第一章 まどろみの森
1人が、まどろんでいた。
ひどく深い、底の見えない微睡みだった。眠い。ただ、ひたすらに眠かった。
このまま意識を手放せば、途方もなく心地よい眠りに落ちることができると思った。単なる休息でも、疲労からの回復でもない。回復ではなく、快復。心と身体、その奥に沈んだ何かまでも洗い流してしまうような眠りだった。
不思議と恐怖はなかった。むしろ、安らかだった。指先から力が抜けていく。足先、腕、肩、そして胸へ。身体の輪郭が曖昧になり、まるで水面に浮かぶ羽毛のように、自分という存在が浮かび上がっていく。
いや、違う。
浮かんでいるのではない。引き上げられているのだ。見えない何かが俺の内側へ手を差し入れ、肉体から魂だけを静かに引き抜こうとしている。奇妙な感覚だった。いったい、どこへ連れていかれるのだろう。
そもそも、俺は――。
「――マ」
声が聞こえた。遠い。深い水の底にいる俺を、水面の向こうから誰かが呼んでいるようだった。
「ねぇ、トーマ」
誰だ。
「トーマってば。ねぇ、起きてよ」
声が近づく。幼さの残る、少し高い声。聞き覚えはある。なのに、誰の声なのか思い出せない。
「……もうっ!」
微睡みの向こうで、誰かが小さく息を吸い込んだ。
「トーマ! ちょっと、聞いてるのっ!」
「……っ!」
弾かれるように意識が浮上した。目を開けた瞬間、まぶしい陽光が視界に飛び込んできた。木々の隙間から差し込む光。そして、目の前に立つ一人の中性的な少年。
「あ……え……?」
「え、じゃないでしょ。え、じゃ!」
呆れたような声が返ってきた。少年は両手を腰に当て、不満げな顔でこちらを見上げていた。十代後半くらいだろうか。小柄で華奢な体つきは、同年代の少年たちよりも幾分幼く見える。
日焼けを嫌ってか、制服のフードを目深に被っていた。フードの隙間からは、肩のあたりで切り揃えられた茶色の髪が覗き、風が吹くたび毛先はふわふわと揺れた。影の下にある瞳はくりくりとして、どこか人懐っこい。もっとも、今はその眉間に小さな皺が寄っていた。どうやら、相当ご立腹らしい。
「まったく、何回呼んだと思ってるのさ!」
少年はそう言って、俺の胸元を人差し指でつついた。
「1回、2回、3回……ううん、もっと呼んだよ! 僕の声が枯れちゃったらどうしてくれるの?」
ぷりぷりと怒りながら、ぐりぐりと俺の胸元を人差し指でえぐりながら、なおも何かを言い募っている。
しかし、俺の意識はその言葉よりも、少年の着ている服へ向けられていた。濃紺を基調としたアルカディア統合士官学園の制服。胸元には、剣と月桂樹を組み合わせた学園の紋章が銀糸で刺繍されている。見覚えがある。いや、知っている。知っているはずなのだ。
だが、どうしてだろう。目の前の少年の名前が、ひどく遠いところにあるように感じられる。
「その制服と顔。お前、マシューか?」
恐る恐る問いかけると、少年は一瞬きょとんとした顔をした。ぱちり、と瞬きをひとつ。それから、みるみるうちに表情が変わっていく。
「え?」
今度は向こうが間の抜けた声を漏らした。
「トーマ?」
「ああ」
「キミ、もしかして……僕の名前まで忘れちゃったの?」
「いや、その」
返答に困っていると、マシューは大袈裟に肩を落とした。
「はぁぁ」
随分と長い溜息だった。やがて観念したように顔を上げると、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「そうだね。僕はマシュー。ただのマシュー。そしてキミはトーマ。ただのトーマだよ」
そこまで言って、片方の眉をぴくりと上げる。
「なにさ、今更自己紹介でも始めるつもりかい?」
「そうだな、そうだよな」
トーマ。その名前を、頭の中で繰り返す。トーマ。トーマ。
そうだ。俺はトーマだ。
「俺は、トーマだよな?」
「えぇーっ!?」
マシューが素っ頓狂な声を上げた。近くにいた鳥が驚いたのか、枝葉を揺らして飛び立っていく。
「ちょっと、ちょっと待ってよ! 冗談だよね? ねえ、冗談なんでしょ?」
「いや、だから」
「もう! はっきりしてよ!」
マシューは頬を膨らませた。
しかし、俺が困惑した顔をしていると、今度は心配そうに眉を下げる。
「……本当に大丈夫?」
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、声が小さくなった。マシューは少し背伸びをすると、俺の額へ手を伸ばしてきた。
「ちょっと失礼」
「お、おい?」
「いいから、じっとしてて」
ひんやりとした掌が額に触れる。マシューは自分の額にも片手を当て、しばらく真剣な顔で考え込んでいた。
「んー……熱はなさそうだけど」
「だから大丈夫だって」
「大丈夫な人は自分の名前を忘れたりしないと思うんだけどなぁ」
「ごもっともで」
「でしょ?」
そう言って、マシューは得意げに笑った。まったく、調子のいい奴だ。
「まあ、熱がないならひとまず安心かな」
小さく頷くと、マシューは俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「ほら、さっさと荷物を持ってよ。いつまでもこんなところで油売ってたら、お貴族様たちに怒られちゃうよ」
そう言って、傍らに置かれていた背嚢を顎で示す。
「ただでさえ荷物持ちなんて面倒なのに、キミまで僕のお荷物になっちゃったら困るからね!」
「上手いこと言ったつもりか?」
「えへへ。ちょっとね」
悪びれる様子もなく笑っている。その顔を見ていると、なんだか怒る気も失せてしまった。
「ったく。立ったまま寝る人なんて初めて見たよ」
立ったまま? 俺は寝ていたのか?
確かに眠っていたような感覚はある。
しかし、つい先ほどまで感じていた、あの奇妙な浮遊感は何だったのだろう。まるで、どこか遠い場所から無理やり連れ戻されたような。いや。それよりも――。何か、大切なことを忘れている。そんな気がした。
だが、何を?
思い出そうとすると、頭の奥に薄い靄がかかる。形になりかけた記憶は、指の隙間から零れ落ちる砂のように、掴もうとした途端に消えてしまった。




