第一章
「――でさ、そいつが言ったんだよ!」
不意に、弾むような声が耳に飛び込んできた。
「『私の父を誰だと思っている!』って!」
マシューだった。どうやら、俺が考え事をしている間もずっと喋っていたらしい。
「いやいや、知らないよって話じゃん? そもそもこっちは名字すらないんだからさ!」
マシューは自分で話しながら、くすくすと笑っていた。
「それでね、僕、思わず聞いちゃったんだよ。『えっ、お父様がどなたかわからないんですか?』って!」
「……ん?」
「そしたらもう、顔を真っ赤にしちゃってさ!」
とうとう堪えきれなくなったのか、マシューはお腹を押さえて笑い始めた。
「あはははっ! もう、あの顔ったら!」
フードがずり落ちそうになるのも構わず、随分と楽しそうだ。俺は適当に相槌を打ちながら、意識を目の前の道へと戻した。どうにも頭がぼんやりする。このまま考え続けても、答えが出る気はしなかった。
「ねえ、トーマ?」
「ん?」
「もしかして、聞いてなかった?」
マシューがじとりとした目を向けてきた。
「……いや、聞いてたぞ?」
「へぇ?」
疑いの眼差し。にじりにじりと俺の顔を覗き込むようにマシューが近づいて来る。
「じゃあ、今の話のどこが面白かった?」
「……親父がどうとか」
「それだけ!?」
マシューが頬を膨らませた。
「もう! せっかく面白い話してあげたのに!」
「悪い悪い」
「むぅ……」
マシューはしばらく不満そうにこちらを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まあ、いいけどさ」
そう言いながら、俺の隣へぴたりと戻ってくる。
「でも、次はちゃんと聞いてよね?」
「わかったよ」
「約束だからね」
念を押すように人差し指を立てる。その仕草が妙に大袈裟で、俺は思わず苦笑した。
「なあ、マシュー」
「ん?なあに?」
「この訓練、俺たちは貴族の連中に合図されたら、荷物を渡せばいいんだよな?」
「そうだよ?」
マシューは当然のように頷いた。
「お貴族様へのお荷物お渡し係。それが僕たちのありがたーいお仕事なのです!」
最後だけ妙に丁寧な口調になった。どうやら、またふざけているらしい。
「それ、ただの荷物持ちだよな?」
「だからそう言ってるじゃん」
「だったら、なんで貴族の連中と一緒に行動しないんだ? 補給するなら、近くにいた方が効率的だろ」
そう尋ねた途端、マシューはぴたりと足を止めた。そして、ゆっくりとこちらを振り返る。
「トーマ?」
「なんだよ」
「キミ、正気?」
真顔だった。
「いやいやいや。ちょっと待ってよ。トーマさ、もしかして貴族様と何時間も一緒に行動したいわけ?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「だったらわかるでしょ?」
マシューは両手を広げてみせた。
「あの連中の近くに長時間いてみなよ。ちょっとした失礼でもあれば、首と胴体がお別れしちゃうんだよ?」
そう言って、人差し指を自分の首へ当てる。
「はい、さようならー」
指を横へ滑らせると、マシューはこてんと首を傾けた。妙に芝居がかった仕草だった。
しかし、その目だけは笑っていなかった。
「……いい、トーマ?」
声が少しだけ低くなる。
「僕たちみたいな名字も持たない平民が、貴族様の機嫌を損ねたところで、誰も助けちゃくれないんだよ」
先ほどまでの陽気な調子とは違っていた。淡々としていて、どこか冷めている。
「そんなもんなのか」
「そんなもんだよ」
マシューは小さく肩をすくめた。
しかし、次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っている。
「だから、これは教師たちの恩情ってわけ。ありがたや、ありがたやー」
わざとらしく両手を合わせ、頭を下げる。
「お前、本当に教師が嫌いなんだな」
「えへへ。ばれた?」
「隠す気もないだろ」
「まあね!」
にっこりと笑う。
「でも、僕だってちゃんと尊敬する先生はいるんだよ?」
「へえ、誰だ?」
「んー……」
マシューは考え込むように人差し指を顎へ当てた。
「今のところ、思いつかないかな!」
「いないのかよ!」
「あははっ!」
楽しそうな笑い声が森に響いた。まったく、こいつといると調子が狂う。
「ほら、トーマ。あっち見てみなよ」
マシューが前方を指差した。視線を向けると、木立の向こうから三人の生徒が歩いてくるのが見えた。俺たちと同じ制服に、同じような背嚢。ただし、その背嚢は明らかに薄くなっていた。三人は談笑しながら、俺たちとは反対方向へ進んでいく。
「先に出発した人たちだよ。もう補給を終えたみたいだね」
「なるほど」
「最初に出た人たちが荷物を渡して、次に出た人たちがまた渡す。で、今度は僕たちの番」
マシューは指を一本ずつ折りながら説明していく。
「それで、前の人たちが補給を終えたら、後ろに控えてる人たちがまた進むってわけ」
