第一章
「トーマ?」
顔を上げると、マシューがこちらを覗き込んでいた。いつの間にか、また随分と近くにいる。
「今度はどうしたの?」
「ああ、悪い」
「もう。今日は本当に変なんだから」
口ではそう言いながらも、マシューは俺が背嚢を持ち上げるまで、黙って傍に立っていた。ずしりと肩に重みがかかる。革の肩紐が制服越しに食い込み、その感触が妙に生々しかった。そうだ、思い出した。
俺たちは今、アルカディア統合士官学園が主催するノラ森林行軍合宿に参加している。学園の周辺に広がる広大なノラ森林地帯を舞台に、三日間をかけて行われる実地訓練。もっとも、俺たち平民出身の生徒にとっては、行軍訓練というより補給任務の実習と呼んだ方が正しい。
名字を持つもの、すなわち貴族階級の生徒たちは数名からなる小隊を編成し、地図と方位磁針を頼りに森林を踏破する。野営地の選定、食料の管理、進路の決定。それらを自分たちの判断で行い、最終的に指定された目的地へ到達することが課題となっている。
一方、俺たち平民出身者に与えられた役割は、その後方支援だ。食料や水、野営用の資材を運搬し、必要に応じて前方の部隊へ補給する。言葉にすれば立派なものだが、実際のところは――。
「しかし、補給部隊ねぇ……」
隣を歩き始めたマシューが、いかにも不満そうに口を開いた。
「僕たち平民に対する教育なんて、お粗末なもんだよねぇ」
マシューは両手を頭の後ろで組み、わざとらしく溜息をついた。
「荷物を持って森に入れ、お貴族様の後ろをついて歩け。はい、おしまい! ……って、これのどこが士官教育なのさ」
今度は教師の物真似らしい。背筋をぴんと伸ばし、わざと低い声を作る。
「諸君! これも立派な軍事訓練である! つべこべ言わずに荷物を運びたまえ!」
そこまで言って、自分で吹き出した。
「ぷっ……あはは! 似てるでしょ?」
「誰の真似だよ」
「えー? わからない? ほら、あの眉毛がこうなってる先生!」
マシューは両方の人差し指で、自分の眉尻をぐいっと吊り上げた。随分と間の抜けた顔になった。
「ぶっ」
「あっ、笑った!」
「いや、だってお前……」
「ふふん。ようやく笑ったね!」
マシューは満足そうに頷いた。
「さっきからずーっと難しい顔してたからさ。せっかくの行軍なんだし、もう少しくらい楽しそうにしたら?」
「楽しむって、荷物運びをか?」
「そうそう。どうせ同じことするなら、楽しい方がいいじゃん?」
実に気楽なものだ。しかし、その言葉には不思議と説得力があった。
「それにしても、せめて補給計画の立て方くらい教えてくれてもいいのにね」
マシューはそう付け加えると、再び歩き始めた。俺は曖昧に頷きながら、傍らに繋がれていた馬の手綱を取った。すると
馬は、こちらの意図を理解しているかのように、静かに歩き始めた。
「ん?」
思わず、その姿をまじまじと見つめる。艶のある毛並み、引き締まった四肢、無駄のない筋肉のつき方。そして何より、こちらの僅かな動きを察知し、即座に反応するその従順さ。どうにも違和感がある。
「なあ、マシュー」
「んー?」
「この馬、本当に荷馬なのか?」
「へ?」
マシューは小首を傾げた。
「いや、どう見ても荷運び用の馬じゃないだろ、こいつ」
荷を背負わせているとはいえ、その体格と立ち姿は、むしろ軍馬のそれに近かった。耳を小刻みに動かし、周囲の音を拾っている。歩調も安定していて、木の根が露出した足場の悪い場所でさえ、ほとんどつまずく気配がない。少なくとも、ただ荷物を運ばせるためだけに用意された馬とは思えなかった。
「ふむ」
マシューは顎に指を添え、妙に真剣な顔をした。そして馬をじっと見つめる。右から。左から。
ついには少し屈んで、脚のあたりまで観察し始めた。
「なるほどね」
「何かわかったか?」
「うん!」
マシューは勢いよく顔を上げた。
「さっぱりわかんない!」
「……おい」
「あははっ!だって僕、魔導士だもん。馬のことなんて詳しくないよ」
けろりと言い放つ。
「学園の厩舎から連れてこられたんでしょ? それなら別にいいじゃん」
「いや、そういう問題じゃ……」
「それにさ」
マシューは馬の鼻先へ、そっと手を差し出した。馬は少しだけ鼻を鳴らすと、その手に顔を寄せた。
「おっ、いい子いい子」
嬉しそうに笑いながら、マシューが鼻筋を撫でる。
「こんなに大人しくて賢いんだよ? 暴れん坊よりずっといいでしょ」
「まあ、それはそうだけど」
「でしょ?」
マシューは得意げに笑った。
「ほらね。僕の言うことはだいたい正しいんだから」
「だいたい、な」
「むっ。そこは全部って言ってよ」
不満そうに唇を尖らせる。
しかし、馬がもう一度鼻先を寄せると、すぐに機嫌を直した。
「ふふっ。キミは素直でいい子だねぇ」
馬の首を優しく撫でながら、そんなことを呟いている。どうやら、随分と気に入ったらしい。俺はもう一度、馬の横顔を見た。黒く澄んだ瞳が、ちらりとこちらを向く。不思議なことに、その視線にはどこか人間めいた落ち着きがあった。気のせいだろうか。手綱を軽く引くと、馬は素直に歩調を合わせた。
森の中には、穏やかな午後の光が満ちていた。森林といっても、鬱蒼とした原生林ではない。樹木の間隔は比較的広く、ところどころに下草の生えた小さな空間がある。頭上では枝葉が緩やかに揺れ、風が吹くたび、葉擦れの音がさざ波のように広がっていく。
遠くでは鳥が鳴いている。湿った落ち葉を踏みしめる音と、荷馬の蹄が土を叩く音。それらが重なり合い、森の中には奇妙なほど穏やかな時間が流れていた。周囲を見渡せば、俺たちと同じように荷馬を引く生徒たちの姿がちらほらと確認できる。
二人組もいれば、三人組もいる。皆、重そうな背嚢を背負い、決められた進路に沿って歩いていた。
しかし、妙だ。何が妙なのか、自分でもわからない。この景色には見覚えがある。いや、見覚えがあるどころではない。
木々の匂い、風の冷たさ、足元の柔らかな土の感触、すべてが初めてのはずなのにどこか懐かしい。その一方で、今の自分がここにいること自体が、ひどく不自然にも思えた。記憶が、少しずつ戻ってくる。
学園のこと。訓練のこと。マシューのこと。そして、自分がトーマという名の平民であること。
思い出すたびに、頭の中に散らばっていた断片が、ひとつずつあるべき場所へ収まっていく。
だが、それは本当に「思い出している」のだろうか。まるで、誰かが用意した記憶を、順番に教えられているような――。




