信用の仕事
ラヘルが眠ったあと、タチバナたちはもう一度、銀月へ戻った。
全員ではない。
アジトにはユウを残している。
ユイとラヘルの近くに、誰か一人は置く必要があった。
レンジは運転役として同行し、サエは端末類をまとめて持ってきていた。
銀月の奥の個室は、先ほどと同じように静かだった。
客席の音は遠い。
壁の向こうで、グラスの触れる音が一度だけ鳴る。
それ以外は、低い空調の音だけが残っていた。
マスターはすでに待っていた。
テーブルの上には、端末が一つ。
紙ではない。
銀月の仕事は、基本的に記録が残りすぎる形では出されない。
それでも、相手がタチバナである以上、必要な情報だけは整理されていた。
「お手数をおかけします」
マスターが静かに頭を下げる。
タチバナは椅子に座った。
「ラヘルの件は、今すぐ命を狙われる状況なのか」
最初にそこを聞いた。
マスターは首を横に振る。
「今夜、扉を蹴破って追手が来るような状況ではありません」
「断言できるのか」
「完全には。ただ、彼女の所在はまだ広がっていません。銀月に来た経路も、かなり絞ってあります」
サエが端末をテーブルに置く。
「見た人間は?」
「最小限です。連れてきた者、私、奥の従業員が二名」
「表は通してない」
「はい」
「なら今すぐ火がつく段階ではないわね」
サエはそう言いながらも、表情を緩めなかった。
「でも、名前が出たら別」
「ええ」
マスターは頷く。
「ラヘル様は、今すぐ殺される標的というより、放置すれば価値と危険が増す火種です」
タチバナはその言葉を聞いて、わずかに目を細めた。
「家は」
「ライナルト家は、すでに機能しておりません」
マスターは言った。
「ただ、古い血筋です。消えた家名ではない。潰された家であっても、名そのものに価値が残る場合があります」
「再興の旗印」
サエが呟く。
「はい。あるいは、再興を望まない者にとっての火種です」
「面倒だな」
タチバナが低く言った。
「はい」
マスターは否定しなかった。
「ですから、銀月では長く抱えられません。店としての信用はありますが、店は店です。人を隠し続ける場所ではない」
「うちなら隠せると?」
「少なくとも、今日ここに連れてこられるファミリーは、他にありませんでした」
その言い方に、少しだけ重みがあった。
頼みというより、選択肢がないという報告に近い。
レンジが椅子の背に身体を預ける。
「つまり、拾った時点でだいぶ詰んでたわけですね」
「そうとも言えます」
「言い方」
サエが軽く睨む。
レンジは肩をすくめた。
「事実でしょ。上の金髪お嬢様なんて、ロスパラに投げたら終わりですし」
「ロストパラダイスには回しません」
マスターの声は静かだった。
だが、その静けさの底に、はっきりした線があった。
レンジも、それ以上は茶化さなかった。
タチバナはマスターを見る。
「条件を聞こう」
「はい」
マスターは端末を操作し、画面をこちらへ向けた。
「三花街の護衛駐屯を一つ、回せます」
レンジの顔から、少しだけ軽さが抜けた。
「……三花街っすか」
タチバナが横目で見る。
「知ってるのか」
「客としてなら、一華街の方がメインっす。あっちは中層の街で、客も中層から上が多い。店も綺麗に整ってるし、遊び場としての顔が強い」
そこでレンジは、一度言葉を切った。
「三花街も北側なら使ったことはあります。あっちはまだ店として整ってる。でも、三花街全体は別っすね。下層の花街です」
「治安は」
「下層一般と比べりゃ、めちゃくちゃ良いです」
レンジは即答した。
「店が商売してる場所ですからね。好き勝手荒らす奴は、店にも用心棒にも潰される。中に入る客は銃も封印されますし」
サエがマスターを見る。
「銃封印は今も同じ?」
「はい。客が持ち込む銃器には封印タグが付きます。破れば二度と三花街には入れません」
「厳しいわね」
「商売の街ですから」
マスターは淡々と言った。
「女たちも、客も、店も、勝手に荒らされては困ります。三花街は無法地帯ではありません。だからこそ、駐屯任務が成立します」
タチバナが端末の表示を見る。
「内部警邏か」
「内部警邏は、主に威圧と抑止です」
マスターは説明を続ける。
「ロストが歩いている。店側が見ている。揉めればすぐ止められる。そう分からせるためのものです」
「本命は外か」
タチバナが言う。
「はい」
マスターは頷いた。
「三花街は、一華街のように企業兵が詰めているわけではありません。ですが、外周防衛設備はあります。壁、監視線、警報、備え付けの重機関銃座」
