第二章 退魔散開陣形
――命は平等ではない――
戦場において、指示を受けるものと、指示を出すものは明確に分かれている。
指示を出すものは家柄や能力、または世襲によって選ばれることが多いだろう。
その多くは戦場の後方で作戦を考える者、部隊の後方で兵たちに支持を与える者。
大抵の場合、後方に位置している。
対して指示を受ける者は、決して選ばれるわけではない。
指示を出すものは選ばれたものである、指示を受ける者は選ばれたわけではない。
両者の命に別々の価値を見出すのは、自明の理かもしれない。
そうだ。
指示を受ける者の命は、指示を出す者の命より。
軽んじられているのだ。
「……よしっ、と!」
隣で小さな声が弾んだ。振り向くと、マシューが両手を腰に当て、満足そうに頷いていた。どうやら野営に適した場所を見つけたらしい。
「トーマ、今日はここにしよう。地面も乾いてるし、風もそんなに強くない。うん、なかなかいい場所じゃない?」
そう言って、マシューはくるりとこちらを振り返った。夕日に照らされた茶色の髪が、ふわりと揺れる。本人は得意げなつもりなのだろうが、その表情はどこか褒められるのを待っている子供のようにも見えた。
「……そうだな」
「なに、その反応。もうちょっと感心してくれてもいいんじゃない?」
「いや、感心してるよ」
「ぜーんぜん伝わってこないんだけど」
マシューは不満そうに唇を尖らせた。そのまま俺をじっと見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐く。
「まったく、キミってやつはさぁ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、その手はすでに背嚢の紐を解き始めていた。
「なあ、マシュー」
「んー?」
「俺たち、二人だけで野営するのか?」
その瞬間、マシューの手がぴたりと止まった。ゆっくりと顔を上げる。
「キミさ、もしかして頭の中までお昼寝してた?」
「してない」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「……ふぅん」
マシューは疑わしそうに目を細めた。そして、何かを確かめるように俺の顔を覗き込んでくる。距離が近い。思わず身を引くと、マシューはますます不思議そうな顔をした。
「熱でもあるのかな……」
そう呟くと、何の躊躇もなく俺の額に手を伸ばしてきた。
「お、おい」
「動かないでってば」
額に、ひんやりとした掌が触れる。マシューは真剣な顔でしばらく考え込んでいたが、やがて小さく首を傾げた。
「んー。熱はなさそうだね」
「だから大丈夫だって」
「大丈夫な人は、自分の名前を忘れたりしないと思うんだけど?」
「それはそうだな」
「でしょ?」
マシューは勝ち誇ったように笑った。まったく、調子のいい奴だ。
「それで? なんでみんなで野営しないのか、だったっけ?」
「ああ。集まった方が安全だろ?」
「……あー」
マシューは天を仰いだ。それから、両手で自分の頬を軽く挟む。
「もうっ! トーマ、キミは本当にどうしちゃったのさ!」
「そんなに変なことを聞いたか?」
「変だよ! ものすっごく変!」
そう言いながら、マシューは俺の胸元を指先でつついた。
「いい? 今回の行軍は、対魔散開陣形の訓練も兼ねてるんだよ?」
「対魔散開陣形?」
「うわぁ」
マシューは小さく口を開けたまま固まった。それから、何とも言えない表情で俺を見つめる。
「……これは思ったより重症かもしれない」
「おい」
「しょうがないなぁ。マシュー先生が教えてあげよう!」
そう言って、ぴんと人差し指を立てた。妙に楽しそうだった。俺が呆れて見ていると、マシューは地面にしゃがみ込み、小石をいくつか拾い集め始めた。
「はい、注目!」
「……はいはい」
「返事は一回!」
「はい」
「よろしい!」
満足げに頷く。どうやら、すっかり教師気分らしい。マシューは小石を中央に並べ、その周囲を細い枝で囲んでいく。
「まず、ここがお貴族様たちね。それで、僕たち平民はこうして周りに広く散開するの」
説明しながら、器用に枝を動かす。
「お互いが見えるくらいの距離を保って、何かあったら合図する。ほら、こんなふうに!」
マシューは立ち上がると、少し離れた場所にいる生徒たちへ両手を振った。
「おーい!」
向こう側の生徒が手を振り返す。するとマシューは、なぜか嬉しそうに笑った。
「ほらね!」
「……いや、わかったけど」
「むぅ。反応が薄いなぁ。」
頬を膨らませる。どうやら俺の反応が気に入らないらしい。
「まぁ実践では事前に決められた魔法を打ち上げたりするんだけどね」
しかし、その不満も長くは続かなかった。
