アドレナリンは人生を狂わせる
聖教会に、勇者の神託が下りたらしい。
「あー、勇者ね」
俺は、飛行中の黒龍の頭の上で呟いた。
「忘れてたわ」
雲が近い。
風がうるさい。
というか、普通に寒い。
黒龍が喉の奥で低く唸った。
たぶん、頭の上で人間が喋っているのが気に入らないのだろう。
我慢してほしい。
こっちも別に、好きでこんな場所に座っているわけではない。
こいつは本来、終盤に挑む隠しボスだ。
三回行動。
即死ブレス。
物理耐性。
おまけに、隠し武器以外ではまともにダメージが通らない。
初見プレイヤーを殺すためだけに配置された、開発者の悪意の塊。
――だった。
少なくとも、ゲームでは。
そんな黒龍の頭の上で、俺はいま空を飛んでいる。
人生、何がどうなるか分からない。
いや、分かっている。
三年前だ。
全部、三年前。
洞窟の奥で商人を助けた、あの日。
あれがよくなかった。
いや、よくなくはない。
商人は助かったし、魔物も倒した。
結果だけ見れば、かなり良かった。
ただ、あの一言だけは余計だった。
勇者。
その名前は、俺が思っていたよりずっと重かった。
まあ、それは後の話だ。
まずは三年前。
俺がまだ、屍喰い犬一匹に腕を引っかかれて「痛っ!」とか言っていた頃の話をしよう。
目が覚めるとそこは――みたいな入りは、もう不要だろう。
要するに、あれだ。
転生だ。
しかも前世で俺が死ぬほどやり込んだRPG、『テルミナス戦記』の世界だった。
いまどき、まさかのドット絵。
ストーリーは、勇者が仲間を集め、聖剣を手にし、魔王を倒す。
そんな超王道ファンタジーRPG。
――というのは、表向きの話だ。
中身は異常だった。
序盤の村人に話しかけたかどうかで、後半のイベントが変わる。
宝箱を開ける順番で、仲間の加入条件が変わる。
何気なく見逃したサブクエストが、百時間後のボス戦で急に牙をむく。
そういう、性格の悪い名作だった。
だが、俺は知っている。
序盤の隠し宝箱の場所を知っている。
孤島の村の右下の家にいる少女が、実は仲間になることを知っている。
黒龍には、隠し武器以外ではまともにダメージを与えられないことも知っている。
なぜなら俺は、『テルミナス戦記』を三千時間やり込んでいる。
ここまではいい。
むしろ完璧と言える。
ただ一つ、大きな問題がある。
俺が勇者ではなかったことだ。
いや、勇者じゃなくてもいい。
ラスボス、賢者、王様、百歩譲って勇者の兄でもいい。
だが、よりによって俺が転生したのは――。
勇者になる少年が、最初の洞窟に入る時に、
「奥からうめき声みたいなのが聞こえて、気味が悪いんだ」
って言う少年だった。
……それはないだろ。
名前はネモ。
辺境の村エルムの狩人見習い。父親は死んでいて、母親と二人暮らし。村の北の森でウサギや鳥を獲って暮らしている。
そんな設定、知らなかった。
ゲームではただの村人だったからだ。
いや、村人とすら呼べない。
勇者になる少年が最初の洞窟へ向かう時、入口の近くで不安そうに立っていて、例の台詞を言うだけ。
会話終了。
役目終了。
出番終了。
序盤イベントの案内看板。
……どころか、オープニングムービーが流れる前のプロローグで、洞窟の不穏さを示すためだけに配置された背景人物。
ふざけんな。
*
「ネモ、今日は森へ行くの?」
朝、母ちゃんが鍋をかき混ぜながら言った。
木造の小さな家。古い弓。干した薬草。窓の外には、のどかな村の朝。
素晴らしいスローライフってやつだ。
だが違う。
俺が求めてるのはそうじゃない。
この村の北にある洞窟には、序盤限定のレア素材がある。
奥には怪物に襲われて倒れている商人がいる。
その商人を助けた者は、王都の商会への紹介状をもらえる。
そしてゲーム本編では、後に勇者となる少年が、この村に来る。
その少年はこの洞窟で商人を救ったことをきっかけに冒険へ出る。
三年後、聖剣に選ばれて勇者として覚醒する。
こっち。
俺が求めてるのはこっち。
でも現実の俺は、いずれ洞窟にやって来る少年に一言告げるだけ。
「奥からうめき声みたいなのが聞こえて、気味が悪いんだ」
