6.永遠ライン
夜を迎えたブイーンの部屋。心配を抱えたズギュンの寝息。ブイーンは窓の隙間を見つめ、くたびれた様子は出さず、一心にポルノ屋さんのお姉さんが来るのを待ち続けた。
窓から柔らかな風が入り込んだ。端に留めていないカーテンが膨らんだ。その奥に、太陽のような脚が、月のような手指が隠れては現れてを繰り返した。ブイーンはその存在を静かに予感し、静かに話しかけた。
「お待ちしていました。ブイーンです。昨晩、ポルノで約束を」
「ええ、お出迎えありがとう。私の名前は……あなたは知らない方が気が楽かしら」
風が止み、カーテンの動きが治まる。そこでブイーンは彼女の目と出会った。
「恥ずかしながら。名前を呼べない代わりに視線で訴えかけることにします」
「ぜひそうしてね。ブイーン」
2人は互いに寄り合った。
ブイーンにはある疑問が浮かんだ。疑問はすぐ、ある嫌な感覚にまで連結すると、彼はそのことを落ち着いて順に口にした。
「あの、失礼な話なのですが、その、あなたはとても綺麗だ」
「ありがとう。でも失礼というのは何かしら」
「あなたはポルノ屋さんのお姉さんです。こっち世界の理屈を超越した魅力を持つ女性。それはきっと目にしただけで飛びつかずにいられない、たとえ今朝その能力を失ったばかりの男でも蘇生してくれるような、そんな存在だとばかり考えていたんです。でも……いや、あなたは紛れもない本物なんです。あなたの美しいところは、オレのような男でも次々発見できるくらい明らかに隠してある。過去や人格に関わる深い領域への示唆も、それだけで涙を誘うほどに滑らかだ。ここまでの人の美しさは経験したことがない……それなのに、オレはやっぱりダメみたいなんです。とても失礼なことだって承知しています。どうか許してください」
ベッドルームの告解を終えたブイーンは自然とうなだれていた。
ブイーンの肩にポルノ屋さんのお姉さんが触れた。「ねえブイーン、一人で盛り上がらないでちょうだい」そう言ってブイーンの顎を上げさせる。
「忘れちゃうなら私の目を見て。今は一人じゃないの」
ブイーンは黙った。その目は長い間悲しみに満たされ、カラカラに乾いていた。
ポルノ屋さんのお姉さんが調子を変えて言う。
「でも困った。あなたが、本当に本当に失っているのだとしたら、私ではどうにも手助けしてあげられないの」
「……ポルノ屋さんのお姉さんでも、ですか」
「どんなお姉さんでも、ね。だから今は希望のある方を考えましょう」
ブイーンはすっかり諦めモード。「でも……」
ポルノ屋さんのお姉さんは背負うように笑う。「ねえブイーン君」
「私思うんだ。全部失敗していいし、ずっと落ち込んでてもいいって思うんだ。でもね、どうせ落ち込むなら貫かなくちゃいけないんだ。休憩してるようじゃ、そもそもみんなに置いてかれてるのに、他の落ち込み上手たちにも置いてかれちゃう」
「どうすればいいの」
「ブイーン君は男の子だよね」
それは胸が痛む言葉。「うん」
「世界で一番になりたいよね」
それはハーレム王の器が痛む言葉。「うん」
「じゃあ、落ち込みチャンピオンさん、一番になるための練習しましょうか。さっきみたいに落ち込んで……ううん、さっきよりももっと沢山落ち込んでみせて」
ブイーンは顔を伏せ、落ち込もうとしてみた。人から求められると意外とできないものだった。
「ブイーン君、違うよ。もっと私を見て。私のことを見て、落ち込んで」
ブイーンは言われるがまま顔を上げた。ポルノ屋さんのお姉さんはやっぱり綺麗だった。
「いい目ね。死ねもしないって目。ほら、今度は私の手を握って」
ブイーンは差し出された手に自分の手を置いた。
「ビビらないの。今夜世界一落ち込むためにやってるの。得意分野で負けたくないでしょ」
ブイーンは渋々手を握った。
「しっかり肉体的に自己嫌悪して。独りよがりの思い込みなんだって俯瞰して」
ブイーンは相手に思考を先回りされていたことにも、余すところ無く落ち込んだ。
「嫌な汗……そろそろ抱きしめてくれたら飛び切りのが来るかも」
ブイーンはここでも狼狽えた。
