第1話 俺の破滅フラグはどこへ行った?
剣を振った。
千回目か、一万回目か。もう数えてもいない。
木剣が朝靄を裂く音だけが、ベルモンド侯爵家の裏庭に響いていた。
ディラン・ベルモンド、十五歳。侯爵家次男――の、皮を被った元・日本の大学生。
前世の趣味はゲーム。得意科目は特になし。サークルは帰宅部。バイトはコンビニ。彼女いない歴イコール年齢。
要するに、どこにでもいる凡人だった。
そんな男がある日目覚めたら、自分がクリア済みのRPG『エターナル・クエスト』の悪役貴族に転生していた。
――なんて、ラノベみたいな話が現実になってしまったのが、五年前のこと。
だが、ディラン・ベルモンドという男には最大の問題があった。
この男に用意されていた末路は三つしかない。
処刑エンド。追放エンド。暴徒に殺されるエンド。
どれを選んでも死ぬ。選ばなくても死ぬ。無理ゲーである。
だから五年間、ひたすら鍛えた。
剣を振り、魔法を学び、礼儀を叩き込み、領地の知識を貪るように吸収した。ゲームの中の「悪役ディラン」が怠っていた全てを、一つ残らず身につけるために。
結果、破滅フラグはおそらく折れた。
少なくとも俺は、原作のように傲慢で無能な貴族ではなくなった。
父上には「見違えた」と言われ、兄上には「やればできる」と評された。従者のマルタに至っては、五歳の頃に俺が急に別人のように勤勉になったことを未だに不思議がっている。
当然だ。実際に別人なのだから。
ともあれ、これでいい。
あとは学園に入学し、原作の主人公たちと適度な距離を保ちながら、平穏に卒業する。
勇者が魔王を倒し、聖女が世界を祝福し、賢者が道を照らす。
俺はその物語の端っこで、目立たず騒がず、静かに生き延びる。
最高の老後――いや青春プランだ。
――そのはずだった。
▼
ルミナス王立学院。
王都の中心に鎮座する、白亜の尖塔を持つ名門校。
その入学式の朝、門をくぐった瞬間から、俺の人生設計は盛大に崩壊した。
「勇者リオンが、入学を辞退した?」
式場の隅で拾った噂を、俺は思わず二度聞き返していた。
声が裏返りかけたのを、かろうじて貴族の仮面で押し殺す。
隣に控えるマルタが、眉一つ動かさず補足した。
彼女はこういう時、本当に頼りになる。俺の内心がどれだけ大パニックでも、彼女の冷静な態度が、俺を辛うじて現実に繋ぎ止めてくれる。
「正確には、入学許可は下りていたものの、本人が辞退届を提出されたとのことです。理由は非公開ですが――」
「ですが?」
「噂では、ゴブリン討伐の任務で敗走し、以来自室に引きこもっておられるとか」
「……え?」
ゴブリン。
あの、ゲーム冒頭のチュートリアルで倒す最弱モンスター。
経験値五。ドロップアイテムは「汚れた布切れ」。
そのゴブリンに。
世界を救うはずの勇者が。
負けて。
引きこもった。
冗談だろ。
あまりの衝撃に、視界がぐらりと揺れた。
いや、本当に意味がわからない。
俺はこの五年間、何のために頑張ってきたんだ。
勇者が魔王を倒し、世界に平和が訪れる。その未来があるからこそ、俺は安心して裏方に回る準備を進めてきたっていうのに。
その前提が崩れた今、勇者が引きこもったら、一体誰が魔王を倒すんだよ。
――落ち着け。まだ慌てる段階じゃない。
ゲームの主人公は勇者だけじゃなかった。聖女と賢者がいる。この二人が健在なら、まだ物語は動く。
俺は必死に平静を装いながら――たぶん装えていないが――式場を見渡した。
聖女アリシア・ハートウィル。
金髪の癒し手。慈愛の象徴。ゲーム序盤で勇者と運命的に出会い、旅の仲間となるヒロイン。
原作通りなら、入学式の門前で勇者とぶつかっているはずの少女。
いない。
門前は平和そのものだ。誰もぶつかっていないし、誰も走ってきていない。
「マルタ、聖女アリシアは?」
「聖女様ですか? 彼女が学院に来訪するという話は聞き及んでいませんが」
「ん?」
そんなマルタの言い草に俺は首を傾げる。
何か話が噛み合っていない気がした。
「どうされました?」
「いや、聖女アリシアは学院に来ないのか?」
「いえ、そのような話はありませんが」
「……入学予定は?」
マルタは、はて、と首を傾げた。
「いえ、それは難しいのではないかと」
「どういうことだ?」
「聖女様は、ご自身の商会を立ち上げられたと聞いておりますので」
