20. 肯定
ぱたり、と右手が左腕から外れる。
ぎりぎりの精神を保つ為に張り詰められていた鎖が、思わぬ形で消え失せた。
「多分、全くもってそうなんだと思います。衣食住が保証されているなんて、本当はそれだけで幸せなことなんですよね」
クスティナは静かな水面の様な瞳を、訓練場に向けた。
一体彼女は、何を見ているのだろうか。
「私達がこうやって日々過ごしている中、街では誰かが不幸になり、恵まれなかった人が死んでいく。生まれた時から運命が決まっていて、最初から人生の難易度が違う」
ぎりっと歯を食いしばる彼女は、当たりの人生を引いたはずなのに、悔しそうだった。
そんな彼女への苛立ちと、強い興味が私の心を蹂躙する。
「私だって、悩んだことはあるんです。このままでいいのかって。答えを出そうとしました」
「……それで?」
無意識のうちに、一歩クスティナへ踏み出す。
聞きたい。
答えを。正解を。
意味はなくとも、最上の正答を。
「でも、分からなかったんです」
「え……」
強い風が吹き髪が舞い上がる。
慌てて押さえると、さらりとした感触が手に残った。
「分からなかったんです。考えて考えて、答えが出ませんでした」
「そんなっ」
じゃりっ、と靴が砂を噛む。
そんなのは、聞きたかった正解ではない。
そんなものは、認められない。
「なので、問題を先送りにすることにしました」
「駄目だ!」
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
私は今すぐ、答えが欲しいのに。
先送りなんて無責任なこと、していいはずがない。
無礼とは知りつつも、私は思いっきり彼女を否定した。
「そんなのは!許されない!」
「何故ですか?」
えっ、と言葉に詰まる。
咄嗟には何も出てこなかった。
「そ、それは、駄目に決まっているから……」
「いや、何もしないのも良くないです」
「は?」
クスティナは、先程とは打って変わって真逆のことを言い出す。
弄ばれているのならこんな屈辱はない。
頭に血が上っているのを自覚しつつ、私はずんずんと彼女に近づいた。
クスティナはあっけらかんとした、しかし、喉につっかえたものを引きずり出すような苦しい表情で口を開く。
どうしてか、その時間は切り取られたように長かった。
「でもどうしようもないなと思って。背負う責任がないうちから、語れる理想なんてある筈がないなと」
―――冷や水を、浴びせられた。
さあっと沸騰していた頭が冷やされ、凍り付く。
急に暗闇に放り出されたような気がした。
「それ、は」
突如として襲い掛かった恐怖にも近い不安から逃れようと、口を動かす。
無理だった。
クスティナは、自分のことを指して言ったのだろう。
本当に他意は無かったはずだ。
それでも。
自分に彼等を救う力なんて無いと分かっていても。
何とかしたいと思う私の、偽善じみた罪滅ぼしを指摘されたような気がした。
『……レオナ様に拾われた、という負い目があるのですか?』
そうだ。
一人だけ運良く地獄から抜け出せたことで、誰かから恨まれたくないだけ。
誰からも嫌われたくないという我欲だ。
自覚していても、直視するのを避けていた我儘だ。
光のない、漆黒の世界に溺れる。
違う話をしていたはずなのに、苦悩していた想いを言い当てられた衝撃。
体が麻痺したように動かなかった。
感情という荒海の中で、泳ぐことも波に抵抗することも出来ず。
ただ沈むのを、待つだけ。
「ぐちゃぐちゃで整理出来てなくてごめんなさい。夢を持つこと自体は悪くないはずなんです。だから……」
近く、遠い場所でクスティナの声が響いた。
断言には程遠い迷いの籠った声は、不思議と胸に染みていく。
鈍い思考の中で、可笑しなものだと思った。
「もしよければ、一緒に考えてくれませんか?私一人だと何も分からないから」




