偵察が来た理由
「ガルド様、エドワン様が部屋でお待ちです」
クルトが小走りで廊下を歩きながら言った。
「マルカ殿も?」
「はい。先ほど到着されました」
ガルドは手帳を脇に挟んで歩調を合わせた。
(話を聞くだけだ。段取りは変えない)
エドワンの部屋は、いつもより静かだった。
窓から沼地の霧が見えた。朝の光がまだ低く、石畳の廊下に細い影を落としている。扉を開けると、部屋の中央に三脚の椅子が置かれていた。エドワンが一つに座り、もう一つは空いている。奥の壁際に、ガルドが見たことのない男が立っていた。
四十代か。中肉中背、姿勢がいい。革の鎧に王国の紋章が入った布を巻いている。額が広く、目つきは静かで、部屋に入ってきたガルドをまっすぐ見ていた。
「来てくれたか、ガルド」
エドワンが言った。顔に疲労の色がある。昨夜あまり眠れなかったのかもしれない。
「マルカ殿だ。王国から派遣されてきた」
男が一歩前に出た。
「マルカ・ヴェイル。王国軍の遊撃部隊から辺境の状況調査を命じられております。ガルド・クロスウェル殿ですね」
「そうだ」
「お話を伺えますか。短時間で済みます」
(短時間、ね。短時間で済む話はたいてい短時間では終わらない)
ガルドは空いた椅子に座った。
マルカが報告を始めた。
「先週、ゼルカ公国の偵察と見られる騎馬二騎が沼地の西端に現れました。国境線は越えておりません。ただし明らかに地形を観察する動きをしていた。地元の自警団員が目撃し、私に報告が来ました」
「騎馬の装備は」
マルカが少し眉を動かした。
「軽装でした。鎧はなく、遠距離用の弓を一張り携帯。偵察に特化した装備です」
「こちらの城壁は見えたか」
「西端からであれば、新しい城壁の輪郭は視認できます。以前の高さとは明らかに異なる」
ガルドは頷いた。
そうだ。着任前と今では、この領地の見え方が全部変わっている。水路も、道路も、橋も——城壁が一番目に見えてわかりやすいが、全部変わった。ゼルカの偵察者がそれを見た。何かを思った。それが今回の話の始まりだ。
「それで」とガルドは言った。「マルカさんが来た目的は」
「警告です」マルカが答えた。「ヴァルダ沼地領のこれ以上の軍事的強化には、王都の許可が必要です。城壁の改修は領主権の範囲内でも、要塞化は別の話になる」
エドワンが「ガルド……」と小声で言った。
(要塞化、か。俺はまだ要塞の設計を始めてもいない。この人は何を見て要塞化と言っているんだろう)
「一つ確認していいですか」
ガルドが言った。
「何でしょう」
「今の城壁は、改修工事です。傾いていた城壁の基礎が廃墟の上に建てられていたので、全部解体して基礎から作り直した。高さと厚みが変わったのは、正しい設計にしたらそうなった、というだけです。軍事施設を作ろうとした結果ではない」
マルカが静かに答えた。
「結果として防衛力が上がっていることは事実です」
「そうですね」
「それが問題です」
「……問題?」
「ゼルカが偵察を出したということは、すでに警戒されています。この段階でさらに要塞化が進めば、ゼルカが先手を打つ理由を与えかねない」
ガルドは少し間を置いた。
「それは俺が工事を止めれば解決する話ですか」
マルカが今度は黙った。
「工事を止めても、今の城壁はそこにあります。ゼルカが警戒する理由はなくならない。あるなら、なくならない脅威を前に工事だけ止める、という話になる」
「……それは」
「理屈が合わない」
エドワンが「ガルド」ともう一度言った。今度は少し強く。
「言い方を考えなさい」
「すみません」
(言い方か。間違えたことは言っていないと思うが、言い方というのはそういう話じゃないんだろう)
マルカが腕を組んだ。
「言いたいことはわかります。ただ、王都の制度上、辺境の要塞化には貴族院への申請と承認が必要です。それをせずに工事を進めた場合、後で領主権の問題になります」
「申請の手順を教えてください」
マルカが「は?」と言った。
「王都への申請、手順があるんですよね。書類の様式とか、期間とか。それを教えてもらえれば準備します」
「……今すぐ申請するつもりですか」
「今すぐではないですが、早い方がいい。申請が通るまで工事を止めろという話なら、それは別途話し合いが必要ですが——」
「工事は止めろとは言っていない」
「じゃあ、申請しながら工事は続けられる?」
マルカが何か言いかけて、止まった。
エドワンが小さく咳払いをした。
「……制度上は、申請中であれば施工継続が認められる場合があります」
マルカが低い声で続けた。
「ただし、申請の内容が承認されることが前提です。却下された場合は工事を中止する義務が生じる」
「わかりました」ガルドが言った。「申請書の様式を後で見せてもらえますか。書けそうなら俺が書きます」
マルカがまたしばらく黙った。
「……わかりました」
報告会が一段落したところで、エドワンが「お茶を」と侍女に声をかけた。
