9 シームリア大橋
ガタン、と揺れの調子を変えた車体に、シャンテルは馬車が大橋に至ったと知った。
馬車の中は暗い。幌はおろか、窓に掛かったカーテンも厚く下ろされているからだ。
少し前に出された食事を一人で平らげたマルティナはよく眠っており、車内は静かだ。
車輪の音しか聞こえない馬車の中で、シャンテルは考える。とりあえず、ユーリ=プテルスに着く前に、逃げなければならない。
馬車ごとレザックに攫われて数日、今のところ手荒な扱いは受けていない。途中で乗り換えさせられた馬車と共に現われた、皇女の手勢らしき数人の見張りは常に周りに居るものの、彼らは総じて丁寧にシャンテル達に接した。
だが、逃げなければならない。丁重な物腰の彼らに、マルティナはすでに警戒を解いており、皇女の館でアリステア達を待てばいいと考えているようだが、シャンテルは違う。
(それじゃあきっと、意味がないのよね)
だからこそ、皇女はこうして、シャンテルだけを館へ迎えようとしているのだろう。
〝――アリスにかかっているのは、呪いではなく魔法だよ。解きたければ、一緒に俺を追っておいで。アリスだけでも君だけでもいけない、必ず一緒に辿り着くこと〟
アーヴィンの言葉が蘇る。信じるのも癪だが、彼はおそらく嘘を言ってはいない。こんな事態が訪れることも、予測していたのかもしれない。まったく、腹が立つ。
(それにしても、シリエル皇女の目的は、一体なんなのかしら……)
アーヴィンと何かしら関係していることは確かだが、どうにも動きがばらばらだ。目的は違っているように感じる。どちらかと言えば、そう、対立しているようだ。
「まあ、考えたってわからないわ。とりあえず、今はここを逃げて、アリスと合流しなくちゃね」
幸い、娘二人に何ができるとも思っていないのか縄の類は掛けられていないし、警戒心を抱かせても具合が悪いと考えたのか、持ち物も改められていない。得物はスカートの下に隠した短剣、そして――。
「くけ」
「しっ、静かに、タマオ。……ようやく出番よ。ちょっと助けてほしいのよ」
「くけけ」
分かっているのかいないのか、タマオは控えめな光でぽわぽわと光る。
「仕掛けるのは橋の中央、ロアと帝国の国境よ。関所があるわ。そこで、一度は馬車を止めるはず。適当な嘘は用意してあるにしろ、馬車の中も検めるはずよ。――だからさっき出された食事に、薬が入っていたんだわ」
もしやと思い、手を付けずにいたのは正解だった。ぐっすり眠るマルティナを見るに、やはり薬が盛られていたようだ。
だが、これはチャンスだ。レザックも油断しているはずだ。
馬車から逃げて、それからどうするのかは考えていない。だが、きっと何とかなるはずだ。シャンテルは幸運の鍵――『金の林檎』なのだから。
「こんな時くらい、自分の運を信じてみてもいいわよね」
タマオを手の中に隠し、シャンテルはマルティナに倣い、目を閉じる。
信じよう。きっと彼らは――彼は、来てくれるはずだ。
金の林檎には、カンパネラが必要なのだから。
□□□
関所の役人と低く話すレザックの声が聞こえる。
ぎゅ、と短剣を握る。大丈夫だ。シャンテルは自分に言い聞かせる。緊張はしているが、怯んではいない。
「お嬢様方は旅の疲れで眠っている。静かに頼むよ」
「ええ、わかっています。この季節に急なご帰郷とは、ご苦労ですねぇ」
言葉と共に、若い声の役人は幌を開いた。薄暗い馬車の中に光の筋が出来る。
「今よ、タマオ!」
「くけけけけ!」
「うひゃあ!?」
シャンテルの号令と共に、タマオが役人の顔面へ向かって突進した。
間抜けな叫び声と共に、ばっと馬車から離れた役人の隙を付いて、降り口の脇に控えていたシャンテルは勢いよく外へと飛び出した。
「お嬢ちゃん……!? どこ行くつもりだ!」
「来ないで! 来たら遠慮はしないわよ!」
剣を構え走り出しながら、シャンテルは叫んだ。
「待て……って、なんだ、この球は!? ちょ、こら、どけ!」
タマオが攪乱してくれているのだろう、慌てる声を背中で聞きながら、シャンテルは走った。タマオのおかげで少しは距離が作れたが、しょせん女の足だ。じきに追いつかれるだろう。
(――そうしたら、戦うしかないわよね)
実剣での戦闘経験など実はないが、牽制くらいはできるだろう。覚悟を決めて短剣の柄を握り直したその時、カンカンとけたたましい音が橋の上に響いた。
「魔物だ! 魔物が出たぞ‼」
警鐘の音と橋の衛兵達のその言葉に、橋の上がにわかに騒がしくなる。走りながら振り返ると、シャンテルを追っていた皇女の手勢たちも、背後に迫る魔物に剣を向けていた。
(魔物!? こ、これは『幸運』なのかしら……?)
首を傾げながら、それでもシャンテルは足を止めず、騒ぎに背を向けて走った。胸に兆しが現われていないということは、とりあえず危険ではないはずだ。
そうしてしばらく走り続けたあと、前方に小さく見えるものがあった。見慣れた三人の姿に、シャンテルは安堵の息をつく。――やっぱり、来てくれた。
「シャンテル‼」
向こうからも見えたのだろう。馬から飛び降りたアリステアは、喜色を滲ませた声でシャンテルを呼んだ。その声に応えようとしたシャンテルはしかし、アリステアの背後に迫る影に気付き、目を見開いた。そして叫ぶ。
「――う、後ろ、後ろよ、アリス! 魔物がいるわ‼」
「魔物!? くそ、出くわしてしまったか……というか、シャンテル、気をつけろ! 君の後ろにも居るぞ!?」
「嘘っ!?」
思わず足を止めて振り返れば、たしかに飛魚に鳥の足をくっつけたような形状の、青い鱗を持つ小型の魔物が迫っていた。しかも複数だ。これが海峡の魔物なのだろう。
「あ、あんまりかわいくないわね、やっぱり……」
あまり足は早くないようだが、魔物たちは確実にシャンテルを狙っている。裂け目のような口から覗く牙はやけに鋭い。……どうやら肉食らしい。
「ああもう、なんなのよ……!」
前後を魔物に阻まれては、橋の上では逃げ場がない。
シャンテルは仕方なく、アリステア達に背を向け、自分に近い側の魔物たちと向き合う。見た目は不気味だが、大きさは太ったニワトリ程度だ。動きも鈍い。自分ひとりでも戦えないことはないだろう。
覚悟を決めて、シャンテルは剣先を魔物へと定めた。




