第六章
カイルが顔を上げると、何かが降ってきた。雨とは違う、小さな光だった。
白金色の淡い光。それがひとつ。またひとつ。夜空からゆっくりと舞い降りてくる。
「……なんすか、これ」
カイルは手を伸ばして触ると、掌へ小さな光が触れる。
温かかった。それだけではない。先ほど魔物の爪で傷ついた腕から、痛みが引いていく。
「……え?」
カイルは、思わず自分の腕を見つめた。制服に滲んでいた血が、止まっている。
「回復魔法?初めて見る魔法っすねぇ」
周囲を見渡す。同じことが、あちこちで起きていた。負傷した共和国の生徒。盾を構えた騎士。倒れかけていた兵士。その身体へ、優しい光が降り注いでいる。
「――ギィィィィッ!!」
目の前の魔物が、突然悲鳴を上げた。
「……うおっ!?」
後ずさる。
魔物の身体へ触れた光が、白い煙を上げていた。皮膚が焼け、黒い血が滴る。さらに、次々と光が降り注ぐ。まるで、天から無数の針が降ってくるかのように。
「……なんや、これ」
背後からシャルロッテの声がした。カイルは振り返る。少女は意識を失った少年を抱えたまま、空を見上げていた。
「……きれいやなぁ」
彼女の腕の中に横たわる少年の身体へも光が降り注いでいる。傷口を包むように、血に濡れた頬を優しく撫でるように、白金色の輝きが舞い降りていた。
「よかったなぁ……」
シャルロッテは、小さく呟いた。少年の髪を、そっと撫でる。
「……あんた、まだ死なんで済みそうやで」
返事はなかった。けれど、その呼吸は、先ほどよりも少しだけ落ち着いていた。
「――カイル!」
共和国の生徒の一人が叫んだ。
「見ろ!あいつらが!」
カイルは森の奥へ目を向けた。
三体の死鎌。
先ほどまで、遠くからこちらを見つめていた黒衣の魔物たち。その身体へも、光が降り注いでいた。
黒い外套から白い煙が立ち昇り、紫黒色の魔力が激しく渦巻き始めた。
モルティスの一体がゆっくりと鎌を持ち上げる。もう一体も同じように、そして三体目が顔のない頭部を空へ向けた。
カイルは、短剣を握り直した。その顔には、僅かな笑みが浮かんでいた。
「……あいつらにも、効いてるみたいっすね」
周囲の共和国生徒たちが、次々と武器を構える。傷ついた身体へ、光が降り注ぐ。
誰一人として気を緩める者はいなかった。まだ戦いは終わっていない。カイルは、背後を振り返った。シャルロッテの腕の中で眠っている少年を見る。
つい先ほどまで、この少年はたった一人で戦っていた。
誰の助けも借りず何十体もの魔物を相手に、それが今は共和国の生徒たちが彼を守っている。
神聖国の騎士たちが、援軍として駆けつけてきている。そして、天からは、慈悲の光が降り注いでいた。
「……へへ」
カイルは、小さく笑った。
「……よかったっすね、勇士殿……もう、一人じゃねえっすよ」
白金色の光が、夜の森を照らしていた。
その輝きの下で、共和国の生徒たちは盾を並べ、槍を構える。彼らの背後には、名も知らぬ少年がいた。戦士の咆哮を放ち、自らの命を賭して人々を守ろうとした少年。
共和国の誰もが知る古い掟。
勇士が吼えたなら、その声に応えよ。勇士が敵を引き受けたなら、その背後へ刃を振るえ。必ず、生きて連れ帰れ。それは、戦士が独りで死ぬことを称える教えではなかった。
死地へ赴いた仲間を、決して独りにはしないという誓いだった。
「……さあて」
目の前には、三体の死鎌。その周囲には、まだ数多くの魔物が蠢いている。しかし、もはや恐れる理由はなかった。
カイルは声を張り上げた。
「……宴の主役は、確保したっす!あとは、俺っちたちの仕事っすよ!!」
カイルの声に応じ、共和国の生徒たちが鬨の声を上げた。その頭上では、《天上の慈雨》によって生み出された巨大な魔法陣が、なおも白金色の光を放っていた。光の雨が、森へ降り注ぐ。
傷ついた兵士たちはその光に癒やされ、魔物たちは身を焼かれて悲鳴を上げた。
「――押し返せ!」
「槍兵、前へ!」
「弓兵は残った魔物を狙え!」
共和国の生徒たちが一斉に攻勢へ転じた。
先ほどまで一人の少年へ殺到していた魔物たちは、今やその勢いを失いつつあった。
光の雨によって傷つき、共和国の生徒たちに側面から攻撃され、さらに神聖国の騎士たちによって退路を断たれていく。
もはや、戦場の趨勢は明らかだった。
「……おい」