「大丈夫。私はあなたをハッキリと嫌う。誓って嫌ってあげる」
ブイーンは申し訳なさそうに頷いた。
「未来は常に悪い方で確定しているべき、よね」と言って、お姉さんはブイーンを待ち構えた。
ブイーンは意を決し、ポルノ屋さんのお姉さんの胸に飛び込んだ。勢いのまま背中へと手を回す。その瞬間ブイーンは特大の嫌悪感に見舞われ、身震いし、ガタガタと歯を鳴らした。
それを見てポルノ屋さんのお姉さんが、
「君って本当に最悪ね」
「ご、ごめんなさい」
「ふーん、謝れば許されると思ってる訳だ」
否定するブイーン。そんな様にも途切れることなくボロを出す。
「声が小さい。おまけに人の目も見れない」深いため息。「……一体これからどうやって生きていくつもりなんだろう。世間って厳しいんだ。これが我が子で小学生くらいなら可愛かった……違った。今は君の練習していたんだよね」
ポルノ屋さんのお姉さんは自分の方からもブイーンを抱きしめた。
「ほら、ブイーン君。抱き合った感想。人肌を感じながら落ち込んでみましょう」
「え? 長々、えっと……」しばらく考え込む。「……ダメだ。何も思い浮かばない。やっぱりダメなんだ……」
「ダメ?」
「そう、オレはダメなんだ。あなたに手綱を引かれて、あなたを抱きしめるまででやっとなんだ。少し前ならそんなペットや奴隷扱いにもトキメク知見が、余白があった。しかしそんなものは今朝を境に失ってしまった。経験は石化され、知見から知識だけが剥がれ落ちた。そんな興奮の理屈なんて、享受するには窮屈すぎる。あなたの美しい声で、美しい足で指図を受けたかった。でも主従のトキメキを忘れたオレはあまりにノロマで、犬にだってなれやしない。弾かれて窓から追い出されるのがお似合いのでっぷり芋虫だ……」
「え、でっぷり?」
「そう、オレはでっぷり。オレは不健康でお馴染み現代の病でっぷり。あなたを一目見たとき、オレはその全身からみなぎるエネルギーに感服した。でっぷりには持ちえない肉体の迫力に恐れをなした。あなたなら日本の神輿からリオのカーニバルまで、世界中のお祭りをはしごして一年を過ごすことができる。各国の伝統衣装を完璧に着こなすことができる。現地住民と旅行者から羨望の眼差しを欲しいままにできる。オレはあなたが神様の御前へ出かけている間、部屋で自分を抱きながら寝ていることしかできない。きっと次第に寝ることもままならなくなる。睡眠障害を抱えて、あなたの幻覚とお喋りをするだけの余生。現代のでっぷりは痩せ細ったところで、でっぷりの性質を変えることはできない……」
「へえ、変えることはできない?」
「そう、オレはオレを変えることはできない。オレはこうして下らない言葉を並べる習慣のせいでデジタル化された領域に捕らわれの身だ。でも仕方ないだろ。かつて人間は川と平野を見分けた。平野と森を見分けた。壁と空間を見分けた。己と他人を見分け、寒さと温もりを見分けた。オレはそのデジタル化本能に逆らえず生きてきた忠実すぎる臆病者だ。オレはいつも夢をみる。曖昧な人間でありたい。しかしどんな願望だろうと言葉にした途端デジタル化に加担させられる。些末な値は切り捨てられる。オレの違ったはずの未来と共に切り捨てられる。オレのコピーが永遠上書きを重ねる。永遠糸口をつかみ損ねる。永遠オレは変わることができない……」
東の空に太陽が昇る。窓から入った朝日がポルノ屋さんのお姉さんに被さると、美しかった体は薄く氷のように砕けていった。ブイーンに相槌を打つ口が消えていなくなる。ブイーンの独り言は尻切れトンボで漂流する。「オレは変われない……だからオレは変われない、だって……」
そんな眩しい朝日と、迷惑なブイーンの独り言でズギュンがズバッと体を起こした。
「……ブイィン? ポルノお姉さん来たぁ?」
全く目は開いていなかったが、ズギュンの血圧にまつわる寝ぼけ様は続き、
「……来るわけねっかぁ。んー、寝る」
とブイーンの体にもたれ掛かる。
「ううっ……オレは……オレは……」
「……うるしゃい。寝ろ」**バシッ**