以上で仕事は終わりです。ありがとうございました。
その後は毎日毎日、ウサギを狩って帰る。
「母ちゃん、今日はこんなに獲れたよ!」
「まあ本当ね。じゃあ今日はシチューにしましょう」
みたいな生活をする。
無理です。
意味ないもん。
転生した意味、ないもん。
母ちゃんのシチューはうまい。
それは認める。
だが俺は前世でこのゲームに三千時間を捧げた男だ。
その対価として得た知識を、ウサギ狩りに使えと。
ウサギ絶滅するわ。
俺だってかっこよく魔物を倒したい。
伝説の武器も回収したい。
ついでに、豪遊もしたい。
更に言っちゃえば、俺をモブに配置した運命にも一泡吹かせたい。
っていうかさ、やっぱり俺だって、少しくらい主人公っぽいことをしてみたいんだよ。
剣を抜くだけで人が振り向く。
魔物を倒して感謝される。
行く先々で事件が起きて、仲間が増えて、物語が進んでいく。
俺もやりたい。
ウサギ狩りじゃなくて。
村人Aじゃなくて。
洞窟前で一言だけ喋る背景人物じゃなくて。
俺も、そっち側に行きたい。
つまり、まあ。
勇者、やりてえ。
……やっちゃうか。
本来なら勇者になる少年が救うはずだった商人を、俺が先に助ける。
本来なら勇者になる少年が手に入れるはずだった紹介状を、俺が先にもらう。
助けられる命を助けるだけだ。
結果、報酬を受け取るだけだ。
ついでに主人公っぽい気分を味わうだけだ。
別に、悪いことじゃない。
うん。
何も問題ないな。
*
北の洞窟は、ゲームで見たよりずっと暗かった。
それでも配置は覚えている。
入口右手の壁際に松脂。
左の行き止まりに宝箱。
奥にいる序盤ボスは屍喰い犬。
弱点は火。
俺は松脂を矢に塗り、火打ち石を握った。
奥から、低いうめき声が聞こえる。
ゲームではただのテキストだった音が、現実だと普通に怖い。
帰りたい。
とても帰りたい。
けれど、俺が帰れば、倒れている商人はここに放置される。
俺なら発狂するね。
「……いくか」
俺は洞窟の奥へ進んだ。
屍喰い犬は、想像よりでかかった。あと臭かった。
でも、動きは知ってるんだよ。
最初に吠える。
次に右へ跳ぶ。
その後、一瞬硬直する。
はい、打ち放題。
火矢を放つ。
肩に刺さる。
屍喰い犬が吠える。
で、反撃してく……はやっ!!
俺は転がって避けた。腕を爪がかすめる。
「痛っ……!」
え、ちょ…待って待って。
こんなはやいの?
あと痛い。すんごい痛い。
ゲームではHPが減るだけだった。
現実では普通に痛い。勇者って毎回こんなのやってたのか。そら尊敬されるわ。
でも、まあ大丈夫。次で終わる。
喉元へ、二本目の火矢を撃ち込む。
叫びに近い声を上げ、屍喰い犬は岩壁にぶつかった。
そのまま床を掻き続け、やがて動かなくなった。
血の匂いが充満している。
俺は画面越しでは知り得なかった情報の数々でパンク寸前だった。
その時、奥で倒れていた商人が、震える声で言った。
「君は……何者なんだ……?」
本来の答えは一択。
近所に住んでる狩人見習いのネモです。
だが、俺は完全にハイになっていた。
アドレナリンがドバドバだった。
「勇者だ」
言ってしまった。
完全にノリで嘘を言ってしまった。
商人は、傷だらけの顔で俺を見上げた。
その目に、さっきまでなかった光が宿る。
「勇者……様……」
まずい。
信じてやがる。
いや、待てよ。
間違ってはいないのでは?
勇者。
勇ましい者。
さっきの俺、かなり勇ましかったんじゃないか?
火のついた矢を持って、臭くてでかい犬に立ち向かったんだぞ。
普通に怖かったし、普通に帰りたかったのに、ちゃんと戦った。
完全に勇ましい。
なら、勇者だわ。
少なくとも語義的には、だいぶ勇者。
聖剣には選ばれていない。
神託も受けていない。
本物は、三年後に別の場所で覚醒する。
でも、この男を助けたのは俺だ。
魔物を倒したのも俺だ。
だったら少しくらい、名乗ってもいいはず。
決めた。
通す。
押し通す。
俺は勇者だ。
その時の俺は、まだ知らなかった。
アドレナリンさんには、流されてはいけないということを。
そして、勇者という名が、思っていたよりずっと重いものだったことを。