カイルはふと森の奥へ視線を向けた。
三体の死鎌。先ほどから遠巻きに戦況を眺めていた黒衣の魔物たちが、ゆっくりと動き始めていた。
「……来るんすか?」
短剣を握り直す。
周囲の生徒たちも、その異様な気配に気づいたらしい。槍が構えられ、弓が引き絞られる。
しかし、死鎌たちは襲いかかってこなかった。
三体のうち、一体が顔のない頭部を持ち上げた。光の雨が漆黒の外套へ降り注ぐ。白い煙が立ち昇り、布地が焼けるように崩れていく。
だが、その損傷はすぐさま紫黒色の魔力によって修復されていた。修復しては焼かれ、焼かれては修復する。その繰り返しだった。
「さっきから効いてはいるみたいっすね」
カイルが呟いた。すると、死鎌の一体が鎌を持ち上げた。
「――っ!」
カイルが身構える。だが、振り下ろされることはなかった。大鎌はゆっくりと下ろされ、死鎌はその身を翻した。
「……あ?」
続いてもう一体、さらに最後の一体も、三体の死鎌が次々と森の奥へ向き直った。
「……なんや?」
シャルロッテが顔を上げる。その膝には、依然として意識を失った少年が横たわっていた。
「あいつら、どないしたん?」
「……わかんねえっす」
カイルは慎重に答えた。死鎌たちはゆっくりと森の奥へ進み始めた。
まるで戦場への興味を失ったかのように。
しかしそのうちの一体が、不意に立ち止まった。漆黒のフードが、こちらへ向けられる。いや。正確には、カイルの背後。シャルロッテの膝で眠る少年へ。
「…………」
顔のない魔物が何を考えていたのかはわからない。
ただ、その奇妙な沈黙に、カイルは背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。そして、次の瞬間。死鎌はゆっくりと向き直り、木々の間へ姿を消した。
残る二体も、それに続く。黒い外套が夜の闇へ溶け込むように薄れていき、やがて完全に見えなくなった。
「……行った?」
共和国の生徒が呟いた。
カイルは、しばらく森の奥を見つめていた。
「……行ったみたいっすね」
誰も、すぐには武器を下ろさなかった。死鎌が再び現れるかもしれない。その警戒が、全員の身体を強張らせていた。
しかし、いくら待っても黒衣の魔物たちは戻ってこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、残された魔物たちの悲鳴だった。光の雨によって負傷し、戦意を失った獣たちが、次々と森の奥へ逃げ込んでいく。
神聖国の騎士たちは無理に追撃せず、結界へ通じる道の安全を確保し始めた。
「……敵が」
誰かが、呟いた。
「……敵が退いていくぞ!」
その声を聞いて周囲の兵士たちが顔を上げた。確かに魔物の姿が減っている。先ほどまで無数の敵に埋め尽くされていた森に、少しずつ静けさが戻り始めていた。
「……勝った?」
若い共和国の生徒が、呆然と呟いた。その問いに答えるように、神聖国の騎士が大剣を掲げた。
「――魔物どもが退いたぞッ!!」
その声が、夜の森を駆け抜けた。
「――我らの勝利だッ!!」
場が静まり返った。
「――うおおおおおおおおッ!!」
凄まじい歓声が上がった。共和国の生徒たちが武器を掲げる。神聖国の騎士たちが剣を打ち鳴らす。互いに肩を叩き合い、抱き合い、声を張り上げる。
「やったぞ!」
「生き残った!」
「勝ったんだ!俺たちが!」
歓声は森の奥から中央拠点へ、さらに結界の向こう側へと広がっていった。傷ついた兵士たちも、救護にあたっていた生徒たちも、誰もがその声を聞いた。戦いは終わった。少なくとも、この夜の襲撃は退けたのだ。
「……はぁぁぁ」
カイルは、大きく息を吐いた。張り詰めていた緊張が、ようやく解けていく。
「……なんとか、生き残ったっすね」
そう言って、シャルロッテを振り返った。少女は、まだ少年の頭を膝に乗せていた。
「……シャル」
「ん?」
「……そいつ、大丈夫そうっすか?」
「うん。呼吸も落ち着いとるし、傷もだいぶ塞がってきたわ」
シャルロッテは、少年の額にかかった髪を指で払った。
「……ほんま、よう頑張ったなぁ」
その声は、いつになく優しかった。
「せやけど、あんたいったい何者なんやろな」
当然、返事はない。ただ、少年は穏やかな寝息を立てていた。そのときだった。