レンジが少し眉を上げる。
「花街に重機関銃」
「金になるものが詰まっている場所です」
マスターは表情を変えずに言った。
「女、客、酒、薬、金、情報。盗賊団や敵性体から見れば、狙う理由は十分にあります」
「ゴブリンやオーガも来るのか」
タチバナが聞く。
「ええ。頻繁ではありませんが、外縁に寄ることはあります。特に物資搬入口や壁外の死角を探られることがある」
サエが端末へ目を落とした。
「つまり、内部は見せ札。外部が本業」
「そうです」
マスターは答える。
「内部の秩序を維持しつつ、外から来るものを早めに拾う。外周壁上の監視と、監視サーバーの管理が重要になります」
サエの指が止まった。
「サーバー?」
「はい」
マスターは、そこだけ少し慎重に言った。
「今回、サエさんには三花街側のサーバー管理に入っていただく必要があります」
サエの眉が動く。
「現地に詰めろってことね」
「はい」
「一人で?」
「花街側が中まで触らせる外部の人間は、限られます」
「でしょうね」
サエは小さく息を吐いた。
「監視カメラ、出入口ログ、銃封印システム、外周センサー、店裏通路の記録。その辺り全部?」
「範囲は一部に絞られます。ですが、基本的にはその認識で間違いありません」
「寝不足確定じゃない」
レンジが小さく笑いかけたが、サエの目を見てやめた。
マスターは続ける。
「もちろん、無償でお願いするつもりはありません」
タチバナが見る。
「報酬は」
マスターは金額を告げた。
レンジが軽く目を見開く。
「一週間でそれっすか」
サエも少しだけ黙った。
「下層なら、三ヶ月は暮らせるわね」
「危険度の割に高いな」
タチバナが言う。
「危険そのものより、信用料です」
マスターは言った。
「三花街は商売の街です。余計なことを見ても、余計なことを言わない。必要な時だけ動き、店の線引きを守る。そういう相手でなければ置けません」
「口止め料込みか」
「保護費込みです」
マスターはタチバナから視線を逸らさなかった。
「ラヘル様を預かっていただく負担も含めて、この仕事を優先して回します」
タチバナはしばらく黙った。
サエが先に口を開く。
「私が現地に詰めるなら、ユイとラヘルをアジトに置いていけないわ」
「承知しています」
「サーバー室に二人は入れられないでしょう」
「はい。サーバー室へ入れるのはサエさんのみです」
「控室は?」
「用意できます。表には出しません」
タチバナが低く言う。
「二人分の報酬は」
「出ません」
マスターは即答した。
「当然でしょうね」
サエが小さく息を吐く。
「仕事をするわけじゃないもの」
「控室の使用は認められます。食事も最低限は出せます。ですが、報酬対象にはなりません。花街側から見れば、余計な荷物を持ち込む形です」
タチバナは腕を組む。
「その荷物を置いていけないから、この条件になる」
「はい」
マスターは静かに頷いた。
レンジが少しだけ嫌そうな顔をする。
「で、配置は?」
サエが端末に指を滑らせる。
「私がサーバー。タチバナが責任者と花街側の窓口。レンジは外周壁上の監視」
「壁の上っすか」
レンジの顔がさらに微妙になる。
タチバナが言う。
「外から来る連中を見る。盗賊団、ゴブリン、オーガ。遅れて気づけば、花街の中が騒ぎになる」
「三花街の中より、そっちの方がよっぽど嫌ですね」
「お前なら車も逃走経路も見られる」
「まあ、できますけど」
レンジは頭をかいた。
「壁上監視。外周。重機関銃座の近く。嫌な役だなぁ」
「文句は報酬を見てから言え」
タチバナが返す。
「見たから言ってるんです」
レンジはそう言ったが、それ以上は逆らわなかった。
サエは続ける。
「ユウは内部警邏」
「ユイとラヘルは」
タチバナが聞く。
「ユウに付ける」
サエは迷わず答えた。
レンジが顔を上げる。
「内部に連れて歩くんすか」
「三花街の内部は治安がいい。客の銃は封印される。表通りで事件はまず起きない。控室に閉じ込め続けるより、短時間ならユウの管理下で歩かせた方が自然」
「まあ、危険はないっすよ」
レンジは渋い顔で言った。
「危険は」
サエが見返す。
「何があるの」
「面倒があります」
レンジは即答した。
「三花街で、女二人連れて歩く若いロストですよ。しかもAR持ちで、店側の警邏扱い。何人か、後ろから付いてくるかもしれません」
タチバナの目が細くなる。
「ユイとラヘルにか」
「違います。ユウにです」
レンジは少しだけ声を落とした。
