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第五章

 死を覚悟した、勝てるはずがない。

 目の前にいるのは、三体の原典魔種(オリジン)。

 通常の剣では決定的な傷を与えられず、魔法による攻撃すら効果がなかった。

 どれほど優れた騎士であろうとも、一人で相手にするにはあまりにも分が悪い。

 ましてや、俺はただの平民だ。

 戦場で名を上げたわけでもなければ、名門の剣術を修めたわけでもない。

 そのはずだった。

 なのに。

 どうしてだろう。

 剣を握る手は、少しも迷っていなかった。

 恐怖はあった。全身が震え、心臓は早鐘を打っている。

 しかし、それとは別に。身体の奥底で、何かが目を覚まそうとしていた。

 ――死ぬのか。

 不意に、声が聞こえた。

「……っ?」

 頭の中だった。耳から聞こえた声ではない。

 意識の奥底から直接響いてくるような、奇妙な声。

 ――お前は、ここで死ぬのか。

「誰だよ」

 答えはない。

 ただ、声は続いた。

 ――お前が死ねば仲間も死ぬぞ

 俺は思わず視線を移した。

 遠ざかる馬とその背にしがみつくマシュー。

 そして、森の向こうに広がる金色の結界。

 そこには大勢の人間がいた。

 傷ついた兵士、泣き叫ぶ生徒。

 ただ、生きて朝を迎えたいと願う者たち。

 ――戦え

 ――お前は、戦士だ。

「……俺は」

 言葉が止まった。

 俺は、誰だ。

 トーマ。

 ただのトーマだ。

 頭の奥で何かが軋んだ。脳裏に、見知らぬ光景が浮かぶ。

 赤茶けた大地と空へ立ち昇る巨大な篝火。荒々しい毛皮を肩にかけ、剣や斧を携えた戦士たち。誰もが大きく笑っていた。

 強大な敵を前にしているというのに、恐怖の色など微塵もない。

 むしろ、彼らは歓喜しているようだった。戦うことを。己の力を振るうことを。その身をもって敵を打ち砕くことを。心の底から喜んでいる。

 そして、その中心には一人の男が立っていた。誰よりも大きな背中。

 無造作に下ろされた巨大な戦斧。

 その男が、ゆっくりと振り返る。顔は見えなかった。

 しかし、なぜか。

 その姿が、ひどく懐かしかった。

 男が口を開く。

 ――お前は戦士だ。

 低い声だった。

 ――戦士とは戦う者だ。

 次の瞬間、景色が掻き消えた。目の前には、三体の死鎌(モルティス)。

 大鎌が持ち上がる。

 そして俺は理解した。いや、理解したというよりも思い出したと言うべきなのだろう。

 何をすればよいのか。

 どうすれば、この場にいる者たちを救えるのか。

 その答えを、俺の身体は知っていた。


 


 胸の奥で、炎が燃え上がった。

「……ッ!」

 熱い。血が、熱い。

 心臓から送り出された血液が、全身へ炎を運んでいくようだった。

 指先が熱を帯び、背筋が震える。呼吸が深くなる。

 全身の筋肉が、何かを待ち望むように強く収縮した。

 不思議な感覚だった。恐怖が消えたわけではない。疲労がなくなったわけでもない。傷が癒えたわけでもない。むしろ、そのすべてが鮮明になっていく。

 頬を伝う汗。

 何もかもが、はっきりと感じられた。戦意が、際限なく高まっていく。

 今すぐ敵へ踏み込みたい。この腕で剣を振るい、あらゆる障害を打ち砕きたい。

 力を、振るいたい。目の前の理不尽を、力によってねじ伏せたい。

 心の奥底から湧き上がる衝動は、もはや抑えようがなかった。

 やがて、その熱が喉元へ達したとき。

 俺は、自然と口を開いていた。

 ――戦え

 ――忘れるな

 ――戦いの先にお前はいるのだから

 頭の中に響く声などもうどうでもよかった

 長い年月をかけて何度も繰り返してきたかのように、俺の身体はその発動方法を知っていた。

 大きく息を吸い、肺を限界まで膨らませ、全身に力を入れる。

 そして。

「オオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアア!!」

 吼えた。それは雄叫びだった。

 恐怖を振り払うための叫びでも、敵を威嚇するための怒号でもない。

 戦場に立つすべての敵へ、自らの存在を知らしめるための咆哮。

 魔法陣は無く、詠唱も術式の展開もない。

 ただ、俺の声が森へ響き渡った。

 しかし、その瞬間戦場の空気が、一変した。


 


 《戦士の咆哮(バトルクライ)》。

 それは学術的には無属性魔法に分類されながら、現代の魔導体系ではほとんど解明されていない、極めて特異な魔法だった。

 通常、魔法は術式の理解と魔力制御の訓練によって習得される。

 才能による差はあるものの、適切な知識と鍛錬さえ積めば、誰もが一定の魔法を扱えるようになる。

 しかし、《戦士の咆哮(バトルクライ)》は違う。後天的な修練によって会得することはできない。

 どれほど優れた魔導士であろうとも、模倣することは不可能とされていた。何故なら術式などないからだ。

 共和国に、戦いを生業とする一族があった。

 その民は屈強な肉体と類い稀なる戦闘の才を持ち、幾多の戦場で恐るべき武勇を示したという。

 なかでも、族長の血を引く者たちは特別だった。

 生まれながらに戦士としての素質を備えた者の中に、ごく稀に、奇妙な力を発現させる者がいたのである。

 それこそが《戦士の咆哮(バトルクライ)》だった。

 効果は単純にして、絶大。術者の存在を、周囲にいる敵対者の意識へ強制的に刻み込む。

 一定以下の知能しか持たない魔物は、その咆哮を聞いた瞬間、他のすべてを忘れて術者へと襲いかかる。

 逃げる人間を追っていた魔物も、兵士と戦っていた魔物も。

 その意識は、たった一人へと集中する。

 高度な知能を有する相手には効果が薄れるものの、それでも一瞬、あるいは数秒にわたり注意を引きつけることができた。

 戦場において、その僅かな隙がどれほど大きな意味を持つかは、言うまでもない。

 しかし、この魔法には致命的な欠点があった。敵の攻撃が、術者へ集中するのである。

 十体の敵がいれば、十体すべてが。百体の敵がいれば、百体すべてが咆哮を放った戦士ただ一人を、殺そうとする。

 つまり、これは敵の攻撃を一身に引き受けるための魔法だった。

 自ら進んで袋叩きにされるための力である。

 あまりにも非合理的。

 あまりにも無謀。

 かつてその魔法を研究した魔導士たちは、口を揃えてそう評したという。

 だが、戦士の一族は笑った。

 何を愚かなことを、と。

 敵が自分へ向かってくるのならば、それでよい。

 戦士とは戦う者だ、ならば何を恐れる必要がある。

 迫りくる敵を、すべて打ち砕けばよいだけのことではないか。

 力には、力を。理不尽には、それを上回る理不尽を。

 十の敵が来るのなら、十を討て。

 百の敵が来るのなら、百を薙ぎ払え。

 それでもなお戦え。

 戦士とは、そういうものなのだ。

 戦場において、最も危険な場所へ自ら進み出る者。仲間のために戦うその誇りこそが、戦士の本質である。

 ゆえに《戦士の咆哮(バトルクライ)》は、決して愚かな魔法ではなかった。

 それは戦場における、ひとつの誓いだったのである。

 ――我決して退かず、我決して負けず

 そう宣言するための、戦士の魔法。

 それが《戦士の咆哮(バトルクライ)》だった。




 第五章 剣は死を払いきれず 了

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