第四章
「マシュー……」
「なに?」
「……あそこに、何かいる」
「……何か?」
「人の形をした、黒い影だ」
マシューの肩が、ぴくりと動いた。
「それで?」
「大きな鎌を持ってる」
その瞬間、マシューの顔から、血の気が引いた。
「…………嘘」
唇から、掠れた声が漏れる。
「そんな……」
マシューは震える指先を自分の胸元へ当てた。そして、素早く小さな円を描く。
「――《探魔》」
短い詠唱とともに、指先に淡い青色の光が灯った。光は小さな輪となって広がり、マシューの周囲を一度だけ巡る。
やがて、その輪が森の奥へ向かって薄く伸びていった。マシューは目を閉じる。何かを探っているらしい。俺はその間も、暗闇の向こうに立つ影から目を離さなかった。
影は動かない。ただ、そこに立っている。なのに。その周囲では、魔力残滓が激しく渦巻き始めていた。
まるで、あの影を中心に、大気中のマナが吸い寄せられているかのようだった。
「……っ!」
マシューが息を呑んだ。青い光が消える。目を開いたマシューは、信じられないものを見るように森の奥を見つめていた。
「……死鎌」
「なんだって?」
「死鎌……だ……なんでこんなところに」
その名前を口にする声は、僅かに震えていた。俺は再び、黒い影を見る。死鎌。その名を聞いた瞬間、頭の中に何かが浮かび上がってきた。
闇属性の召喚魔法によって現れる、幽霊型の魔物。人間に似た姿と巨大な鎌を持ち、周囲の光を消しながら行動する。通常、自然界には存在しない。
……そうだ。そういう魔物だったはずだ。
「召喚魔法の魔物、だよな?」
俺が問いかけると、マシューは頷いた。
「……うん」
「じゃあ、誰かが召喚したのか?」
「それなら、まだよかったんだけどね」
マシューの声が沈んだ。
「普通、召喚された魔物には術者と繋がる魔力の経路があるんだ。それを辿れば、召喚術式の痕跡だって確認できる」
マシューは唇を噛んだ。
「でも、今の探魔では、そんなものは何ひとつ見つからなかった」
「どういうことだ?」
「あれは、誰かが呼び出したものじゃないってこと」
マシューは俺を見た。その瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
「大気中のマナが、あれ自身に集まってる。魔力を外から供給されてるんじゃなくて、あれそのものが魔力を取り込んでるんだよ」
「……それって」
嫌な予感がした。マシューは、小さく頷いた。
「……原典魔種」
その一言が、冷たい夜気の中へ落ちた。
「……原典魔種だよ」
俺は息を呑んだ。原典魔種。魔力のみを起源として発生した、最初の魔物。自然発生すること自体が極めて稀な存在。
それが、今。目の前にいる。
「嘘だろ」
「……僕だって、そう思いたいよ」
マシューは困ったように笑った。
だが、その笑顔は引きつっていた。
「普通なら、こんな場所で原典魔種に遭遇するなんてありえない。ましてや、死鎌の原典魔種なんて……」
そこまで言って、言葉を切る。マシューは一度、大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出す。
「トーマ」
「ああ」
「よく聞いて」
先ほどまでの震えが、声から消えていた。マシューはまっすぐ俺を見つめている。
「今から言うことを、絶対に守って」
俺は無言で頷いた。
「まず、焚き火を絶対に消さないで」
マシューは背後の炎へ視線を向けた。
「死鎌は闇魔法の産物なんだ。特に強い光を嫌う性質がある」
説明しながら、マシューは背嚢へ手を伸ばす。
「だから、今はこの焚き火が僕たちの命綱になる」
「なるほど」
「ただし、火を囲んで座ってれば安全、ってわけじゃないよ」
マシューは首を横に振った。
「死鎌は光を嫌うけど、嫌いというだけで全く光に近寄れないわけではないんだ」
俺は森の奥へ視線を向けた。次々と消えていった焚き火。そして、その先に現れた黒い影。
……そういうことか。
「あいつが、焚き火を消して回ってるのか?」
「たぶんね」
マシューは頷いた。
「火が消えれば、周囲は闇に包まれる。そうなったら、あいつにとっては絶好の狩り場になるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、先ほどの悲鳴が頭をよぎった。助けを求める声。突然途切れた絶叫。
……つまり。あの光が消えた場所では。
「トーマ」
マシューの声が、俺の思考を遮った。
「今は、他のことを考えないで僕たちが生き残ることだけを考えて」
「わかった」
「うん」
マシューは小さく頷いた。そして、ほんの笑う。
「……いい子」
「お前な」
「ふふっ。こういうときくらい、素直に褒められてよ」
いつもの調子に戻ろうとしているのだろう。
だが、その笑顔にはどこか無理があった。俺は何も言わずに頷いた。
「……それで、俺は何をすればいい?」
マシューは少し考えるように視線を落とした。それから、俺の顔を見上げる。
「トーマは、僕と焚き火を守って」
「……焚き火を?」
「うん。僕が魔法で攻撃するから、キミはあいつを僕と焚き火に近づけないようにしてほしい」
マシューは一度、言葉を切った。
「特に、薪を散らされたり、火を消されたりしないように」
「……わかった」
「それと、絶対に無理してあいつを倒そうとしないで」
その声が、少しだけ強くなった。
「いい? 僕たちの目的は、あいつを倒すことじゃない。結果的に倒せたとしても、それは結果論。目的は生き残ることだからね」
「ああ」
俺が頷くと、マシューはようやく少しだけ安心したように息を吐いた。
「……よし」
そう呟き、背嚢から小さな魔導具を取り出す。細い金属の棒。先端には、小さな魔鉱石が取り付けられていた。マシューはそれを握りしめ、静かに目を閉じる。
「あいつが死鎌なら魔法攻撃が有効のはず、僕が威力のあるやつをぶつける」
やがて、ゆっくりと目を開いた。
「だから、トーマ」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
「僕のこと、守ってね」
俺は一瞬、言葉に詰まった。普段なら、もっと軽い調子で言うのだろう。冗談めかして笑いながら、からかうように。
だが、今のマシューは違った、真剣だった。本当に俺を頼りにしている。
そんな表情だった。
「任せろ」
すると、マシューは小さく笑った。
「うん。頼りにしてるよ、相棒」
その言葉が、不思議と胸に残った。相棒。そうだ。俺たちは、相棒なのだ。




