第三章
俺たちは焚き火の傍に腰を下ろした。椀を両手で包むと、じんわりと温かさが伝わってくる。気づけば、日中よりも随分と気温が下がっていた。森の夜は、思っていた以上に冷えるらしい。俺は木匙でシチューをすくい、口へ運んだ。
「……っ」
熱い。だがそれ以上に。
「……美味いな」
思わず、そう呟いていた。乾燥肉から染み出した旨味と、乳のまろやかな風味。柔らかく煮えた根菜には、スープの味がしっかり染み込んでいる。香草の香りも強すぎず、口の中に爽やかな余韻を残した。
携帯食料から作ったとは思えない味だった。
「本当に美味いぞ、これ」
そう言って顔を上げると、マシューがじっとこちらを見つめていた。
「…………」
「……マシュー?」
「……ほんと?」
「ああ」
「……お世辞じゃなくて?」
「お世辞じゃない」
すると。
「……えへへ」
マシューは、なんとも嬉しそうに笑った。フードの奥で、茶色の瞳が細くなる。
「そっかぁ」
小さく呟いて、自分の椀を覗き込む。それから、少し照れくさそうに匙を動かし始めた。
「よかったぁ」
その声は、焚き火の音に紛れそうなほど小さかった。俺たちはしばらく、黙ってシチューを食べた。ぱちぱちと薪の爆ぜる音だけが、穏やかな夜気の中へ響いていく。周囲を見渡せば、森はすっかり薄暗くなっていた。
頭上にはまだ僅かに明るさが残っているものの、木々の根元には深い影が溜まり始めている。遠くには、いくつもの焚き火が見えた。橙色の小さな光が、森の中に点々と浮かんでいる。その一つひとつに、俺たちと同じように野営をしている生徒がいるのだろう。
そう思うと、不思議と心強かった。
「ねえ、トーマ」
「ん?」
「さっきの魔法の話なんだけどさ」
「ああ」
「ひとつだけ、覚えておいてほしいことがあるんだ」
マシューは木匙を椀へ戻した。そして、焚き火を見つめながら言った。
「魔法ってね、便利だけど、万能じゃないんだよ」
「万能じゃない?」
「うん」
マシューは小さく頷いた。
「どれだけ優れた魔導士でも、できることには限界がある。扱えるマナにも限りがあるし、術式だって失敗することがある。それに、魔法は何でも解決してくれるわけじゃない」
マシューは自分の手のひらを見つめた。
「例えば、僕がどれだけ魔法を勉強したところで、戦争をなくせるわけじゃないしね」
「……さっきの話か?」
「ふふっ。そう」
マシューは小さく笑った。
「魔法ってすごいでしょ? 何もないところから火を出したり、水を操ったり。遠くのものを動かしたりもできる」
そこで、一度言葉を切る。
「でも、世の中のことはそう簡単には変えられないんだよね。1人じゃ限界があるんだ。僕の魔法も、もっといいことに使えたらよかったのになぁ」
その横顔が、僅かに翳ったように見えたのは気のせいではないはずだ。
「マシュー?」
「……あっ」
呼びかけると、マシューはぱっと顔を上げた。
「ご、ごめん! なんだか変な話しちゃったね!」
そう言って、慌てたように笑う。
「ほら、せっかくの美味しいシチューが冷めちゃうよ!」
「……そうだな」
「うんうん! いっぱい食べてね!」
マシューは自分の椀を持ち上げ、嬉しそうに匙を口へ運んだ。俺もそれに倣い、残りのシチューを食べ始めた。
それからしばらく、俺たちは他愛のない話を続けた。学園の教師のこと、食堂の料理のこと。
マシューが実技試験で術式を間違え、教師の髪を焦がしかけたこと。その話をするときのマシューは、実に楽しそうだった。
「いやぁ、あのときは焦ったなぁ!」
「……教師の髪を燃やしかけたんだろ?」
「そうそう! でも、ちょっとだけだよ? ほんのちょーっと!」
そう言って、親指と人差し指で僅かな隙間を作る。
「……怒られただろ」
「もう、ものすっごく!」
マシューは大袈裟に肩を落とした。
「おかげで一週間、実験室の掃除をやらされたんだから!」
「自業自得だな」
「むぅ。トーマまでそんなこと言うの?」
非難するような目でこちらを見る。だが、すぐに自分でもおかしくなったのか、くすくすと笑い始めた。
「まあ、そうなんだけどね」
そうして笑い合っているうちに、鍋の中身はすっかり空になっていた。食器を片づけ、焚き火へ新しい薪をくべる。炎が勢いを取り戻し、周囲の木々を明るく照らした。空はまだ完全には暗くなっていない。西の地平には、夕日の名残が薄く残っていた。
しかし、森の中はすでに夜の気配に包まれている。遠くで、聞き慣れない鳥の声がした。
「……さて、と」
マシューが小さく伸びをした。
「そろそろ仮眠を取ろうか」
「もう寝るのか?」
「うん。夜は長いからね」
マシューは背嚢から毛布を取り出した。
「交代で仮眠を取るんだよ。片方が寝ている間、もう片方は火の番と周囲の警戒」
「……なるほど」
「本当はもう少し人数がいれば楽なんだけどねぇ」
マシューは毛布を広げながら、小さく溜息をついた。
「まあ、二人しかいないんだから仕方ないよ」
「じゃあ、俺が先に見張るよ」
