第2話 別のフラグが立ってきた
入学式が終わり、次の日の朝がやって来た。
学院生活の始まりだ。
……始まりと言っても、昨日の衝撃からまるで立ち直れていない。
勇者が引きこもり、聖女は起業、賢者は婚活。夢なら覚めてほしいが、起きて顔を洗って、朝食を食べて、それでもやっぱり現実だった。
重い足取りで食堂へ向かう。
このルミナス王立学院は、王国有数の名門校というだけあって食堂も立派だ。天井は高く、採光窓から朝日が差し込み、百人以上が一堂に会しても余裕がある広さを持つ。
ちなみにゲームでは「食堂」のマップ名で表示されるだけの、イベント用の背景にすぎなかった。実際に立ってみると、木の温もりと焼きたてのパンの匂いが心地よい。こういう感覚は前世の記憶では得られない。
席を探していると、早速声が飛んできた。
「よう、ディラン! こっちだこっち!」
食堂の一角から大きく手を振る金髪の青年。
オスカー・ヴァレンシス。伯爵家の三男坊。
入学式の直後、「お前、面白い顔してたな。俺はオスカー。友達になろうぜ」と声をかけてきた男だ。
出会って半日も経っていないのに、もう親友面である。こちらの事情も聞かず、身分の上下も気にせず、ただ「面白そう」で突っ込んでくるタイプ。
前世にも、こういう奴が一人いた。地元のゲーム仲間で、いつの間にか隣にいるやつ。
正直、嫌いじゃない。
「……おはよう、オスカー」
「お、元気ないな。入学初日でもう疲れた顔してるとは、大物だな」
「褒め言葉に聞こえない」
俺はオスカーの向かいに座り、運ばれてきたスープに手をつけた。
温かい。この世界のスープは、前世のコンビニの味噌汁とは別次元の旨さだ。転生して良かったと思える数少ない瞬間の一つである。
「しかし昨日の入学式はなかなかだったなあ。あの公爵家の御曹司がいきなり新入生代表の挨拶してよ。あれ見た? 完璧すぎて逆に笑えたわ」
オスカーはパンをちぎりながら、昨日の式の話題を次々と繰り出してくる。
だが俺の頭の中は、そんな話題に付き合う余裕がない。
勇者。聖女。賢者。
昨夜、寝る前にマルタからの情報を整理したが、肝心の「なぜそうなったのか」が分からないままだった。
マルタは優秀だが、彼女が集められるのは公式な情報が主だ。
噂話、裏事情、人づての話――そういった情報は、別の人間に頼るしかない。
そして今、目の前にその適任者がいる。
「……なあ、オスカー」
「ん?」
「お前、勇者リオンのこと、何か知ってるか?」
何気ない声を装ったつもりだった。
だがオスカーは一瞬だけ咀嚼を止め、すぐに何食わぬ顔でパンを飲み込んだ。
「勇者? ああ、引きこもりの勇者様ね。知ってるっつーか、知らない奴のほうが珍しいだろ今」
「そうなのか?」
「そりゃあな。なにせあの勇者だぜ? 女神の祝福を受けた、世界の希望。それがゴブリン相手に負けて引きこもったんだ。話題にならないわけがない」
オスカーはスープを一口啜り、声を少し落とした。
「とは言え、詳しいことは分からん。ゴブリンに敗れたっていうのもあくまで噂だし、何がどうなってそうなったのかは誰も知らない。本人が語らないんだから当然だが」
「……情報がないのか」
「ああ。王都からも確認が取れていないらしい。辺境の村に引っ込んだきり、誰とも会おうとしないそうだ」
俺はスプーンを止めた。
ゲームの勇者リオンは、自信に満ちた青年だった。
明るく、正義感が強く、仲間を鼓舞し、どんな敵にも立ち向かう。
だが、それは完成された物語の中の話だ。
現実のリオンに何があったのか、今の俺には知る術がない。
分かっているのは、「ゴブリンに負けた」という噂と、「引きこもっている」という事実だけ。
あまりにも情報が足りない。
だが、それだけに不気味でもあった。あの勇者を折るほどの何かが、あの戦いにはあったということなのだから。
「まあ、今更どうにもならんけどな」
オスカーは肩をすくめた。
「……聖女アリシアのほうは?」
「お、聖女様も気になるか?」
オスカーの目がキラリと光った。情報通の本領発揮だ。
「アリシア・ハートウィルだろ? あれは面白いぜ。王都の商業区――銀貨通りに自分の店を構えてる。『アリシア商会』って名前でな」
信じたくなかったが、やはりその情報も冗談ではなかったらしい。
「商会の評判は?」
「上々だよ。品揃えが堅実で、薬草の質が良いって評判でな。それに値段も良心的だ。庶民にも手が届く」
オスカーはパンの欠片を指で弄びながら続ける。
「しかも、その薬草の仕入れルートを自分で開拓したらしい。教会のコネに頼らず、自力でな。まだ十五の小娘がだぜ? 大した度胸だよ」
教会のコネに頼らず。
その一言が、妙に胸に刺さった。
原作では聖女は教会の庇護の下、祈りと癒しに専念する存在だった。
だが今のアリシアは、その庇護を自ら手放し、市井で一から商売を始めている。
なぜだ。
何が彼女をそこまで突き動かしたのか。
「ますます気になるって顔してるな」
オスカーが悪戯っぽく笑う。
「いや、ちょっと興味があるだけだ」
「ふーん? まあ止めはしないが、侯爵家の坊ちゃんが聖女の店に出入りしてるなんて噂が立ったら面倒だぞ?」
「……確かにな」
痛いところを突かれた。
