第六章
「――トーマッ!!」
遠くから甲高い声が響いた。
カイルが振り返る。中央拠点へ続く道から、一人の小柄な少年が走ってきていた。茶色の巻き毛を揺らしながら、必死の形相でこちらへ向かってくる。
マシューだった。
「トーマ!トーマはどこ!?」
勝ち鬨を聞いた瞬間、マシューは結界の内側から飛び出していた。
周囲の騎士たちが制止する声も、ほとんど耳に入らなかった。戦いが終わった。魔物たちが退いた。それなら、もう戻ってくるはずだ。あの馬鹿みたいに真っ直ぐで、放っておけばすぐ無茶をする少年が。きっとまた、何事もなかったような顔で。
『おう、マシュー。無事だったか?』
なんて言いながら。
「……トーマ!」
もう一度、名前を呼んだ。その声に、カイルが振り返る。
「ん?」
走ってくる少年を見て、首を傾げた。
「知り合いっすか?」
だが、マシューは答えなかった。
視線がある一点に釘づけになっていたからだ。
シャルロッテ。その膝に頭を乗せて眠る、トーマ。
「…………」
マシューの足が止まった、見間違いかと思った。もう一度、見る。
狐耳の少女が、トーマの頭を膝へ乗せている。しかも、髪を撫でている。実に優しそうな顔で。
「…………」
マシューは、ゆっくりと目を細めた。血まみれの制服。全身の傷。意識を失ったトーマ。心配すべきことはいくらでもあった。どういうわけか。真っ先に胸の奥から込み上げてきたのは、別の感情だった。
「……すみません」
マシューが、口を開いた。
「……はい?」
シャルロッテが顔を上げる。
「……何しているんですか?」
「……へ?」
「……その膝」
マシューは、すっと指を向けた。
「……何?」
シャルロッテは自分の膝を見下ろした。そこには、ぐっすりと眠る少年の顔がある。
「ああ、この子?気ぃ失ってもうたから、うちが――」
「そうじゃなくて!」
マシューの声が裏返った。
「な、なんでキミの膝で寝てるのさ!」
「……は?」
シャルロッテは目を瞬いた。
「なんでって……倒れてきたから支えて、なんか、こうなったんよ」
「だったら地面に寝かせればいいじゃないか!」
「いやいや!地面に寝かせたら痛いやろ!」
「……っ!」
確かに、そのとおりだった。だが、納得できない。まったくもって、納得できなかった。
「返してください……」
マシューは、ずかずかと歩み寄った。
「トーマを返して!」
「……ええっ!?」
シャルロッテが驚く間もなく、マシューはその場へしゃがみ込んだ。
「ほら、こっち!」
トーマの肩へ腕を差し入れる。そのまま、シャルロッテの膝から引き寄せようとした。
「ちょ、ちょっと待ちぃ!」
「何さ!」
「なんか嫌や!これはうちらが見つけたんやからうちらのもんやろが!」
「「はぁ?」」
マシューとカイルは同時に声を上げる。
シャルロッテはトーマを渡してやらんとするように、抱きしめる。
「うちは人に返せって言われると嫌なるんや!こいつはうちが先に見つけたんやからうちらのもんやろが!」
「いやいやシャル…」
「黙っときぃ!!」
「ええ……」
カイルは困惑する。
「トーマは物じゃないもん!」
マシューは叫ぶ。
「だったらもう少し優しくしたれや!死にかけやぞこいつ!心配なんはわかるが感情の優先順位は決めとけや!」
「……っ!」
マシューの動きが止まった。シャルロッテは、呆れたように息を吐いた。
「ほら、頭支えたるから、そっち肩持って」
「……う、うん」
「せーので移すで。せーのっ」
二人は慎重にトーマの身体を持ち上げた。そして、マシューは自分の膝へトーマの頭を乗せた。
「…………」
ようやく。ようやく、落ち着いた。マシューは小さく息を吐いた。
「まったく、君は本当に」
トーマの顔を覗き込む。
そのとき、初めて気づいた。トーマの顔色が、ひどく悪い。額には擦り傷があり、頬にも血がこびりついていた。制服は無残に裂け、左肩には深い傷が残っている。
「…………」
マシューの表情が変わった。つい先ほどまで胸を占めていた嫉妬が、急速に冷えていく。
「トーマ?」
そっと頬へ触れる。返事はない。
「……ねえ」
もう一度、呼びかける。
「……トーマ?」
それでも、少年は目を開けなかった。
マシューは、慌てて首元へ指を当てた。脈がある。呼吸もしている。けれど、その身体はひどく弱っていた。
「……なんだよ、これ。こんなになるまで……キミは……」
マシューはトーマの肩へ手をかざした、指先に魔力を集めると淡い緑白色の光が灯り、小さな治癒術式が展開された。傷ついた皮膚へ光が染み込み、裂けた組織がゆっくりと修復されていく。
だがその速度は決して速くなかった。《天上の慈雨》によって浅い傷は塞がりつつあるものの、失われた血液や極度の疲労まで、すぐに取り戻せるわけではない。