部屋の空気が少し緩んだ。マルカが椅子に座り、革のかばんから書類を取り出した。
「申請書の様式です。正式なものを一部、持参しておりましたので」
「助かります」
ガルドは受け取った。様式は二枚。記入欄が多く、工事の目的・規模・期間・使用する魔法の種類まで書く欄がある。
(面倒くさいな。でも書けないことは何もない)
「城壁の改修工事という扱いで申請できますか。現時点では要塞設計はしていないので」
「改修工事であれば、貴族院の審査は簡易書類で通ります。ただし、設計変更が生じた場合は追加申請が必要になります」
「了解です」
マルカがガルドをしばらく見ていた。
「……あの」
「何ですか」
「外の城壁を、昨日見てきました」
ガルドは様式から目を上げた。
「改修工事にしては、あの完成度は——」マルカが言葉を選ぶように少し止まった。「私は各地の要塞を視察する仕事もしています。王都近郊のものも含めて。あの石積みの精度は、簡単に出せるものではない」
「石工ギルドの親方が積みました」
「魔法を使ったと聞きましたが」
「地盤改良と荷重試験に土魔法を使いました。石積みはコルダ——石工の親方の手仕事です」
マルカが小さく頷いた。
「そうですか。……正直に言います。あの城壁を見て、驚きました。この辺境で、あの水準が出せるとは思わなかった」
ガルドは何も言わなかった。
(それは、コルダに言ってください)
エドワンが茶を一口飲んで、ガルドの方を向いた。
「ガルド、一つ聞かせてほしい。今後どうするつもりだ」
「地盤改良の続きが来週から始まります。城壁の第二・第三区間。それは予定通りに進めます」
「ゼルカの件は、考えていないのか」
「考えています」
ガルドは様式を膝に置いて、エドワンを見た。
「ただ、工事をするかしないかの話と、ゼルカへの対応は別の問題です。俺が担当しているのは工事の方で、ゼルカへの外交はエドワン様の領域です。そちらはそちらで動いてもらう必要がある」
エドワンが「……そうだな」と言った。少し安心したような顔だった。
マルカが「領主権と工事権限の分離、という考え方ですか」と言った。
「考え方というより、当たり前の話だと思います」
「……なるほど」
マルカがまた黙って、ガルドを見ていた。変わった工事師だ、とでも思っているのかもしれない。思っているなら思っていていい。俺は工事師だ。
「一つ見せたいものがあります」
ガルドが言った。
「何ですか」とマルカが聞いた。
「地図です。クルト、持ってきてもらえますか」
「あ、はい」
クルトが廊下に出て、しばらくして大きな羊皮紙を抱えて戻ってきた。着任初日から少しずつ書き足してきたヴァルダ沼地の地図だ。縮尺も測量値も入っている。
「広げていいですか」
エドワンが「どうぞ」と言った。ガルドは床に地図を広げた。羊皮紙が部屋の半分近くを占めた。
マルカが立ち上がって覗き込んだ。
「……これは」
「着任後に取った測量の記録です。等高線に見立てた線は地盤の深さを示しています。水路と道路の位置も入れてある」
「自分で書いたんですか」
「シオが手伝ってくれました」
マルカが地図を見ながら少しずつ移動した。沼地の西端、ゼルカ公国の方向を確認しているのかもしれない。
「ここが——城壁の位置?」
「そうです。北端から南端まで百三十二間。現在改修中の区間がここ」
「偵察が来た場所は……西端、ここですか」
「おそらくそうです」
マルカが地図に顔を近づけた。
「沼地が西側にかなり広がっていますね」
「広い沼地です。馬では進めない区間が多い」
「……ということは」マルカが言いかけて、止まった。
(気づいたか)
「騎兵が侵攻しようとした場合、西からの経路は沼地で著しく制限される」
「そうです」
マルカがもう一度地図全体を見渡した。
「東と北は?」
「東は現在の道路。北は農地と村落。南は沼の出口」
「……守るとしたら、東からの侵入路が主になる?」
「一般的にはそう考えます」
マルカがガルドを見た。「一般的には、ということは、あなたは違う考えがある?」
ガルドはしばらく地図を見ていた。
そこに何かがある、とは以前から思っていた。
着任後に地形を測量したとき、この沼地の水の流れ方が面白いと感じた。ただ沼があるのではない。水路を引けば、水が動く。動く水は地形を変える。変わった地形は、守る側に有利になる場合がある。
それを言葉にしたことはなかった。計算していなかったから。だが、今、この地図を見ながら——
城壁の高さ一・五倍。道路の整備。橋の補強。それだけで、この沼地の見え方は変わっている。もし水路を戦略的に配置できたら——
「城門を固めるより、水路を引く方が効率がいい場合があります」
ガルドが言った。
マルカが「……はい?」と言った。
「この地形は水を動かすことができます。水路の配置次第で、敵の動線を限定できる。城門を高くするより、そっちの方が——」
