第一章
「ふぁ……」
慌てて口元を袖で隠す。それから、こちらの視線に気づいたのか、少しばかり気まずそうな顔をした。
「……なに?」
「いや、別に」
「……今の見た?」
「何を?」
「……むぅ」
どうやら欠伸を見られたのが気に入らなかったらしい。マシューは不満げに唇を尖らせたが、すぐに諦めたように肩をすくめた。
「まあ、いいや。お偉方が仲良くなろうが喧嘩しようが、僕たちは荷物を運ぶだけだしね」
そこで、小さく笑う。
「せいぜい巻き込まれないようにしましょう、ってね」
軽い口調だった。
けれど、その言葉には、どこか諦めにも似た響きがあった。
貴族と平民。名字を持つ者と、持たざる者。同じ制服を着て、同じ学園で学んでいても、その間には目に見えない境界線が引かれている。
そして、その線を越えようとする者は、少なくともこの場所では歓迎されないのだろう。俺は何気なく、自分の胸元に視線を落とした。銀糸で縫い取られた学園の紋章。その下には、何の飾りもない。
貴族の生徒たちが身につけているという家紋章も、家名を示す徽章もなかった。俺はトーマ。ただのトーマ。名字を持たない、一人の平民。
そうだ。それで間違いない。
……はずなのに。胸の奥に、またあの違和感が生まれた。何かが足りない。何か、決定的なものを忘れている。
しかし、それが何なのかはわからない。
「トーマ?」
不意に、袖をくいっと引かれた。顔を上げると、マシューがすぐ傍に立っていた。
「……また考え事?」
「ああ、ちょっとな」
「ふぅん……」
マシューは少しだけ目を細めた。それから、困ったように笑う。
「キミ、今日は本当に変だね」
「……そうか?」
「そうだよ。さっきからずっと、どこか遠くを見てるみたい」
そう言って、マシューは俺の顔をじっと見つめた。フードの奥で、茶色の瞳が小さく揺れる。
「ねえ、トーマ」
「なんだ?」
「何かあったら、ちゃんと言ってよ?」
思いのほか真剣な声だった。
「僕たち、相棒なんだからさ」
相棒。その言葉が、不思議と胸に引っかかった。俺とマシューは、相棒。
……そうだったのか?
いや、きっとそうなのだろう。
「ああ、わかった」
俺が頷くと、マシューはほっとしたように表情を緩めた。
「うん! それならよし!」
そして、いつもの調子に戻る。
「じゃあ、ほら! 行くよ、トーマ!」
そう言って、少し先へ駆け出した。軽やかな足取り。フードから零れた茶色の髪が、夕風にふわりと揺れる。
「ぼさっとしてると置いてっちゃうからね!」
「ああ、今行く!」
「……あっ!」
マシューは何かを思い出したように足を止めた。そして、くるりと振り返る。
「でも、あんまり離れないでよ?」
「……どっちなんだよ」
「えへへ。どっちも!」
いたずらっぽく笑う。
「置いていくのはいいけど、置いていかれるのは嫌だからね!」
「勝手な奴だな、そんな奴だったか?」
「ふふん。今更でしょ?」
マシューは楽しそうに笑うと、再び歩き始めた。
俺は小さく息を吐き、馬の手綱を握り直す。馬が小さく鼻を鳴らした。木漏れ日が揺れ、足元の影がゆっくりと形を変えていく。
森は静かだった。あまりにも静かで、穏やかだった。何も起こるはずのない、ありふれた午後。俺たちは他愛もない話を交わしながら、ただ前へ、前へと歩いていく。
そのときだった。
不意に、ひとつの疑問が頭をよぎった。
――俺は、どうして戦場の補給について知っているんだ?
足が止まりかけた。兵站の重要性。補給路の確保。敵による輸送路の遮断。そんな知識を、俺はいつ、どこで学んだのだろう。学園で習ったのか?
それとも、誰かに教わったのか?
思い出せない。思い出そうとした瞬間、頭の奥で何かが軋んだような気がした。
「……トーマ?」
マシューの声が聞こえる。顔を上げると、少し先でマシューが立ち止まっていた。今度は急かすこともなく、ただ静かにこちらを見ている。
「……大丈夫?」
その問いかけは、ひどく優しかった。
「……ああ。なんでもない」
俺は小さく笑ってみせた。
「今行くよ」
「……そっか」
マシューは一瞬だけ何かを言いたそうにしたが、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「じゃあ、早く早く!」
両手を大きく振る。
「僕、お腹空いちゃったよ! 早く補給を終わらせて、美味しいもの食べよう!」
「……食料は貴族に渡すんだろ?」
「僕たちの分もちゃんとあるでしょ!」
「それはそうだけど」
「だったら問題なし!」
マシューは満足そうに頷いた。
「ふふっ。今日は何が食べられるかなぁ」
そんなことを呟きながら、また歩き出す。俺はその背中を追いかけた。木々の向こうには、まだ見ぬ行軍路が続いていた。そして俺は、その先に何が待っているのかを知らない。
ただひとつ。自分が何かを忘れているという、その感覚だけが。いつまでも、胸の奥に残り続けていた。
そんな中だからこそ、このけらけらと笑い、不機嫌な時には頬を膨らませ、身体いっぱいに生きているこの少年の存在がこの俺の不確かな存在を肯定してくれる唯一に思えたんだ。
あなたは過去を失くした、私は過去を捨てられなかった
あなたは真実を探し、私は真実を隠した
それでも僕らは笑った、同じ道を歩いた
何も知らないあなたと、何も知らないふりをした僕
この時間だけが、ただ一つの真実で幸福
だからすべてを思い出したその日には
僕の嘘を憎んでくれていい
それでも僕はあなたと生きたい
第一章 まどろみの森 了




