第六章
――交わる軍旗――
ヴァルクレイン帝国とローデン王国が受け持っていたのは、中央拠点の西側に広がる防衛区域だった。本来、両国の部隊はそれぞれ独立して配置される予定だったが、もはやその区分は意味を失いつつあった。
森から溢れ出した魔物たちは国籍などお構いなしに襲いかかってくる。獣型の魔物に追われた帝国の生徒が王国の陣へ逃げ込み、反対に王国の騎士が帝国の重装兵に救われることもあった。
帝国の赤い軍旗と、王国の青い軍旗。二つの旗の下にいた兵士たちは、いつの間にか入り交じって戦っていた。もっとも、積極的に協力を選んだというより、そうせざるを得なかったという方が正しい。指揮系統の異なる部隊が入り乱れ、号令は錯綜し、兵士たちは目の前の敵を退けるだけで精一杯だった。
その混乱の中にあって、比較的統制を保っている一団があった。
「――リディア! 右手の林から三体、そちらへ向かっています!」
「承知しました!」
レオンハルト・フォン・クラウンベルク。ヴァルクレイン帝国七冠のうち一冠を預かる、クラウンベルク家の嫡男、レオンハルトは幼いころより親交のあった王国の少女と共この窮地を脱するために奮闘していた。レオンハルトの声に、青い外套のその少女が応じた。
リディア・エル・アズール。ローデン王国の名門侯爵家に生まれた彼女は、剣を構え直すと、迫る魔物へ躊躇なく踏み込んだ。鋭い斬撃で先頭の一体の前脚を断ち、体勢を崩したところへ剣を突き立てる。
「ミレイユ! 後方を!」
「はいっ!」
返事とともに長槍が突き出された。
ミレイユ・ラ・フォルジュ。王国の下級騎士家に生まれた少女で、リディアの背後を守るように立っていた。身に纏う鎧は質素で、貴族の令嬢たちのような装飾もない。だが、その槍捌きは確かだった。突進してきた魔物の胸元へ穂先を突き入れ、勢いを利用して横へ逸らす。
「リディア様、もう一体!」
「見えています!」
リディアが剣を返す。しかし、その瞬間、木々の陰からさらに二体の魔物が飛び出してきた。
「――っ!」
彼女が身構えるより早く、横合いから重厚な騎兵槍が突き出された。穂先は魔物の胴を貫き、そのまま地面へ叩き伏せる。
「少々、前に出すぎではなくて?」
凛とした声とともに現れたのは、クラウディア・フォン・ローゼンフェルトだった。帝国の武門貴族に生まれ、騎兵戦術を専門とする士官候補生である。
彼女は槍を引き戻し、足元の魔物を一瞥してからリディアへ目を向けた。
「貴女が倒れれば、王国側の指揮は誰が執るつもりなのかしら」
「……ご忠告、感謝いたします」
リディアは剣の血を払った。
「ですが、貴女も随分と前へ出ているように見えますが」
「私は後方の兵を守るために出たのです」
「私も同じです」
「……相変わらず、口の減らない方ね」
「お互い様でしょう」
二人は一瞬だけ視線を交わし、どちらからともなく笑った。帝国と王国、それぞれの武芸の名門に生まれた二人は、学園で幾度も剣を交え、騎兵戦術の演習でも競い合ってきた。今はその二人が肩を並べている。
「……仲がよろしいですわね、お二人とも」
背後から呆れたような声が聞こえた。
エリシア・フォン・クラウンベルクだった。
魔道に優れた彼女が、淡い金髪を揺らしながら魔導杖を掲げる。
「ですが、今は模擬戦ではありませんのよ」
足元に緑の魔法陣が展開された。
「――《風刃》!」
放たれた風の刃が木々の間を駆け抜け、リディアたちの側面へ回り込もうとしていた魔物を斬り伏せた。
「助かりました、エリシア」
「礼には及びませんわ。それよりも……お兄様!」
エリシアは少し離れた場所にいたレオンハルトへ顔を向けた。
「このままでは、いずれ押し切られます」
「……そうだね」
レオンハルトは静かに頷いた。普段の穏やかな表情にも、今は余裕がない。
帝国の重装兵も、王国の騎士たちも、決して弱くはない。だが敵の数が多すぎた。しかも、ここは森だ。重装兵がまとまった隊列を組むには木々が邪魔になり、騎兵も本来の機動力を発揮できない。クラウディアでさえ、今は騎兵槍を徒歩で扱っている。
「クラウディア」
「はい」
「後方の通路は確保できていますか?」
「今のところは。ただし、負傷者の搬送が追いついていません」
「ミレイユ」
「はいっ!」
「王国側の負傷者は?」
「動けない方が七人。歩ける方も含めれば、もっといます」
レオンハルトは眉を寄せた。
「……帝国側と合わせれば、二十人近いか」
「あの、レオンハルト様」
「何でしょう」
