3-2
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手首の痛みを抱えたまま、放課後になった。今日は木曜日で、委員会の日だった。
いつの間にか、図書室から返却された本を司書室まで運ぶ役目は瀬戸君になった。台車から本を取り出して、返却処理をする。一通り作業が終われば、本を台車に戻して図書室まで運ぶのだった。
いつも通り、何冊か重ねて本を移動しようとするが、ぴきっと左手首に痛みが走る。
「早見さん、ちょっと見せて」
突然左側から声が聞こえた。
痛みに思考を取られていた私は、瀬戸君が近くまで寄っていたことに気が付かなかった。いつの間にか肩と肩が触れそうな距離まで近づいていて、呼吸の音さえも聞こえてしまいそうだ。
すると瀬戸君は、片手で私の左手首を手に取る。そして、もう片方の手で私の制服の袖を丁寧にめくっていった。
長くて綺麗な瀬戸君の指が、私の手をなぞっていく。
瀬戸君が触れている所から、血液が沸騰していくようだ。どくん、どくんと心臓も大きく波打っている。どうか心臓の音がバレませんように、と息も止めて彼の指先を見つめる。
袖をめくったことで曝された左手首は、赤黒く変色していた。自分で想像していたより不気味な色に驚いた。
「痛いんでしょ。保健室行こう」
「でも、まだ図書委員の仕事終わっていないし」
「ほとんど終わっているから、俺一人でもできるよ。それより早く冷やさないと。体育終わってからずっと我慢していたでしょ。」
「大丈夫だから…いっ…!」
優しく添えられていた瀬戸君の手が、手首の赤黒い部分に触れる。軽く触れただけなのに、痛みに思わず声が出てしまった。
「……俺ってそんなに頼りない?」
ぽつり、と寂しそうに瀬戸君は言った。そんな風に言われると、頼るしかなくなってしまう。首を横に振って否定すれば、瀬戸君はホッとした顔をした。
「保健室のセンセー17時になったら帰るから、早くいくよ」
時計を見ると、17時まで残り20分だった。怪我をしていない右手首を握り、私を保健室へ連れて行こうと引っ張る。
「ちょっと、待って…!瀬戸君、私歩けるからその…」
前を歩く瀬戸君に声をかけても、振り返らない。右手はずっと掴まれたまま、どんどん進んでいく。
そっと握られた手首から、瀬戸君の温もりがじんわりと広がっていく。その温もりが、なんだか心地良かった。
今、この瞬間を誰にも見つかりたくなかった。
どうか、私たち二人だけの記憶になりますように。そう思いながら瀬戸君に引っ張られるまま、着いて行った。
保健室に入ると、パッと手が離れる。手の温もりが消え、空気に晒された右腕が、急に寂しく思えた。
「センセー、この子体育のバレーで手首痛めたみたい。」
瀬戸君は保健室の先生へ親しげに声を掛ける。
「こら瀬戸。先生には敬語を使うこと。あれ、瀬戸が保健室を正しい使い方するなんて初めてじゃない?」
「その話は今良いでしょ。早く診てあげて。」
授業をサボったりするときに保健室に行くのかな、と先生と瀬戸君の会話から想像する。
「早見さんここ座って」
「あ、うん」
急に名前を呼ばれてびっくりした。瀬戸君は先生の目の前にある椅子を指差している。そこに座って、左手の袖を捲り先生に見せる。
「うん。内出血はしているけどそこまで腫れていないから、すぐに病院に行かなくても大丈夫だと思うわ。痛みが強くなったり、何日も続くなら診に行ったほうが良いわね。」
私の左手を見て、先生はそう言った。湿布を貼られると、冷んやりとして気持ち良い。処置が終わると、そろそろ帰るからと先生が言って早々に保健室から出される。17時で帰るという話は本当らしい。
司書室に戻ると、残りの仕事を全部瀬戸君がやると言い出した。流石に申し訳なくて、何度が抗議をし、負担の少ない作業だけさせてもらう。
「瀬戸君、あの今日はありがとう」
帰り際にお礼を言うと、瀬戸君は一瞬びっくりした顔をした。
「急にかしこまったから何を言うかと思った。」
「湿布貼ってもらってだいぶ楽になったよ。こんなに違うんだね」
「早見さんは…」
そう言いかけると、瀬戸君は口を噤んだ。
「……今度から遠慮するなよ。はい、約束」
そう言って、瀬戸君は私に向けて小指を立てる。
「早見さんも、小指出して。」
なんの事かわからずに固まっていると、瀬戸君に小指を出すように急かされる。あぁ、指切りの事か。
