幕間 記憶の残滓
どれだけの力を持っていても
守れなかった明日を知っている
俺様は、私は、我は、儂は英雄だった
帰れなかった者たちだった
だから君に託そう
我々が手にできなかった
何者でもないただの幸せを
夜が明けようとしていた。
中央拠点の救護天幕では、治癒魔導士たちが夜通し負傷者の手当てに追われていた。外では生徒の安否を確かめる声が飛び交い、時折、担架を運ぶ兵士たちの足音が近づいてくる。
その片隅で、トーマは眠っていた。
全身に巻かれた包帯。血の気を失った顔。身体のあちこちに残る傷は、《天上の慈雨》と治癒魔導士たちの手当てによって塞がれていたが、失った体力までは戻っていない。
寝台の脇には、一人の少年が座っている。
マシューだった。
彼はトーマの手を握り、何度となくその顔を覗き込んでは、確かめるように名前を呼んでいた。
「……トーマ」
返事はない。
「……まったく、キミって奴は」
マシューは小さく息を吐いた。
「……馬鹿なんだから」
その声は、少し震えていた。
けれど、眠るトーマがその言葉を聞くことはなかった。
彼の意識は、今も深いまどろみの中にあった。
そしてその奥底では五人の人影が彼を見つめていた。
そこには、空がなかった。
ただ、果てしなく続く白い空間と、古びた石畳が広がっている。
遠くには崩れかけた石柱が幾本も立ち、ところどころに見覚えのない旗が垂れ下がっていた。
色褪せた白銀の旗。
風を受けて翻る、赤茶けた戦旗。
青地に紋章が刺繍された騎士旗。
そして、古代文字の刻まれた魔導布。
いずれも、かつてこの世界のどこかに存在していたものだった。
石畳の中央に、一本の長剣が突き立てられている。
それを囲むように5つの椅子が置かれている。
椅子にはそれぞれ、誰かが座っていた。
「がっはっはっは!見たか、おい!あの小僧、やりやがったぞ!いやあ、あれはよかった!俺様の戦士の咆哮を使いやがったんだ!しかも、ちゃんと仲間が駆けつけてきたじゃねえか!六百年だぞ、六百年!俺がくたばってから、そんなに経ってるってのによ!」
「……随分と嬉しそうね」
「だってそうだろうが!俺様たちの時代じゃ、誰かが咆哮を使えば必ず仲間が駆けつけたんだ。それが今でも残ってるってんだから、嬉しくもなるだろ?」
「ええ。そうでしょうね」
「それにあの犬っころ、なかなかいい面構えだったじゃねえか。あいつは気に入ったぜ」
「カイルという子だったかしら?」
「名前なんざ知らねえが、いい戦士だ。あの狐の嬢ちゃんもな」
「そうね。あの子たちが来てくれなければ、危なかったもの」
「……危なかった、で済む話かのう?」
「儂には、あれが随分と無謀な戦いに見えたがのう」
「何だよ、爺さん。水を差すんじゃねえよ」
「水も差したくなるわい。いったい何体を相手にしておったと思う? しかも、通常の武器では討ち取れぬ原典魔種まで三体おったのじゃぞ?」
「だからこそ、俺様の咆哮を使ったんだろうが」
「使った結果、死にかけたではないか」
「まぁもうすこし上手くやれたかもしれねーなぁ」
「上手くやれた、では済まぬだろう。お前の咆哮は、本来仲間との連携を前提とした技なのだろう」
「そうだったかもなぁ」
「ならば、仲間の存在を確かめる前に使ったのは失策だ」
「……お前さん、相変わらず厳しいねえ」
「事実を述べたまでだ」
「ったく。千年経っても堅物は堅物のままかよ」
「六百年経っても粗野な者に言われたくはない」
「おい?今のは喧嘩売ってんのか?」
「買うつもりなら構わん」
「あらあら。二人とも、相変わらずね」
「笑い事じゃねえぞ!」
「ふふっ。ごめんなさい」
「ほっほ。よいではないか。千年前と六百年前の武人が口喧嘩とは、実に歴史的な光景じゃ」
「爺さんまで!」
「……でもさ」
「……あの人、どうして逃げなかったの?」
「もう、立っているのも大変そうだったのに」
「そうね。どうしてだと思う?」
「……わかんない。だって、あんなに痛そうだったんだよ?」
「ええ」
「怖かったと思うんだ」
「……そうでしょうね」
「だったら、逃げちゃえばよかったのに」
「……逃げられなかったのだろう」
「どうして?」
「背後に守るべき者がいたからだ」
「……守るべき人?」
「ああ」
「自分が退けば、誰かが死ぬ。そう考えたのだろう」
「……でも」
「それで自分が死んじゃったら、どうするの?」
「……それでも、守りたいものがあったのだ。自らの命を失うことよりも、守れなかった時の後悔を恐れたのだろう」
「……そうなの?」
「ああ」
「……僕には、よくわかんないや」
「だって、死んじゃったら、もう会えないでしょ?」
「……誰にだ?」
「守りたかった人に。一緒にご飯も食べられないし、お話もできないし、遊ぶこともできなくなっちゃう」
「…………」
「それなのに、守れたからよかったって思えるのかな」
「……わからん」
「……え?」
「我にも、わからんのだ」
「我は、守るために戦った。その選択が間違っていたとは思わない。だが、守った者たち、守りたかった人々と共に生きる時間をほとんど持てなかった。千年が過ぎた今でも、その答えは出ておらん」
「……千年も?」
「ああ」
「……長いね」
「そうだな、随分と長い時間だ」
「……ま、あれだ」
「考えすぎなんだよ、お前さんたちは」
「あら、あなたは考えなさすぎじゃない?」
「うるせえな。俺様はな、戦士が戦う理由なんざ、もっと単純でいいと思ってんだよ」
「……ほう?」
「では、聞かせてもらおうかのう」
「腹が減ったら飯を食う。眠くなったら寝る。仲間が困ってたら助ける。敵が来たらぶっ飛ばす。それだけだろうが」
「実におぬしらしい答えじゃな」
「褒めてんのか?」
「さて、どうじゃろうな」
「俺様たちの頃なんざ、毎年どこかの氏族が争ってたんだ。食い物が足りねえだの、土地を奪われただの、そんな話ばっかりだった。けどな、魔物が攻めてきたとき、そんなもんは関係なくなった。敵対してた氏族の連中だって、同じように血を流してたんだからよ」
「……それで、咆哮を使ったのね」
「ああ」
「最初は、誰も来ねえと思ってた。俺が一人で食い止めてりゃ、少しは逃げられる奴もいるだろうってな」
「……怖くなかったの?」
「怖えに決まってんだろ」
「俺だって死にたくはねえよ。まだ飲み足りなかったしな」
「……お酒?」
「おう。美味え酒が山ほど残ってたんだ」
「……おっちゃんらしいね」
「はっはっは! そうだろう?」
「でもよ、面白えもんでな」
「咆哮を放ったあと、背中から声が聞こえたんだ」
「……声?」
「ああ。槍を持った奴、斧を持った奴、弓を持った奴。今まで散々いがみ合ってきた連中が、みんな俺のところへ来やがった」
「俺様はもう、笑うしかなかったね」
「……嬉しかった?」
「ああ、嬉しかったさ」
「だからな、小僧。戦士ってのは、一人で死ぬために戦うんじゃねえ」
「……うん」
「一緒に生きて帰って、飯を食うために戦うんだよ」
「……そっか」
「おう」
「じゃあ、あの人も帰れるといいね」
「……ああ、そうだな」