「でね、外側にいる僕たちが魔物を発見したら、内側のお貴族様たちに知らせるの。そうすれば向こうは戦闘の準備ができるってわけ。本当はもっと5人、6人くらいで隊を作るんだけど、ノラ森林地帯は基本的に弱い魔物しかいないし、あくまで今回はお遊びみたいなものだからね」
「……待てよ」
「ん?」
「それだと、一番外側の連中が――」
言い終えるより早く、マシューの指が俺の唇を塞いだ。
「……しーっ」
先ほどまでの笑顔が消えていた。マシューは周囲をちらりと見渡すと、少しだけ顔を近づける。
「……トーマ。それは、あんまり大きな声で言っちゃ駄目だよ」
囁くような声だった。
「一番外側にいる子たちはね、死地番って呼ばれてるんだ」
「死地番?」
「うん。魔物と最初に戦う役目の子たち」
マシューの視線が、ほんの少しだけ伏せられた。
「志願する子もいるけど、順番で決まっちゃう子もいるからね。そういう子たちは、きっと今も怖い思いをしてる・弱い魔物って言っても、相手は自分たちを殺そうとする。殺意は向けられると怖いんだよ」
それから、俺を見上げる。
「だから、ね?」
静かな声。俺は黙って頷いた。するとマシューは、ほっとしたように目元を緩めた。
「……うん。いい子」
「お前、俺を何歳だと思ってるんだよ」
「あははっ! ごめんごめん!」
マシューは楽しそうに笑いながら、俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「安心してよ。僕たちは今回、死地番じゃないからさ」
「そうなのか?」
「そうなのです!」
得意げに胸を張る。
「このマシュー様の素晴らしいくじ運に、もっと感謝してくれてもいいんだよ?」
「……ありがとう、マシュー様」
「うむ、苦しゅうない!」
ふざけて顎を上げたマシューだったが、俺が笑うと、つられるように吹き出した。
「ぷっ……あはは! やめてよ、トーマ。真面目にやってるんだから!」
「どこがだよ」
「もうっ!」
笑いながら、マシューは俺の腕を軽く小突いた。
けれど、ひとしきり笑った後、その表情が少しだけ穏やかになる。
「でもね、トーマ」
「ん?」
「僕たちが選ばれなかったってことは、代わりに誰かが選ばれたってことなんだよ」
その声は、驚くほど静かだった。俺が言葉を探している間に、マシューは背嚢へと向き直った。
「さっ、野営の準備をしよっか!」
明るい声が戻る。マシューは手際よく荷物を広げ、焚き火の場所を整え始めた。その横顔には、もう先ほどの翳りはなかった。
いや、見えなくなっただけなのかもしれない。
「嫌な役回りもあるもんだなぁ……」
「んー?」
マシューは作業の手を止めず、少し考えるように首を傾げた。
「そうだなぁ……」
そして、ぽつりと呟いた。
「役回りで言うなら僕にできるのは、明かりを絶やさないことくらいだね」
「……明かり?」
「うん」
マシューは顔を上げ、木々の向こうを見つめた。夕闇の中、遠くの野営地に小さな火が灯り始めている。
「ああして火が見えればさ、離れてても、誰かがそこにいるってわかるでしょ?」
「……そうだな」
「だから、僕も火を絶やさないようにしたいんだ」
マシューは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「まあ、何かあっても僕にできることなんて、それくらいなんだけどね」
その笑顔を見て、俺は何となく胸の奥が温かくなるのを感じた。普段は軽口ばかり叩いているくせに。こういうところは、妙に真面目なのだ。
「じゃあ、俺は何をすればいい?」
「え?」
「俺にも、できることがあるだろ?」
マシューは一瞬、きょとんとした。それから、ふわりと笑った。
「うん。そうだね、そうだよね」
少し考えるように唇へ指を当てる。そして、ぱっと顔を輝かせた。
「あっ! じゃあ、薪!」
「……薪?」
「そう! 薪が欲しい!」
マシューは勢いよく頷いた。
「できれば乾いてるやつ! それも、いっぱい!」
「……結局、力仕事かよ」
「えへへ。適材適所ってやつだよ、トーマ」
悪びれもせずに笑う。
「それとも、僕が薪を拾って、キミが火の番をする?」
「いや、薪を拾ってくるよ」
「うんうん。それがいいね!」
マシューは満足そうに頷くと、俺の背中を軽く押した。
「じゃあ、よろしくね。頼りにしてるよ、トーマ!」
その声が、妙に嬉しそうだった。俺は小さく溜息をつきながら、森の方へ歩き出した。背後から、再び声が飛んでくる。
「あっ、トーマ!」
「今度はなんだよ!」
「あんまり遠くに行っちゃ駄目だからね!」
「わかってる!」
「それと、暗くなる前に帰ってきてよ!」
「わかったって!」
「……絶対だからね!」
最後の言葉だけ、少し声が小さかった。俺は思わず振り返った。マシューは焚き火の準備をしながら、こちらを見ていた。目が合うと、ぱっと笑う。
「……いってらっしゃい!」
夕暮れの森に、その声が軽やかに響いた。
第二章 退魔散開陣形 了