「えっ?いいの?」
「ああ。まだ眠くないしな」
「……ふぅん」
マシューは何やら考えるように俺を見つめた。それから、にやりと笑う。
「……あれれ?」
「……なんだよ」
「もしかして、トーマ君は一人で眠るのが怖いのかな?」
「は?」
思わず顔をしかめる。マシューはますます楽しそうになった。
「いやぁ、そうかそうか。怖いんだねぇ」
「何の話だよ」
「森の中って暗いもんねぇ。魔物もいるし、変な音もするし」
マシューはわざとらしく声を低くした。
「……夜中に、何かが足元を這ってくるかもしれないよぉ?」
「やめろやめろ」
「あははっ!」
マシューは楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ、トーマ。そんなに怖いなら、僕が一緒に寝てあげようか?」
「なんでそうなるんだ」
「だって、寂しいんでしょ?」
「寂しくない」
「ほんとに?」
「ああ」
「……ふぅん?」
マシューは口元を緩めたまま、じっとこちらを見つめている。
「まあ、キミがどうしてもって言うなら、考えてあげなくもないけどね?」
「結構です」
「むぅ、即答することないじゃん。せっかく僕が優しくしてあげようと思ったのに」
「余計なお世話だ」
「もうっ。可愛げがないなぁ」
そう言いながら、マシューは毛布へくるりと身体を包んだ。フードを少し深く被り直すと、そのまま焚き火の傍へ腰を下ろす。
しかし、横になろうとはしなかった。
「……マシュー?」
「ん?」
「寝ないのか?」
「……寝るよ?」
そう答えながらも、マシューは毛布の端を指先でもてあそんでいる。しばらく沈黙が続いた。
マシューは炎を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、トーマ」
「なんだ?」
「……さっきの話なんだけどさ」
「……一緒に寝るってやつか?」
「……うん」
マシューは小さく頷いた。その声には、先ほどまでのからかうような響きがなかった。
「……実はね」
少しだけ間を置く。
「嘘ついた、ほんとは怖いのは僕。一人で寝るの、あんまり得意じゃないんだ」
「そうなのか?」
「……うん」
マシューは毛布をきゅっと握りしめた。
「別に、オバケとかが怖いってわけじゃないんだよ?魔物だって何度も見たことあるし、夜の森だって初めてじゃないし……」
そこで、言葉が途切れた。マシューは少しだけ俯いた。
「……でもさ…眠るときって、なんだか心細くならない?」
俺は何も言わずに、その言葉を聞いていた。
「目を閉じると、周りが見えなくなるでしょ? 当たり前だけどさ」
マシューは苦笑した。
「……そうすると、急にいろんなことが気になっちゃうんだ……変だよね」
マシューは小さく笑った。
「魔法だって使えるのに、こんなことで怖がるなんて」
「別に、変じゃないだろ」
「……え?」
マシューが顔を上げた。
「暗いところで一人になるのが怖いなんて、普通のことだと思うぞ」
「……そうかな」
「ああ」
俺は焚き火へ薪を一本くべた。炎が大きく揺れ、周囲に温かな光が広がる。
「それに、今日は一人じゃないだろ。俺が見張ってる。お前が寝ている間は、ちゃんと傍にいるよ」
マシューは、しばらく何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見つめている。フードの奥で、茶色の瞳が焚き火の光を映していた。
「……ヒューかっくいいー」
「茶化すなよ」
「ごめん」
やがて、小さく呟く。
「……うん。そうだね」
その表情が、ゆっくりと緩んでいく。いつものような、いたずらっぽい笑みではない。得意げでも、ふざけてもいない。ただ、心の底から安心したような、穏やかな微笑みだった。
「……ありがと、トーマ」
「ああ」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
そう言って、マシューは毛布にくるまった。身体を横にすると、フードの端から茶色の髪が零れ落ちる。焚き火に照らされたその姿は、普段の騒がしさが嘘のように静かだった。
しかし、しばらくすると。
「……ねえ、トーマ」
「なんだ?」
「……もうちょっと、こっち来てくれない?」
「は?」
「いや、だからさ……」
マシューは毛布から片手を出し、自分のすぐ傍を指差した。
「……そこ」
「……ここか?」
「うん」
俺は言われるまま、焚き火を挟まない位置へ移動した。マシューは満足そうに頷く。
「……うん。そこならいいや」
「……何がだよ」
「ふふっ。内緒」
小さく笑う。それから、毛布の中で身体を丸めた。
「……ねえ、トーマ」
「今度はなんだ?」
「……もしも僕が寝言を言っても、聞かなかったことにしてね」
「なんでだよ」
「なんでも!」
少しだけ慌てた声だった。
「……変なこと言っちゃうかもしれないし」
「……わかったよ」
「……ほんと?」
「ああ」
「……約束だからね」




