第五章
俺たちは急いで荷馬へと駆け寄った。馬はすでに異変を察知しているらしく、落ち着かない様子で蹄を踏み鳴らしている。俺は手綱を解き、邪魔な荷物はすべて取り外した。
少しでも身軽になることが、生存への近道であることは間違いない。
「頼むぞ!」
首筋を軽く叩く。馬は一度だけ鼻を鳴らした。俺は鞍へ足を掛け、そのまま一気に跨がる。
「マシュー!乗れ!手!」
「えっ、あっ、はい!」
差し出された手を掴み、引き上げる。
「わわっ!?」
マシューの身体がふわりと浮き、その勢いを保ったまま俺の前へ勢いよく座らせた。
「いっったぁい!ちょっと!もっと優しく乗せてよ!お尻痛いよ!」
「減らねぇから大丈夫だ!行くぞ」
「へ、減るよ!減るもん!」
「ははは!余裕じゃねぇか相棒!」
抗議の声を聞き流し、手綱を握り直す。背後では死鎌がゆっくりとこちらへ向き直っていた。紫黒色の靄が、黒衣の裾から溢れ出している。俺は馬の腹へ踵を当てた。
「走れっ!」
馬が地面を蹴った。
冷たい風が、頬を打った。木々が凄まじい速度で後方へ流れていく。馬は驚くほど力強く、そして正確に森の中を駆け抜けていた。
「速い速い!お前やっぱりただの馬じゃなかったんだなぁ!」
「ト、トーマ!」
前に座るマシューが俺の背後を覗き込むように確認しながら叫ぶ。
「後ろ!後ろから来てる!来てるよぉ!」
「わかってる!」
俺は肩越しに振り返った。暗い木々の間を、奴が滑るように追いかけてくる。
巨大な鎌を片手に、地面を踏むことすらなく移動している。その速度は、疾走する馬とほとんど変わらなかった。
「……しつこい奴だな!」
思わず悪態をつく。すると、前に座るマシューが小さく笑った。
「……ふふっ」
「何がおかしい!」
「いや、だって」
マシューは必死に鞍を掴みながら、こちらを見上げた。
「キミってば、こんなときでも口が悪いんだもん!」
「お前も余裕だな!」
「余裕なんてないよぉ!」
そう叫ぶと、マシューはぎゅっと身体を縮こまらせた。
「もうっ!こんなことになるなんて聞いてない!」
その声は半ば悲鳴に近かった。
だが、泣き出すことはなかった。マシューは震える指先で魔導具を握り直し、前方へ視線を向ける。
「トーマ!左!」
「何だ!?」
「前に魔物!来る!来る!来る!」
その言葉とほぼ同時だった。左手の茂みが激しく揺れた。飛び出してきたのは、狼に似た魔物だった。。
背には骨のような突起が並び、口元からは長い牙が覗いている。さらに、その背後から二頭、三頭と同じ魔物が現れた。
「……っ!」
俺は手綱を引いた。馬が鋭く方向を変える。直後、先頭の魔物が飛びかかってきた。俺は素早く剣を抜き振るう。
銀色の軌跡を描き、夜の闇を切り裂いた。飛びかかってきた魔物の首筋を刃が正確に捉える。
短い悲鳴と共に魔物が地面へ転がった。
だが、次の一頭が迫る。俺は剣を返し、魔物をはじき返す。
馬は速度を落とさない。むしろ、さらに力強く地面を蹴った。
「す、すごい……」
マシューが小さく呟いた。
「トーマ、キミ……」
「どうした!」
「……いや、なんでもない!」
そう言って、マシューは前方へ向き直った。
しかし、その表情には明らかな驚愕が浮かんでいた。当然だった。馬に乗った状態で、しかも前に一人を乗せながら魔物を斬り伏せる。
並の兵士ならば、馬の制御だけで精一杯だろう。
だが、俺はそれを当たり前のようにこなしていた。
……いや。当たり前ではない。俺自身、どうしてこんなことができるのかわからないのだ。
ただ、身体が動いた、剣が振れた、馬が応えた。それだけだった。
頭で考える理想的な動きを、俺の身体は正確に体現した。
やがて、周囲の森から次々と物音が聞こえ始めた。獣の唸り声。木々を薙ぎ倒す音。
そして。
「助けてくれえええっ!」
再び、悲鳴が響いた。右手の木立の向こう。そこでは数人の生徒が、複数の魔物に追い立てられていた。別の方向からも、戦闘の音が聞こえてくる。
剣戟。詠唱。爆発音。怒号。
森全体が、戦場と化していた。
「……なんで、こんなに魔物がいるんだ!?」
俺は叫んだ。すると、マシューが前方を見据えたまま答える。
「たぶん、死鎌のせいだよ!」
「……あいつの!?」
「うん! 原典魔種の魔力を感じ取って、周囲の魔物が逃げ出してるんだと思う!」
強大な捕食者が現れれば、弱い生物はそこから逃げようとする。それは自然界でも当然の反応だ。
逃走する方向に敵がいれば、当然衝突が起こる。そして、混乱した魔物たちは周囲の生徒を無差別に襲い始める。つまり。
鎌死そのものだけでなく、その存在によって引き起こされた魔物の大移動が、森林全域へ被害を広げているのだ。
「……最悪だな!」
「ほんとだよっ!」
マシューが叫ぶ。
「もうっ! 帰ったら絶対に学園へ文句言ってやるんだから!」
「…帰れたらな!」
「帰るの!」
マシューが勢いよく振り返った。
「絶対に帰るんだからね!」
その瞳は、真剣だった。俺は一瞬だけ言葉を失った。
そして。
「……悪い悪い、弱気になったな」
力強く頷いた。
「生きて帰るぞ!」
「うんっ!」
馬が、さらに速度を上げた。




