか」
「納得より、申請書の話の方が気になっていそうだったが」
シオが「両方じゃないですか」と言って、手帳を開いた。「計算書の整理、今から始めますか」
「ああ。西側の測量データを先に書き出せ。距離と地盤の高さを表にする」
「はい」
シオが手帳を広げて書き始めた。
ガルドは地図を引き寄せた。
西端の沼地。北の農地。東の侵入路。それぞれの地形を、もう一度頭の中で組み立てた。
水はどこに流れたいか。地盤はどこが低いか。騎兵はどこを通るか。守る側は、その答えを全部知っていなければならない。
(地形を知ることが最大の防衛だ。知っている側が勝つ)
計算書の最初のページを開いた。
やることの順番が、並んでいく。