「水路で敵を止めるということですか」
「止めるというより、動ける場所を制限する。沼地は元々地盤が悪いので、水が流れれば馬は使えなくなる。歩兵だけになれば数が減る。数が減れば、城壁の正面から防ぐだけでよくなる」
マルカが黙っていた。
エドワンが「ガルド、それは——」と言いかけた。
「今の計算ではまだ荒い。設計する前に測量が必要です。ただ、方向は——」
ガルドは地図を指さした。
「水路のほうが城門より使えると思います。この地形なら」
部屋が静かになった。
マルカが地図をもう一度見た。今度は長い間、黙って見ていた。
「……聞いていいですか」
マルカが言った。
「どうぞ」
「あなたは、この要塞化を最初から考えていたんですか。着任したときから」
「考えていなかったです」ガルドが答えた。「城壁の基礎が廃墟の上に建っていたので直しました。道路が水没していたので直しました。橋の安全率が一・一二しかなかったので補強しました。その積み重ねが今の状態です」
「そして今、要塞の話になっている」
「そうなりました」
「本当に、それだけですか」
ガルドは少し考えた。
「直すべきものを直したら、直しがいのある場所だとわかってきた。それだけです」
マルカが何か言いかけた。止まった。また言いかけた。止まった。
エドワンが「マルカ殿?」と声をかけた。
「……いえ」マルカが言った。「わかりました。申請書の件、詳しい手順は後日文書でお届けします。施工の継続は——構いません。ただし、設計が変更になる場合は事前に連絡をいただきたい」
「わかりました」
「それと」マルカが少し間を置いた。「水路の件、詳しい計算が出た段階で、見せてもらえますか」
ガルドは顔を上げた。
「軍事的な観点から、確認したいことがある」とマルカが言った。
(この人、仕事が早い)
「では、計算が出たら声をかけます」
マルカが頷いた。「お願いします」
報告会が終わったのは昼前だった。
マルカが帰り、エドワンが「お疲れ」と一言言った。ガルドは床から地図を巻き取った。
「ガルド」
「何ですか」
「マルカ殿に対してはもう少し言い方を——」
「努力します」
「努力、か」エドワンが苦笑した。「お前のそれは努力ではないことが多い」
「……努力します」
「まあいい。今日の話、記録はクルトに頼んだ。後で確認してくれ」
「はい」
ガルドは廊下に出た。
シオが廊下の外で待っていた。
「終わりましたか」
「終わった」
「……どうでしたか」
「申請書を書く必要が出てきた」
シオが「それは大変そうですね」と言った。「手伝えることがあれば言ってください」
「記録の整理を手伝ってほしい。測量のデータを申請書の形式に直す必要がある」
「わかりました。——あと、マルカさんという方はどんな人でしたか。クルトが『真面目そうな方だ』と言っていたので」
「真面目だ。城壁の完成度に驚いていた」
シオが少し嬉しそうな顔をした。
「コルダさんに教えてあげたいですね、それ」
「コルダには関係ない」
「いや、関係あるでしょう。コルダさんが積んだんですから」
(まあ、そうか)
「次に会ったとき、お前が言え」
シオが「俺が言うんですか」と言って、でも「わかりました。言います」と続けた。
昼前に作業場に戻り、ガルドは地図を広げた。
さっき部屋で見たときより、広げて一人で見る方がいい。人が何人もいると、視野が狭くなる気がする。
沼地の西端。偵察が来た場所。そこから城壁が見える。城壁が見えたから偵察が来た、あるいは、偵察が来た後に城壁を発見した。どちらでもある。
東からの侵入路。マルカはそこを主な動線と読んだ。軍人の見方としては正しい。
ただ——
ガルドは地図の水路の位置を指でなぞった。今ある水路は農業用だ。排水路として設計したものが中心で、水量も配置も防衛を考えたものではない。
もし防衛を意識して水路を引き直したら。
水の流れを変えれば、地盤が変わる。地盤が変われば、どこが通れてどこが通れないかが変わる。通れない場所が増えれば——
「水路のほうが城門より使える」
さっきマルカに言った言葉が、頭の中でまだ動いていた。
荒い直感だ。計算ではない。計算は測量をしてから出す。だが、この地形でこの沼地の水の動き方を見ていると——
(この地形、わかってる人が作ったのか?)
ふと、そんな考えが頭に入ってきた。
城壁の下に廃墟があった。古い石組みだった。誰が作ったか、なぜそこに作ったか、まだわかっていない。この沼地は古くから人が関わってきた土地らしいが——
(後で調べるか。今は段取りが先だ)
ガルドは手帳を開いた。
来週の地盤改良。申請書の準備。測量のデータ整理。マルカに見せる水路の計算——これは先に簡単な案を出してから測量で詰める。
やることの順番が、頭の中に並んでいく。
段取り八分、仕事二分。
段取りが、また始まる。