俺が商店街をウロウロしているだけで目立つし、ベルモンドの名前が出れば余計な詮索を招く。
「それで、賢者のほうは?」
「エルナ・グリーベルか。宮廷魔法師にして、天才の名を欲しいままにする少女」
オスカーは大仰に両手を広げてみせた。
「彼女は学院にもちゃんと在籍してるし、授業にも出てる。天才の名に恥じない成績だよ」
「じゃあまともなのか?」
思わず期待が声に出てしまった。
「いや、まともかと言われると微妙でな」
オスカーが苦笑した。
「あいつ、婚活してるんだよ」
「まあ……それは聞いた」
「で、その条件ってのが尋常じゃないんだ。百項目あるらしいぜ?」
「そうらしいな」
「知ってたのか。で、中身なんだが――『魔法理論の基礎体系について、教科書を参照せず三時間以上の議論が成立すること』、『精霊契約の有無を問わず、魔力制御の才を有すること』、『食事の際に音を立てないこと』……」
「……最後だけ急に生活感があるな」
「いやいや、一番ヤバいのはな」
オスカーは声をさらに落とした。
「――『私のことを世界で一番理解してくれる人』」
沈黙が流れた。
「……百番目の条件か?」
「いや、一番目」
一番目にそれを持ってくるのか、あの天才は。
「はは、すごい顔してるなお前。まあ気持ちは分かる」
オスカーは腹を抱えて笑っている。
こっちは笑えない。その賢者が世界を救う三本柱の一角なのだ。
勇者は引きこもり。聖女は商人。賢者は婚活中。
昨日マルタに聞いた時点で分かっていたはずなのに、オスカーの口から改めて聞くと、別の角度から絶望が追加される。
マルタは事実を伝えてくれた。
オスカーは文脈を伝えてくれる。
どちらも必要で、どちらも容赦がない。
「ディラン、お前さっきからずっと難しい顔してるが」
不意に、オスカーが真面目な声を出した。
「……そうか?」
「ああ。勇者だの聖女だの、そんなもんお前が気にすることか? 侯爵家の次男坊が、世界の心配なんてしてどうする」
図星を突かれた。
正確には、図星どころの話ではない。核心を撃ち抜かれている。
「別に心配してるわけじゃない。ただ――」
ただ、何だ?
俺にはこの世界の裏側が見えている。数年後に来る魔王の影が。
だが、それを口にすることはできない。
「――ただ、気になっただけだ」
「ふーん」
オスカーは目を細めた。
信じていない顔だ。だが、それ以上は追及してこなかった。
「まあいいけどよ。お前がそうやって色々考えてるのは嫌いじゃないぜ。貴族のくせに世間に興味持つなんて、珍しい奴だからな」
それは褒め言葉として受け取っていいんだろうか。
「一つだけ忠告しとく」
「何だ」
「この学院じゃ、変に目立つと面倒ごとが寄ってくる。お前、侯爵家だろ? それだけで十分目立ってるんだから、余計なことはするべきじゃない」
余計なこと。
それが何を指すのか、オスカー自身も明確には分かっていないだろう。
だが俺には、嫌と言うほど心当たりがあった。
「……気をつけるよ」
「よし。じゃあ午後の授業行くか。確か魔法学の基礎だろ?」
オスカーが席を立つ。
俺もスープの最後の一口を飲み干し、後に続いた。
食堂を出ながら、頭の中を整理する。
勇者リオンは辺境の村にいる。今すぐ会いに行く手段はない。
賢者エルナは学院にいるが、迂闘に近づくのはリスクが高い。婚活リストに載せられるなんて悪夢だ。
となると、最初に接触すべきは――
(聖女アリシア、か)
王都の銀貨通りにある商会。
学院からは少し距離があるが、行けない距離ではない。商売をしている以上、客として訪ねるのは不自然ではない。
ただし、オスカーの忠告もある。
侯爵家の人間が聖女の店に出入りしていると知られれば、変な噂が立ちかねない。
慎重に行くしかない。
(……ああ、胃が痛い)
前世ではコンビニのシフト調整に胃を痛めていたのに、今世では世界の行く末に胃を痛めている。
スケールだけは壮大に上がったが、胃痛は胃痛だ。人間、どこに転生しても胃は痛む。
――と、廊下の掲示板の前を通りかかった。
普段なら素通りするところだが、ふと目に留まった紙切れがあった。
学院の公式告知ではない。冒険者ギルドからの転載だ。
『王国東部森林帯にて、魔物の目撃報告が増加。原因は調査中』
日付は、つい先日のもの。
小さな文字で、掲示板の端にぽつんと貼られていた。
ほとんどの学生は気にも留めていないだろう。
だが俺の足は、止まっていた。
魔物の増加。
ゲームでは、それは決まって一つのことを意味する。
――魔王の復活が、近づいている。
勇者は引きこもり、聖女は商人、賢者は婚活中。
そしてこの掲示板の小さな一枚は、時間が無限にあるわけではないことを、静かに告げている。
俺は掲示板から目を離し、歩き出した。
廊下は賑やかだ。
学生たちは笑い合い、午後の授業に向かっている。
誰も、この小さな紙切れのことなど見ていない。
ふと、思った。
――これは全部、俺のせいなんじゃないか。
俺が破滅フラグを折ったから、物語が狂った。
悪役が消えたから、勇者は壁を失い、聖女は役割を見失い、賢者は道を踏み外した。
俺が生き延びたかっただけの、その報いが――これなのか。
答えは出ない。確かめる術もない。
だが、一度浮かんだその疑念は、もう二度と消えてくれそうになかった。