「……もう」
マシューは唇を噛んだ。
「……なんで、こんな」
その姿を、カイルが不思議そうに見つめていた。
「さっきのやり取りを見るに、こいつの知り合いっすか?」
マシューは顔を上げた。
「……うん」
「友達?」
「……そうだよ……僕の、大切な友達」
カイルは頷いた。
「そうっすか」
それから、眠るトーマへ目を向ける。
「なら、よかったっす」
「……何が?」
「いやあ、こいつのこと、誰も知らなかったんすよ」
カイルは苦笑した。
「名前も、どこの国の奴かも、何であんなところで戦ってたのかも」
マシューの手が止まった。
「……あんなところ?」
「そうっす」
カイルは、森の奥へ視線を向けた。
「……すげえ奴だったっすよ」
その声には、素直な感嘆があった。
「俺っちたちが駆けつけたときには、もう何十匹もの魔物に囲まれてたんす。なのに、こいつ、一人で戦ってたんすよ」
マシューは、ゆっくりと顔を上げた。
「……一人で?」
「そうっす」
カイルは頷いた。
「剣振って、斧振って、蹴り飛ばして。もう何が何だかわかんねえくらい、めちゃくちゃに戦ってたっす」
「……でもな」
隣から、シャルロッテが口を挟んだ。
「ただ暴れとったわけやないんよ」
マシューが彼女を見る。シャルロッテは、少し真剣な顔をしていた。
「うち、弓使いやからわかるんやけど……あの子、ちゃんと周り見とった」
「……周り?」
「せや。魔物がどっから来るか、どこへ避けたら次の攻撃を受けへんか。そういうのを、全部考えて動いとったように見えたんよ」
カイルも頷いた。
「そうっすね。あれだけ囲まれてて、よく生き残ってたと思うっす」
マシューは膝の上のトーマを見下ろした。閉じられた瞼、泥に汚れた頬、小さく上下する胸。
そのすべてが、ひどく頼りなく見えた。
「……そんなこと」
できるはずがない。少なくとも、以前のトーマには。剣術の基礎すら、まともに身につけていなかったはずなのだから。
「……それにな」
シャルロッテが、続けた。
「あの子、《戦士の咆哮》を使っとったんやろ?」
マシューの指先が、ぴたりと止まった。
「…………え?」
「《戦士の咆哮》や」
カイルが答えた。
「共和国の氏族に伝わる魔法っす。俺っちたち、それを聞いたから助けに来たんすよ」
「……本当?」
「本当っす」
カイルは頷いた。
「魔物の敵意を一身に集める魔法でね。俺っちたちの国では勇士が敵を引きつけてる間に、俺っちたちがそいつらの背中を狙うんす」
マシューは、何も答えなかった。
「……でも、普通はあんな数、引きつけねえっすよ」
カイルは表情を曇らせた。
「俺っちたちが着いたときには、もう限界だったみたいっす」
「……そう」
「最後なんか、俺っちが助けに入った直後に『死ぬわ、これ』とか言って、そのままぶっ倒れちまったんすよ……いやあ、ほんと、肝が冷えたっす」
カイルは苦笑した。
マシューは笑わなかった。
膝の上のトーマを、じっと見つめていた。
《戦士の咆哮》。その名は、知っている。共和国の戦士の氏族に伝わる、特異な無属性魔法。
通常の術式構築では再現できない、血統に根ざした魔力の発現。
少なくとも、トーマが生まれながらに持っていた力ではないはずだった。ならば。どうして、使えたのか。
「…………」
マシューは唇を噛んだ。
脳裏に、ひとつの可能性が浮かぶ。
だが、その考えを振り払うように、ゆっくりと首を振った。今は、そんなことを考えている場合ではない。
まずはトーマを助けなければ。
マシューは再び治癒術式へ魔力を流し込んだ。淡い光が、トーマの身体を包む。
「……ねえ」
小さく、声をかける。
「……キミさ」
眠るトーマは、何も答えない。
「……僕に、気をつけて行けって言ったじゃないか」
マシューの声が、震えた。
「……なのに、自分はこんなになるまで戦って」
治癒術式が、輝く。
「……馬鹿だよ、ほんと」
そっと、トーマの髪を撫でた。
「……大馬鹿者」
その様子を、シャルロッテがじっと見つめていた。
「……なあ、カイル」
「何すか?」
「……あの二人、ほんまに友達なん?うちの耳がビンビンに友達以外の可能性をささやいてるんだやけど」
「……さあ?」
カイルは首を傾げた。
「俺っち、どっちとも今日初めて会ったっすから」
「……せやけど」
シャルロッテは、マシューの顔を覗き込んだ。
その横顔は、どこか必死だった。今にも泣き出しそうなのに、決して泣こうとはしない。その表情を見て、シャルロッテは少しだけ口元を緩めた。
「……なあ、あんた」
「……何さ」
「さっき、うちの膝からあの子を奪い取ったやろ?」
「……っ!」
マシューの肩が跳ねた。
「ご、ごめんさい。気が動転してたんだ。トーマを助けてくれてありがとう」
