第四章
やるべきことは定まった。俺は荷馬の方へ向かった。馬はすでに異変を察知しているのか、落ち着かない様子で耳を動かしていた。
時折、低く鼻を鳴らし、森の奥を警戒している。
「……大丈夫だ」
俺は馬の首を軽く叩いた。
「お前も、少しだけ我慢してくれよ」
そう言って、積み荷の一部を解いた。中には、食料や水袋、野営用の道具が収められている。そして、その下に。
「……あった」
一本の剣があった。簡素な革の鞘に収められた、何の変哲もない鉄の剣。装飾らしい装飾はなく、柄には滑り止めの革が巻かれているだけだった。貴族の生徒たちが持つような、豪華な武器ではない。ただの鉄剣。
だが、今の俺には、それで十分だった。
……いや。本当に十分なのだろうか。俺は鞘から剣を引き抜いた。しゃりん、と乾いた金属音が響く。
焚き火の光を受け、鈍い銀色の刃が姿を現した。思っていたよりも、ずっしりと重い。
しかし――。
「…………」
妙だった。剣を握った瞬間。身体の奥で、何かが静かに目を覚ましたような気がした。
少なくとも、俺には剣術を習った記憶などない。それなのに。身体が、勝手に理解している。どう握れば振りやすいのか。
どう構えれば、相手の動きに対応できるのか。頭で考えるよりも先に、身体が答えを出していた。
「なんだこれ?」
思わず呟いた。
だが、その疑問に答えてくれる者はいない。
「トーマ!」
背後から、マシューの声がした。振り返ると、彼は俺の握る剣を見つめていた。
「キミの剣技、期待しているからね!」
「さあな」
「さあなって」
マシューは困ったように眉を下げた。
「もう。こんなときにまで、変なこと言わないでよ」
「悪い悪い」
「……ほんとだよ」
小さく溜息をつく。
だが、マシューはそれ以上何も言わなかった。ただ、俺の手元へ視線を向ける。
「でも、なんだか様になってるね」
ぽつりと呟く。その声には、僅かな驚きが混じっていた。
「……そうか?」
「うん、なんだか、ずっと前から剣を握ってたみたい」
その言葉に、胸の奥がざわついた。ずっと前から。
……そうなのだろうか。俺はもう一度、剣を見下ろした。冷たい鉄の感触。手のひらへ伝わる重み。
そして、奇妙なほど自然な握り心地。
わからない。
だが、今は考えている場合ではなかった。
「マシュー」
「ん?」
「準備はいいか?」
マシューは一瞬だけ目を丸くした。それから、ふっと笑った。
「うん」
手にした魔導杖を、ぎゅっと握りしめる。
「いつでもいいよ」
俺は剣を構えた。焚き火と相棒を背に、森の奥へ向き直る。炎の光が、剣の刃に揺らめいた。その向こうには、深い闇が広がっている。
そして、あの黒い影は、まだそこにいた。
いや、違う。
「…………」
俺は目を細めた。先ほどよりも、近い。明らかに、近づいている。
だが、足音は聞こえなかった。木の枝を踏む音も、落ち葉を掻き分ける音もない。まるで、地面を滑るように移動しているかのようだった。魔力残滓が、ゆらゆらと揺れる。
紫黒色の靄が、黒い外套の周囲を取り巻いている。そして、ゆっくりと。その影が、顔を上げた。
「…………っ」
そこには、顔がなかった。正確には、顔があるべき場所に、何もなかった。黒いフードの奥。そこにはただ、底の見えない暗闇が広がっているだけだった。
しかし、見られている。確かに、こちらを見ている。そんな感覚があった。
冷たい視線が、皮膚の上を這う。心臓が、どくりと跳ねた。俺は剣の柄を握り直した。背後で、焚き火がぱちりと音を立てる。
「トーマ」
「ああ」
「来るよ」
その瞬間、黒い影が、消えた。
「――っ!?」
いや、消えたのではない。動いたのだ。あまりにも速く。
あまりにも静かに。次の瞬間には、森の奥にいたはずの死鎌が、焚き火の光の届くぎりぎりの場所にいた。巨大な鎌が、ゆっくりと持ち上がる。黒い刃が、夜の闇へ溶け込んでいく。
その先端が向いているのは――。俺ではない。背後の焚き火だった。
「トーマ! 火を守って!」
マシューの叫びが響く。俺は反射的に地面を蹴った。考えるよりも先に、身体が動いていた。踏み込み。
重心の移動。剣を振り上げる角度。すべてが、驚くほど自然だった。
そして――。
ぎぃんっ!!
甲高い金属音が、夜の森に響き渡った。巨大な黒い鎌と、俺の鉄剣が激しくぶつかり合う。衝撃が腕を駆け抜けた。力の入ったつま先が地面にめり込み、足元の土が僅かに抉れる。
「……ぐっ!」
重い。とてつもなく、重い。
だが、受け止めた。俺は確かに、死鎌の一撃を受け止めていた。黒いフードの奥から、底知れぬ闇がこちらを覗き込んでいる。
魔力残滓が、激しく渦巻いていた。その向こうで、何かが蠢いている。そして、不意に。頭の奥で、聞き覚えのない声が響いたような気がした。
――まだ、思い出さないのか。
「…………っ!?」
誰だ。今のは、誰の声だ。
だが、その問いに答える暇などなかった。死鎌が、再び動き始める。俺は歯を食いしばり、剣を握り直した。背後では、焚き火が確かに燃えている。
そして、その傍にはマシューがいる。ならば。ここを退くわけにはいかない。俺は目の前の死鎌を睨みつけた。
剣を構え直す。呼吸を整える。そして、静かに呟いた。
「……来いよ」
焚き火が、激しく燃え上がった。
夜は、まだ終わらない。
第四章 死鎌 了