「……は?」
言葉を失った。
ちょっと待ってくれ。
いやいやいや。聖女って、教会で祈って、傷ついた人を癒して、世界に希望をもたらす存在だろ? なんで入学を取りやめて店の準備してるんだ。
しかも「ご自身の」って何だ。自営業なのか。聖女が。フリーランスなのか。
頭が痛い。が、まだだ。まだ確認するべきことはある。
賢者エルナ・グリーベル。宮廷魔法師の称号を最年少で獲得した天才少女。彼女がいれば、物語の骨格は辛うじて保てる。頼むから普通でいてくれ。
「賢者エルナ殿は?」
マルタが答えるまでに、一拍の間があった。
その間が、全てを物語っていた。
「……ご在籍です。ですが、現在は"理想の結婚相手に求める百の条件"なるものを執筆中とのことで、学務への意欲は……その」
「その?」
「低い、と」
百の条件。
百。
ひゃく。
俺は天を仰いだ。
真っ青な空。雲一つない。風もなく、小鳥が暢気にさえずっている。
この世界で一番平和な場所が、俺の眼球の裏側なのかもしれない。
整理しよう。
勇者はゴブリンに負けて引きこもり。
聖女は祈りをやめて起業。
賢者は研究をやめて婚活。
原作の主役三人が、揃いも揃って本来の役割を投げ出している。
なんだこれは。
俺が五年間かけて回避した「悪役の破滅」の代わりに、世界のほうが破滅しかけているじゃないか。
「ディラン様? お顔が真っ青ですが」
「大丈夫だ……大丈夫。人生で三番目くらいの衝撃を受けただけだ」
「はい?」
マルタが怪訝そうに首を傾げた。しまった、今のは自分で聞いても意味不明だ。
俺は咳払いを一つして、崩れかけた仮面を繕い直した。
「忘れてくれ。独り言だ」
「はあ」
納得していない顔のマルタ。だが深追いしないのが彼女のいいところだ。
入学式の祝辞が朗々と響く中、俺は一人、茫然と立ち尽くしていた。
破滅フラグは折った。
その点においては、俺の五年間は無駄ではなかった。
だが、破滅フラグを折った世界の先に待っていたのは、平穏な暮らしなどではなく――主人公不在の、脚本なき世界だった。
数年後、この世界には魔王が来る。
ゲームのラスボス。人類の脅威。大陸を蹂躙する災厄そのもの。
それを倒すはずの勇者は、家から出てこない。
「……マルタ」
「はい」
「予定を変更する」
マルタが僅かに目を見張った。
「卒業まで大人しくしているつもりだったが、そうも言っていられなくなった」
「よく分かりませんが、ディラン様がそうおっしゃるのでしたら」
マルタは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻り、深く頭を下げた。
「して、まず何をなさいますか?」
何を。
その問いが、俺の胸に突き刺さった。
……何をすればいいんだろうな。
攻略本はもう使えない。シナリオは崩壊した。主人公たちは好き勝手に生きている。
五年かけて準備した「安全な観客席」は、気づいたら消えていた。
だけど、目を瞑るわけにもいかない。
悪役としてではなく、今度は世界ごと終わる。
そんなの、さすがに困る。普通に困る。元コンビニ店員の手に負える話じゃない。
――でも。
この世界の裏側を知っている人間は、たぶん俺しかいない。
ゲームの結末を。魔王の存在を。そして、本来あるべきだった物語の形を。
なんて損な役回りだ。
勇者でも聖女でも賢者でもなく、よりによって悪役がそれを背負うなんて、どこの脚本家に文句を言えばいいんだ。
「――まずは、情報収集だ」
声が震えそうになるのをこらえて、俺は言った。
「勇者、聖女、賢者。全員の現状を、できる限り把握する」
「承知しました」
マルタは迷いなく頷いた。
まるで、俺が何を言っても付いてくると言わんばかりの、静かな頼もしさだった。
……ああ、泣きそうだ。
こんな場面で泣いたら侯爵家の名折れどころの騒ぎじゃないので、全力で我慢するけど。
入学式の祝辞が、まだ朗々と講堂に響いている。
新入生たちの顔は希望に満ちていて、未来を信じていて、まぶしくて。
俺だけが、その裏側に広がる暗雲を知っている。
こうして、俺の学園生活は始まった。
破滅を回避した先に待っていたのは、平穏などではなく――主人公のいない、脚本のない世界。
正直に言おう。
めちゃくちゃ不安だ。