「いや、別にええんやけどな」
シャルロッテは、にやりと笑った。
「……そんなに取られるんが嫌やったん?」
「!」
マシューの顔が、みるみる赤くなっていく。
「ち、違うよ!」
「何が?」
「そういうんじゃない!」
「そういうんって、どういうん?」
「……っ!」
言葉に詰まった。シャルロッテは、ますます楽しそうに笑った。
「……へえ?」
「……な、何さ!」
「いやいや、別に?」
狐耳が、ぴくりと動く。
「えらい大事な友達なんやなぁーって、思っただけよ?ほんとそれだけ」
マシューは、真っ赤になった顔を背けた。
「……当たり前だろ……大切に決まってるじゃないか」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。だが、シャルロッテには聞こえていたらしい。彼女は一瞬だけ目を丸くした。それから、何も言わずに微笑んだ。
「……そっか、ええやん」
そう答えると、ゆっくりと立ち上がった。
「ほんなら、その子のこと頼むで」
「……うん」
「うちら、他ん所手伝ってくるさかい」
「ありがとう」
マシューが答えると、シャルロッテは片手をひらひらと振った。
「ええって、ええって、ええもん見せてもろたわ」
そして、カイルの方へ向き直る。
「ほら、カイル。行くで」
「了解っす!」
二人は近くにいた共和国の生徒たちへ声をかけながら歩いていった。その背中を見送りながら、マシューは小さく息を吐いた。
「……まったく」
もう一度、膝の上のトーマを見下ろす。
「……キミって奴は」
髪へ触れる、指先に伝わる温もり、確かな呼吸。
それを確かめるたびに、胸の奥の強張りが少しずつ解けていく。……生きてる。ちゃんと、生きてる。それだけで、十分だった。
いや。本当は、それだけで十分だと思わなければならないのだろう。マシューは、目を伏せた。
「……ねえ、トーマ」
眠る少年へ、そっと語りかける。
「……僕さ」
そこで言葉が止まった。
言いたいことはいくらでもあった。
どうして一人で戦ったのか。どうして逃げなかったのか。どうして、あんな無茶をしたのか。どうして、自分を置いていったのか。
けれどそのどれも口にはできなかった。トーマが何のために戦ったのか、マシューにはわかっていたから。
「……ほんと、ずるいよ」
小さく呟いた。
「……そんなことされたら」
膝の上の少年は穏やかな寝息を立てている。
マシューは、その額へそっと手を置いた。治癒の光が、再び淡く灯る。
「……僕は、どうしたらいいのさ」
誰にも聞こえないほどの小さな声だった。
夜の森には、まだ勝利の歓声が響いていた。共和国の生徒たちが笑い合い、神聖国の騎士たちが負傷者を運び出している。空には、最後の光の粒が舞っていた。
その輝きの下で、マシューはトーマの頭を膝に乗せたまま、治癒魔法をかけ続けていた。
まるで、その温もりを。二度と手放したくないと願うように。長かった夜が、ようやく明けようとしていた。
中央拠点を包む《穢れなき聖域》の内側には、負傷者を収容するための天幕がいくつも設けられていた。
神聖国の治癒魔導士たちは夜通し手当てに追われ、今も天幕の間を忙しく行き来している。
その一角にトーマも運び込まれていた。
泥と血にまみれた制服は脱がされ、傷口には新しい包帯が巻かれている。治癒魔法によって外傷の大半は塞がったものの、失われた血や体力までは戻らない。寝台に横たえられたトーマは、時折苦しそうに息をするばかりで、まだ一度も目を覚ましていなかった。
傍らでは、マシューが濡れた布を絞っていた。
額に浮かんだ汗を拭いながら、小さく呟く。
「僕にはあんなに偉そうなことを言っておいてさ」
返事はない。
マシューは布を畳み直し、トーマの顔を覗き込んだ。頬には擦り傷が残り、唇もひどく乾いている。左肩に巻かれた包帯には、うっすらと血が滲んでいた。昨夜、共和国の生徒たちに助けられたときのことを思い出す。
見知らぬ狐人の少女の膝で、ぐっすりと眠っていたトーマ。あの光景には我ながら随分と腹を立ててしまった。
けれど、そんな些細なことに腹を立てられるのも、彼が生きているからだった。
「……馬鹿」
毛布から覗く手を、そっと握る。
「帰ってきたなら、ちゃんと目を開けてよ」
その声が届いたのか、トーマの指先が僅かに動いた。
「……トーマ?」
マシューは身を乗り出した。
だが、それきりだった。
トーマは薄く唇を開いたまま、静かな寝息を立てている。しばらく顔を見つめていたマシューは、やがて小さく息を吐いた。
「心配ばっかりさせて」
握っていた手を毛布の中へ戻し、寝台の傍らに腰を下ろす。
夜が明ける。
第六章 死線の先へ 了




