第六章
中央拠点。《穢れなき聖域》の内側では、二人の少女が向かい合っていた。ひとりは、聖女セレスティア・ルーメンハルト。もうひとりは、フィオナ・エル・セラフィス。
フィオナの足元には、すでに幾重もの魔法陣が展開されていた。淡い青白色の光が、彼女の周囲をゆっくりと巡っている。
しかし、その表情は険しかった。
「……セレスティア様、本当によろしいのですか?」
フィオナは、不安そうに尋ねた。
「結界を維持しながら、私の術式を補助するなんて……」
セレスティアは、微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
「……ですが」
「フィオナ」
聖女は、彼女の手をそっと握った。
「あなたは、今まで何度も魔法の術式を組み上げてきましたね」
「……はい」
「構築そのものは、もう十分にできているはずです」
「……でも、魔力が」
「ええ、そうですね。そこがはまだ足りませんね」
フィオナは、悔しそうに唇を噛んだ。セレスティアは少しだけ笑った。
「ですから、私が補います」
「……っ」
「あなたは術式の制御に集中してください」
フィオナは顔を上げた。
「……でも、セレスティア様は結界を維持されているのですよ?」
「ええ」
「そんな状態で私へ魔力を分け与えたら、お身体が……!」
セレスティアは少し考えるように首を傾げた。
「……んー根性です!」
「…………へぇ?」
フィオナは目を瞬いた。
「……今、なんと?」
「だから、根性です」
セレスティアは、にっこりと笑った。
「……こ、根性?」
「はい」
その返答は、驚くほど真面目だった。
「魔法の理論も、術式の精度も、もちろん大切です。ですが、それだけではどうにもならない場面もあります」
「……は、はあ」
「そういうときは最後に少しだけ根性で頑張るのです。偉大な人は言いました、迷わず行けよ、行けばわかるさ、と」
「…………」
フィオナは、ぽかんと口を開けた。まさか、アウレリア神聖教導国の聖女から、そのような言葉が出てくるとは思わなかった。
「ふふっ……冗談ですよ」
「も、もう!」
フィオナは思わず声を上げた。
「こんなときに、からかわないでください!」
「ごめんなさい、でもフィオナったらほぁって、ほあって口になっていましたよ」
セレスティアは、申し訳なさそうに微笑んだ。それから、真剣な表情へ戻った。
「心配しないでください。私も、自分の限界は承知しています」
「……はい」
「決して、無理に魔力を流し込むわけではありません。私が術式の一部を受け持ち、あなたの負担を軽くします、軽くするだけです」
セレスティアは、白銀の杖を掲げた。その先端に、淡い光が灯る。
「ただし、結界を維持しながらですから、私にも多少の負担はかかるでしょう、ですから」
聖女が、フィオナをまっすぐ見つめた。
「あなたに、お願いしたいのです」
フィオナの瞳が揺れた。
「……私に?」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
「どうか、あの方々を助けてください」
その視線の先には、結界の外に広がる戦場があった。共和国の生徒たち。神聖国の騎士たち。そして、その中心で倒れた、一人の少年。彼らは今も、必死に戦っている。
誰かを守るために。誰かを生かすために。ならば、自分たちにもできることがある。
フィオナは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
そして、手にした杖を握り直した。
「……やります」
セレスティアが微笑む。
「ええ。お願いしますね」
その瞬間。二人の足元に展開されていた魔法陣が、強く輝き始めた。
フィオナは、ゆっくりと目を閉じた。大きく息を吸い、詠唱を始めた。
「――天穹に満ちる、清廉なる光よ」
淡い粒のような光が、杖の先端へ集まり始める。
「――万象を照らし、闇を退ける聖なる輝きよ」
フィオナの足元に広がる魔法陣が、ゆっくりと回転を始めた。その外周に、新たな術式が浮かび上がる。ひとつ。また、ひとつ。幾重もの円が重なり合い、精緻な紋様を描いていく。
「……っ!」
フィオナの表情が歪んだ。術式の規模が、想定を超えていた。
広すぎる。戦場全体を覆うには、これまで訓練で扱ってきた魔法陣とは比較にならないほどの魔力が必要だった。
杖を握る指先が震える。呼吸が乱れそうになる。そのとき、背後から、温かな光が流れ込んできた。
「大丈夫、何も問題ないのよフィオナ」
聖女は、フィオナの背へそっと手を添えた。
「焦らず、ひとつずつ組み上げていきましょう」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「あなたならできます、根性です」
フィオナは、小さく頷いた。
「……はい!」
再び、詠唱を続ける。
「――傷つきし者へ慈悲を、穢れし者へ浄化を」
魔法陣が、さらに大きく広がった。結界の内側から、白金色の光が立ち昇る。その光は細い柱となり、夜空へ向かって伸びていった。周囲の騎士たちが、顔を上げる。
「……何だ、あれは」
「……魔法陣?」
「いや、あんなもの……!」
光の柱が、上空で弾けた。夜空に、巨大な魔法陣が姿を現した。その大きさは、中央拠点を覆う結界を遥かに上回っていた。幾重もの円環がゆっくりと回転し、その内側には無数の術式が刻まれている。
白金色の光が、辺り一帯を照らし出した。その輝きで夜の森は一瞬だけ昼のように明るくなった。
「……すごい」
誰かが呟いた。だが、術式はまだ完成していない。フィオナは額に汗を浮かべながら、必死に魔力を制御していた。
「……くっ!」
杖を握る指が、白くなる。魔力が足りない。あと少し。あと、ほんの。
「……セレスティア様!」
「はい!」
「……もう少しだけ、お願いします!」
セレスティアは頷いた。だが、その顔からはすでに血の気が失われつつあった。結界を維持するための魔力。フィオナへ供給する魔力。二つの大規模術式を同時に支える負荷は、想像以上だった。
聖女は、笑った。
「もちろんです!」
額から、一筋の汗が流れ落ちる。
「……これこそが」
フィオナを支える手に、僅かに力を込めた。
「……根性です!」
「……っ!」
フィオナは、笑ってしまった。こんな状況だというのに。そんな言葉で励まされるとは。
「……はいっ!セレスティア様!」
彼女は、杖を高く掲げた。
「――天より降り注げ、慈悲と裁きの光!」
魔法陣が、ひときわ強く輝いた。
「――《天上の慈雨》!!」
夜空が、白く染まった。




