第四章 死鎌
夜の森から営みが消えてゆく
消えたのは火か、それとも誰かが待ち望んだ明日なのか
闇は静かに命を呑み込み
忘れられた過去は、眠りの底で目を覚ます
剣の冴えに覚えはないが
剣を握る理由はわかる
ひとつだけ
この背中を見つめる小さな灯火を
どうしても消したくはなかった
そう思った
ひとつ、また、ひとつ。森の奥に灯っていた誰かの焚き火が、次々と消えていく。それは、まるで夜空に散らばる星々を、何者かが指先で摘まみ取っているかのようだった。焚き火が消えるたび、森を覆う闇は少しずつ深くなっていく。
先ほど聞こえた悲鳴は、もう聞こえない。代わりに広がっているのは、耳鳴りがしそうなほどの静寂だった。
「トーマ……」
隣で、マシューが小さく俺の名前を呼んだ。その声には、普段のような陽気さも、からかうような響きもなかった。マシューは毛布から抜け出すと、素早くフードを被り直した。そして、眼前に広がる暗闇へと視線を向ける。
「……あれ、何だと思う?」
「わからない、向こうに灯っていた焚き火が突然消えた、1つじゃない、複数消えた」
俺は正直に答えた。
「ただ、普通じゃないことだけは確かだ」
「うん。僕もそう思う」
マシューは静かに頷いた。その表情は険しい。何かを探るように、じっと森の奥を見つめている。俺もそれに倣い、目を凝らした。木々の隙間には、深い闇が横たわっている。
月明かりは枝葉に遮られ、地表まではほとんど届いていない。焚き火の光が照らす範囲から一歩でも外れれば、そこには何が潜んでいるのかさえわからない。
だが――。
「ん?」
何かが見えた。いや、正確には、何かが揺れていた。森の奥。ちょうど、二つ目の焚き火が消えたあたりだろうか。
暗闇の中に、薄い靄のようなものが漂っている。それは煙にも似ていた。だが、煙にしては動きがおかしい。風もないのにゆらゆらと揺れ、細い糸のように伸びたかと思えば、再び一点へと集まっていく。色は、あるようでない。
透き通った紫にも、濁った黒にも見える。目を凝らせば凝らすほど、その輪郭は不確かになった。まるで、空間そのものが歪んでいるかのようだった。
「なんだ、あれ」
思わず呟く。すると、不意に頭の奥で何かが繋がった。ああ、そうか。あれは――。魔力残滓。
魔法が行使された際、大気中へ放出されるマナの痕跡だ。魔導士が術式を発動させると、集められたマナのすべてが目的の現象へ変換されるわけではない。術式の構築過程で漏出した魔力や、現象の発生後に残留した魔力は、しばらくの間、その場所に留まる。それが、魔力残滓と呼ばれるものだった。通常、人間の肉眼で観測することはできない。
たとえ熟練した魔導士であってもだ、観測には専用の魔導具が必要である。確か、名前は――。魔力観測鏡。
特殊な魔鉱石を加工して作られたレンズを通すことで、周囲に残留する魔力を可視化する装置。主に魔法の研究や、術式の痕跡を調査する際に使用されるものだったはずだ。
そうだ。間違いない。あれは魔力残滓だ。
しかし。
「…………」
俺はゆっくりと瞬きをした。見える。明らかに見えている。魔導具など、何ひとつ身につけていない。
それどころか、俺は魔導士ですらないはずだ。なのにどうして、どうして俺には、あれが見える?
「……トーマ?」
マシューが怪訝そうにこちらを見た。
「どうしたの? 何か見えた?」
「……ああ」
「え?」
「あそこだ。木が三本並んでる、その奥」
俺は森の一角を指差した。
「何か、紫色の煙みたいなものが漂ってる」
「……煙?」
マシューが眉を寄せる。そして、俺の示した方角へ目を凝らした。
「……何も見えないけど」
「いや、いるんだ。ほら、今も揺れてる」
マシューは一度こちらを振り返った。
「わかんない、トーマには何が見えているの?」
「魔力残滓だ」
その瞬間。マシューの表情が、凍りついた。
「え?」
小さな声だった。先ほどまで暗闇を警戒していた瞳が、今はまっすぐ俺を見つめている。
「……今、なんて言った?」
「魔力残滓だよ。あそこに漂ってる」
マシューは、ゆっくりと首を横に振った。
「何を言ってるの?見えるはずがないよ」
「え?」
「仮に魔力残滓だとしても、それは 魔力観測鏡を使わないと見えないんだよ?」
その声には、明らかな困惑が混じっていた。
「魔力観測鏡を使っても、あんな遠くの魔力残滓を観測するのは難しいよ」
「でも、見えるんだ」
「…………」
マシューは口を開きかけた。だが、結局何も言わなかった。代わりに、俺の指差す方向へもう一度視線を向ける。
「わかった」
やがて、小さく頷いた。
「理由はあとで考えよう。今は、それどころじゃない。キミを信じる」
その判断の早さに、俺は少し驚いた。マシューはすでに、状況を確認するための姿勢へと切り替えていた。
「ねえ、トーマ。その残滓、どんなふうに動いてる?」
「どんなふう?」
「そう。風に流されてる? それとも、どこかへ集まってる?」
俺は再び森の奥を見つめた。紫黒色の靄は、相変わらずゆらゆらと揺れている。だが、先ほどとは少し様子が違っていた。散らばっていた細い糸が、ゆっくりと一か所へ集まり始めている。
「……集まってるな」
「どこに?」
「何かの周りだと思う」
「何かって?」
「ちょっと待ってくれ」
俺は目を細めた。暗闇の向こう。靄の中心に、何かがある。いや。何かが、いる。
「…………」
背筋を冷たいものが走った。それは、最初からそこに立っていたのだろうか。それとも、今この瞬間に姿を現したのだろうか。わからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。あれは、人間ではない。木々の間に、異様に背の高い影が立っていた。人の形に似ている。
だが、その四肢はあまりにも細く、長い。肩から垂れ下がる腕は膝よりも下まで伸び、骨ばった指先は地面に触れそうなほどだった。全身を覆っているのは、ぼろぼろに裂けた黒い外套。
しかし、それは布なのだろうか。風もないのに裾が揺れ、ところどころが煙のように崩れては、また元の形へ戻っていく。そして、その影の右手には。
「……鎌?」
巨大な鎌が握られていた。人間の背丈を優に超える長大な柄。その先端には、三日月を思わせる湾曲した刃が取り付けられている。黒く、鈍い光を放つ刃。月明かりを反射することもなく、ただ周囲の光を吸い込んでいるかのようだった。
死神。その姿を表現するなら、それ以外の言葉は思いつかなかった。




