第五章
背後では、小さな声が詠唱を紡いでいる。
「――流転する水精よ、巡りゆく命脈よ」
ほんの微かにマシューの声が届いた。普段の明るい調子とは違う。一音一音を正確に刻む、澄んだ声。
「――大気に眠る蒼き理を解き、我が言の葉に従いて集え」
周囲の空気の変化を感じた。肌に触れる空気が急激に湿り気を帯びていく感じがした。焚き火の向こうで、淡い青色の光が揺らめいた。俺はそれを視界の端でとらえつつも、死鎌に向かってただ剣を振るい続ける。
「――奔れ、満ちよ、すべてを呑み込む激流となれ」
急に死鎌が動いた。俺への攻撃を中断し、マシューへ向かって加速した。
「あぶねぇだろ!」
無意識に足が動いていた。俺はその進路へ割り込み、大鎌に思い切り剣を叩きつけた。切るのではなく叩く、先ほどよりもより一層激しい衝撃が俺の五指を襲った。
だが、退かない。
「俺を見ろよ!化け物!」
大鎌を弾いた。
その瞬間、背後から、マシューの声が響き渡った。
「――疾く走れ!眼前の敵を押し流して!《激しき奔流》!!」
轟音。
次の瞬間、視界が青く染まった。
それはもはや水というよりもひとつの巨大な質量だった。マシューの前方に展開された青い魔法陣、その中心から膨大な水が一気に噴出したのだ。轟々と唸りを上げる激流が、森の地面を抉りながら一直線に駆け抜ける。
「こんなの出るって聞いてないって!」
俺は咄嗟に身体を横へ投げ出した。直後濁流が、死鎌を真正面から呑み込んだ。
地面が震え。木々の幹が軋み、無数の枝葉が吹き飛ぶ。巨大な水の奔流は黒い影を押し流し、そのまま森の奥へと突き進んでいった。
やがて魔法は終息し、周囲には雨上がりのような水の匂いが満ちていた。地面は降雨後の泥沼のようになり、ところどころに大きな水溜まりができている。
「やばぁ……」
俺は思わず息をのんだ。これが中級魔法、これで中級魔法なのか。
先刻見せてくれた《灯火》とは、比較にならない規模だった。
「……や、やったかな?やったよね?飛んでっちゃったよね?」
マシューが小さく呟く。魔導具を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
額には大粒の汗が浮かび、肩が小さく上下している。
「……マシュー」
「えへへ……どうかな、トーマ…僕だって……やるときは、やるんだから……」
そう言って、ふらりと身体を揺らした。俺は慌てて駆け寄ろうとした。
だが。
「……っ!?」
足が止まった。
森の奥にそれが見えた。水流が消えたその場所に。
あの特徴的な紫黒色の魔力残滓が、再び集まり始めている。
いや、違う。
増えている。
先ほどまで薄い靄のようだったそれが、今や濃密な渦を形成していた。
その中心に。黒い影が立っていた。
「……おいおい嘘だろ」
死鎌だった。何事もなかったかのように、そこに存在している。しかも先ほどよりも、その身体が大きくなっているように感じたのは、決して勘違いではないだろう。
黒い外套は幾重にも重なり、長い腕はさらに伸びている。手にした大鎌も、一回り大きく見えた。周囲を漂う魔力残滓が、その身体へ次々と吸い込まれていく。
「……マシュー!駄目だ! 効いてない!」
俺は叫んだ。
「……え?」
マシューが顔を上げる。そして、森の奥に立つ黒い影を見た瞬間。
「……そんなぁどうして?」
震える指先で魔導具を握り直す。
「ちゃんと……術式も、構築したのに……」
マシューは信じられないものを見るように、死鎌を見つめていた。
「闇に対する水の相性は決して悪くないはずなのに…」
……最悪だ。
「マシュー! あいつ、魔法の残滓を吸収してるんじゃないのか!なんか一回りでかくなってる気がするぞ!」
「……っ!」
マシューが目を見開いた。
「まさか……魔力還元?」
「……わからない! でも、さっきより明らかにでかいだろあれは!」
黒い影が、ゆっくりと鎌を持ち上げた。その動きに合わせ、周囲の魔力残滓が激しく渦巻く。先ほどまでとは、明らかに違う。まずい。
俺は剣を構え直した。
しかし。
――勝てない。
不意に、そんな確信が胸の奥へ落ちた。臆したわけでも、諦めでもない。もっと冷静な判断だった。俺には、この魔物を倒す手段がない。そう感じた。
どれほど剣を振るっても、傷らしい傷を与えられない。マシューの中級魔法ですら、相手を強化する結果に終わった。ならば。ここで戦い続けることに、何の意味がある?
「こりゃダメだ…マシュー」
「なに?」
「逃げるぞ」
「……え?」
「このままじゃどんどん追い詰められて、最後にはあいつに負ける。体力があるうちに退却しよう」
「で、でも……どこへ?」
その問いに、俺は一瞬だけ言葉を詰まらせた。確かに、森の中を闇雲に逃げ回っても意味がない。死鎌は疲れを知らず、暗闇の中を自在に移動する。いずれ追いつかれるだろう。
ならば、向かうべき場所は――。
「……中央だ、貴族の連中が集まってるところだ。散開している奴らと合流するより、本隊みたいなやつらと合流したほうが生き残れそうだ」
俺の話を聞いているうちにマシューの表情が変わった。
「……あっ!そうだ!セレスティア様!」
「……誰?友達?」
「そんなわけないでしょ!神聖国のセレスティア・ルーメンハルト様だよ!」
マシューは勢いよく俺の袖を掴んだ。
「今回の合宿に参加してる貴族の中に、神聖国の聖女様がいるんだ!」
「……聖女?」
「そう!神聖国でも特に強い光の加護を持つ方でね。慈悲深くて、身分に関係なく人を助けることで有名なんだよ!」
マシューの声に、僅かな希望が戻る。
「もし中央にセレスティア様がいるなら、きっと守護結界を張ってるはず!死鎌は闇属性の魔物でしょ? だったら、神聖国の光魔法は相性がいいはずなんだ!」
なるほど。理屈は通っている。少なくとも、この場で無意味な消耗戦を続けるよりは遥かに望みがあった。
「……決まりだな」
俺は頷いた。
「行くぞ、マシュー!」
「う、うん!」