ようやく理解できた私は、言われた通りに小指を瀬戸君に向けて立てる。瀬戸君の小指が、私の小指に絡んでいく。その様子をみながら、また心臓が大きく波打つのを感じた。
小さい子供を相手にしているような、明るい声で瀬戸君は指切りをする。私は触れてるだけで、緊張してしまうのに、瀬戸君は何も気にしていないようだ。
「あ、甘えていいのは俺だけだからね」
琥珀色の瞳が私を映す。
そう言い残して、瀬戸君は司書室から出ていった。瀬戸君がいなくなって、私は部屋にぽつんと残される。
どくん、どくんと心臓はまだ音を立てている。
湿布が貼られた左手は冷たいのに、触れ合った小指の体温の感覚が、なかなか消えてくれない。
ーー小指が離れる時、惜しいと思ってしまった自分を認めたくなかった。
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<黒川side>
「これ、今日の議事録です」
生徒会の会議が終わり、書記である自分の仕事を終わらせる。出来上がった議事録を、担当の教師へ提出した。
職員室から出ると、ばたばたと足音が聞こえる。足音が聞こえる方を見ると、少し遠くで男女が通り過ぎていった。
え、と思わず声が漏れる。
なぜならその男女は、詩織と瀬戸だったからだ。そして見間違いでなければ、瀬戸は詩織の腕を掴んでいた。
いつの間に、あの二人は仲良くなっていたのかと驚きが隠せない。
もし自分が図書委員になれていたら、瀬戸と自分の立場が変わっていたのだろうか。
中学3年のとき、詩織に告白された日を思い出す。
彼女はあの時、顔だけじゃなく耳まで真っ赤にして好きだ、と言った。正直言えば、最初は断ろうかと思っていた。詩織と付き合うとか、そういうことは想像したこともなかったからだ。
なんて言おうかと言葉を選んでいる時、詩織の手が目に入る。ぎゅっと握られた拳が、震えている事に気がついた。それを見ていると、そこまで必死に伝えてくれたことに、断るのも申し訳なくて了承した。
そんな始まりだったが、自分では順調に交際が進んでいたと思う。
詩織はクラスでは大人しい部類だが、二人だとよく話してくれる。俺は話すのが得意な方ではなく、話を聞いている方が好きなタイプだ。二人きりの時、詩織の話を相槌を打ちながら聞いていた。
詩織が楽しそうに話すから、自分から話す必要はないと頭の片隅で考えていた。
だからどこから間違えたのか、今でも答えを探している。
お祭りに行った日、詩織は辛そうな顔をして“好きだよ”と言って別れを告げられた。
確かに夏休み前はテストでピリついていたかもしれない。だけど少なくともお祭りの日は、お互い楽しんでいたと感じていた。射的の景品で手に入れた栞を見て、嬉しそうに笑った表情は、もう二度と見ることができなくなった。
好きな人を好きで良いとか、そんなことも言っていた気がする。
予想もしなかった別れの言葉の衝撃で、他に言われた言葉は頭からすぐに抜け落ちていった。
「詩織のこと、好きになりたかったんだ」
混乱の中、なんとか口に言葉は彼女を傷つけてしまった。静かな公園で涙をすする音が小さく聞こえた時ほど、自分の言葉を取り消したいと願ったことはなかった。
高校が同じだと知った時、胸が高鳴ったのも一瞬だった。
入学式の前に久しぶりに詩織からメッセージが届いた。内容は他人のふりをしようといったもので、完全に嫌われてしまったと自覚する他ない。学校で詩織とすれ違っても、振り返ることさえ許されなかった。
ーー告白されたあの日からやり直したい。
いつからかそんなことを願うようになった。今ならきっと、前より上手くやっていける。そう思っていたのに、タイミングはうまくいかないことばかりだ。
クラス替えでは同じクラスにはなれなかった。だから少しの希望に賭ける。本が好きな彼女なら立候補するだろうと踏んで、図書委員に手を挙げた。
しかし生徒会との兼任できず、一縷の望みは絶たれた。
そんな中、俺の代わりに図書委員を務めることになったのは親友の瀬戸だ。
俺とは正反対で、瀬戸は人付き合いが上手だ。そんな彼と一緒にいるから余計に、気持ちがもやもやするのだろうか。
瀬戸に腕を引かれていた詩織の姿が頭にこびりついて離れない。
このままでは何も変わらないという焦燥感が自分の中で滾る。
ーー今度は間違えない。そう自分の中で決意をした。