「王国の負傷者だけではありません。帝国の兵士の方も何人か倒れています。けれど、王国の救護班では勝手に運ぶわけにはいかないと言われてしまって……」
少し言いにくそうに告げるミレイユを、レオンハルトは見つめた。
「……なるほど。ですが、そのような区別は不要です」
「……え?」
「帝国の兵士であろうと、王国の兵士であろうと、負傷者であることに変わりはありません」
彼は周囲へ声を張り上げた。
「帝国の者は聞いてください! これより王国の救護班と協同して負傷者を搬送します! 所属による区別は設けません!」
数人の帝国兵が顔を上げた。
「……しかし、レオンハルト様」
「何か問題が?」
「い、いえ……」
「救護に国境を持ち込む余裕など、今の我々にはありません」
リディアもすぐに声を上げた。
「王国の者も同様です! 帝国の兵士であっても、負傷しているなら救助しなさい!」
「はいっ!」
ミレイユは顔を明るくし、負傷者のもとへ駆けていった。クラウディアはその背を見送って小さく笑う。
「……随分と気前がよろしいこと」
「合理的な判断をしただけですよ。それに、戦場で倒れた人間の出自を調べている暇などありませんから」
「……違いありませんね、次が来ますわよ!」
木々の奥で、無数の赤い瞳が揺れていた。
戦況は時間とともに悪化していった。帝国と王国の兵士たちは互いの隙間を埋めるように戦っていたが、倒れた魔物の屍を踏み越え、次の群れが押し寄せてくる。
「――左翼、後退!」
「待て! 帝国兵がまだ残っている!」
「負傷者を先に運べ!」
「槍兵、前へ! 前へ出ろ!」
怒号が飛び交う中、ミレイユは負傷した帝国兵を背に庇っていた。突き出した長槍が魔物の胸を貫く。しかし、穂先が骨に食い込み、抜けなくなった。
「……しまっ!」
魔物が暴れ、槍ごと身体を引かれる。その瞬間、横から青い影が飛び込んできた。
「――ミレイユ!」
リディアの斬撃が魔物の首を断ち、身体が地面へ崩れ落ちる。
「大丈夫ですか!」
「は、はい!」
「槍に執着してはいけません! 抜けなければ、手放す判断も必要です!」
「申し訳ありません!」
「謝罪は後です。まずは生き残りなさい!」
ミレイユは大きく頷いた。
そのときだった。
――オオオオオオオオオッ!!
森の奥から、一声の咆哮が響いた。
「――っ!?」
リディアの足が止まる。ミレイユも思わず顔を上げた。
獣の雄叫びにしては、あまりにも人間らしい。だが、人間の声だと思うには異様だった。単なる怒号でも、悲鳴でもない。自らの命を賭して、目に見えない何かへ挑みかかるような、凄まじい叫びだった。
「……今のは、人の声……?」
答える者はいなかった。代わりに、目の前の魔物がぴたりと動きを止めた。
「……え?」
ミレイユへ飛びかかろうとしていた獣が顔を背け、何の前触れもなく走り去っていく。続いてもう一体、さらに一体。帝国と王国の兵士を襲っていた魔物たちが、次々と同じ方角へ向きを変えた。
「……どういうことですの?」
エリシアは魔導杖を構えたまま、遠ざかっていく魔物を見送った。
「……退却?」
ミレイユが呟くと、レオンハルトが首を振った。
「違います。逃げているようには見えません」
魔物たちの動きには、恐怖に駆られた獣とは違う、不自然な一貫性があった。目の前の敵を捨て、倒れた仲間を踏み越え、ただ一つの方向へ向かっている。
「……神聖国の方角ですわね」
クラウディアが見つめる先には、中央拠点正面へ続く森があった。先ほどの咆哮も、確かにあちらから聞こえてきた。
「何かが、あちらにいるのでしょうか」
「……わかりません」
レオンハルトの表情は険しかった。
「ただ、一つ確かなことがあります」
「何でしょう?」
「今、我々は攻撃されていない」
周囲を見渡すと、先ほどまで魔物に囲まれていた兵士たちが呆然と立ち尽くしていた。剣を振り上げたままの者、盾を構えて警戒する者、互いに顔を見合わせる者。戦場から敵の姿が消えつつある。
「……好機ですね」
レオンハルトは即座に剣を掲げた。
「――全隊、攻撃中止! 去っていく魔物を深追いしてはいけません! 負傷者の収容を最優先とします!」
クラウディアも頷く。
「帝国第三小隊! 防御陣形を維持しなさい! 周辺警戒を怠らないように!」
「王国の騎士たちも聞きなさい! 戦える者は負傷者を捜索! 動けない者を優先して結界へ運びます!」
リディアの号令も次々と伝わっていった。
ようやく訪れた、戦場の空白。彼らはその短い時間を逃さなかった。