最後の一本を折り終えると、マシューは満足げに頷いた。
「どう? わかった?」
「ああ」
「よろしい!」
なぜか教師のように偉そうな態度を取る。
「そうやって順繰りに補給する仕組みなんだ。お貴族様たちには一度に大量の食料を渡さず、少しずつ渡してあげる。そうすれば、向こうも一応は物資の管理を考えなきゃならないでしょ?」
「でも、それって変じゃないか?」
「ん?」
マシューが小首を傾げた。
「実際の戦場じゃ、そんな頻繁に補給なんてできないだろ」
森の中を進軍する部隊に、都合よく物資が届くとは限らない。補給路が断たれることもあれば、天候や敵の妨害によって輸送が遅れることもある。そもそも、これほど頻繁に後方から物資を送り込めるのなら、行軍中の食料管理など大した訓練にはならないはずだ。俺がそう指摘すると、マシューは一瞬だけ目を丸くした。
「……へぇ」
それから、何やら面白そうに口元を緩める。
「な、なんだよ」
「いやぁ?」
マシューはにやにやと笑いながら、俺の顔を覗き込んできた。
「キミ、さっきまで自分の名前も怪しかったくせに、そういうところは妙に頭が回るんだねぇ」
「茶化すなよ」
「ふふっ。ごめんごめん」
ちっとも悪びれていない。むしろ、ますます楽しそうだ。
「でも、ちょっと見直したかも」
「ちょっとかよ」
「うん。ちょっとだけ!」
マシューは親指と人差し指で、ごく僅かな隙間を作ってみせた。
「お前なあ」
「冗談だってば!」
ひとしきり笑うと、マシューはようやく真面目な顔に戻った。
「でもまあ、言いたいことはわかるよ。本格的な軍事教育なんて、あの連中はそれぞれの家で習うんだろうしね」
「家で?」
「そう。戦術だの、兵站だの、指揮官としての心得だの。お金も時間もたっぷりかけて、立派な家庭教師様に教えてもらうんじゃない?」
マシューは大袈裟に両手を広げた。
「僕たちとは違って、先生を独り占めできるなんて羨ましい限りだよねぇ」
そう言いながら、少しだけ唇を尖らせる。
しかし、それもほんの一瞬だった。
「まあ、僕は誰かにずっと見張られながら勉強するなんて御免だけど!」
「……だろうな」
「えっ、なにそれ。どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
「むぅ。なんだか馬鹿にされた気がする」
マシューは俺の肘を軽く小突いた。
「それで、今回の訓練は何なんだ?」
「お遊びだよ、お遊び」
あっけらかんと言い放つ。
「そもそも、考えてもみなよ。帝国に王国、神聖国、それに共和国。普段なら顔を合わせる機会すらないようなお偉方のご子息たちが、どういうわけか同じ世代に揃っちゃったんだよ?」
マシューは指を折りながら国の名前を数えていく。
「しかも、そんな人たちが揃いも揃って、この士官学園に通ってるときた」
「確かに」
「学校側は、せっかくの機会なんだから仲良くしてもらいたいんだよ。将来、それぞれの国で偉くなるかもしれない人たちだしね」
マシューは両手を後ろで組み、少しだけ先を歩き始めた。
「今のうちに顔を繋いでおけば、何かと都合がいい。もしかしたら、みんな仲良しになって戦争なんかしなくなるかもしれないしね」
そう言うと、不意にこちらを振り返った。
「ねえ、トーマ」
「ん?」
「もしもさ、世界中のお偉いさんたちがみーんな友達だったら、戦争ってなくなると思う?」
唐突な問いかけだった。
「さあな」
「えー、ちゃんと考えてよ」
「そんな簡単な話じゃないだろ。仲が良くたって、国同士の利害がぶつかることくらいあるだろうし」
「……ふぅん」
マシューは何かを考えるように目を細めた。
「そっか。やっぱり、そういうものなのかな」
ほんの一瞬。その横顔が、妙に大人びて見えた。
だが、次の瞬間には、ぱっと表情を明るくしている。
「ま、僕だったら面倒なことは全部話し合いで済ませちゃうけどね!」
「そんな簡単にいくか?」
「いくよ! お菓子でも食べながらさ、みんなで仲良くお話しすればいいんだよ」
「お菓子?」
「そう! 美味しいものを食べてるときって、あんまり怒る気にならないでしょ?だから、戦争する前にお茶会を開けばいいんだよ!」
「世界中のお偉いさんを集めてか?」
「うん!」
「それで戦争がなくなれば苦労しないだろ」
「トーマって、たまに夢がないよね」
頬を膨らませて抗議してくる。
しかし、すぐに自分でもおかしくなったのか、小さく笑った。
「……まあ、そんな簡単にいかないのはわかってるけどさ」
その声は、少しだけ静かだった。
「でも、そうだったらいいのになって思うくらいは、自由でしょ?」
「そうだな」
「でしょ?」
マシューは満足そうに微笑んだ。なるほど。確かに、それなら今回の訓練にも納得がいく。軍事訓練という名目を借りた、各国の有力貴族の子弟たちによる交流行事。
そう考えれば、この妙に緩い補給体制にも説明がつく。
「ま、僕たち平民には関係ない話だけどね」
マシューはそう締めくくると、小さく欠伸をした。