「女たちが縋るんです。あの男なら、店よりマシかもしれないって」
部屋の空気がわずかに変わった。
レンジは続ける。
「三花街の女は、暴力を振るいません。店の中ですからね。ユイやラヘルに手を出すような馬鹿はいない。客も銃を封じられてる。表通りなら二人だけでも歩けるくらいです」
「なら何が問題だ」
タチバナが聞く。
「視線です」
レンジは言った。
「特にユイは、きついと思いますよ」
サエが黙る。
レンジは少し肩をすくめた。
「ロスパラでも、似た視線は向けられてました。でも、あっちに来られる女はまだ上澄みです。花街から出て、ロスパラへ行ける時点で、金か自由か店の許可がある」
「三花街の中は違う」
サエが言う。
「ええ。特に外側寄りは」
レンジは言葉を選ぶように続けた。
「ユウは下層基準だと、乱暴な男には見えません。女を殴ってない。怒鳴って従わせてもいない。連れてる二人が怯えてない。しかも武装してて、警邏に入れる信用がある」
「囲える男に見えるわけね」
サエが呟く。
「そういうことです」
レンジは頷いた。
「ユウ本人にそのつもりがなくても、周りはそう見ます。女二人連れて歩いて、その二人が武器持ってるなら余計に」
タチバナは少し黙った。
「武器は」
サエが言う。
「ユウはAR。ユイは自前のSMG。ラヘルにはユウのSMGを持たせる」
レンジが少しだけ眉を上げる。
「ラヘルに?」
「撃たせるんじゃない。持たせるだけ」
サエは淡々と言った。
「三花街の中で、客の銃は封印される。その中で武器を持って歩ける女は、客じゃない。しかもユウのSMGなら、分かる人間には分かる」
マスターが静かに頷いた。
「札になります」
「この女に手を出せば、持ち主が出てくる」
タチバナが言う。
「下層基準なら、そう見えるでしょうね」
サエは答えた。
「ユイは自前のSMGを持たせる。ラヘルはユウの武器を持たせる。ユウはARを持つ。客側から見れば、十分な威圧になる」
レンジが乾いた笑いを漏らした。
「AR持ったロストと、SMG持った女二人がウロウロしてたら、そりゃ怖いっすよ」
「だから内部警邏になる」
サエは言う。
「撃つためじゃない。見せるため」
タチバナはレンジを見る。
「お前の言う面倒は、ユウに縋る女か」
「はい」
「ユウなら切るだろう」
「切れますよ」
レンジは即答した。
「切れるから面倒なんです」
タチバナは黙る。
レンジは続けた。
「ユウは無理なものは無理って言います。冷たく聞こえるくらいに。でも、それをユイとラヘルが見ることになる」
サエが息を吐く。
「ラヘルは理解するでしょうね」
「でしょうね」
レンジは頷く。
「でもユイは複雑でしょう。全員救えるなんて思わないでしょうけど、目の前で縋られて、切られるのを見たら、平気ではいられない」
タチバナの目が少しだけ重くなる。
ユイ。
その名前が出ると、場の温度が変わる。
マスターは何も言わなかった。
タチバナはしばらく考える。
「それでも、アジトに置いていくよりはいい」
サエが言った。
「私が現地に詰める。タチバナとレンジも外側に回る。ユウだけをアジトに残すわけにもいかない。ラヘルを置けば危険。ユイだけ残すのも駄目」
「控室に閉じ込めるよりは、ユウの目の届く範囲か」
タチバナが言う。
「ええ。ただし、内部警邏は時間を区切る。外側寄りへ行くかどうかは、ユウの判断。危ないと見たら控室へ戻す」
「ラヘルには、SMGを札として持たせる」
「撃たせない」
「ユイは自前」
「ええ」
タチバナはマスターへ向き直った。
「条件を確認する」
「はい」
「サエはサーバー室に入る。触れる範囲は事前に明示。ログを改竄しろという話は受けない」
「承知しています」
「レンジは壁上監視。外周と銃座周り、警報系統との連絡線を確認する」
「はい」
「ユウは内部警邏。ユイとラヘルはユウの管理下で同行させる。ただし、表に出す範囲と時間はこちらで決める。危険と見たら下げる」
「承知しています」
「報酬は今の額。一週間。ラヘルの保護費込み。延長するなら別交渉」
「はい」
「ラヘルの情報は、銀月側でも増やすな」
マスターは頷いた。
「もちろんです」
「三花街側には?」
「必要最小限です。上層落ちの保護対象とは伝えません。タチバナさんのファミリーが同行者を二名連れてくる、という扱いに留めます」
「それで通るのか」
「タチバナさんの名であれば」
その言葉に、タチバナは少しだけ嫌そうな顔をした。
「買い被りだ」
「信用です」
マスターは静かに言った。
「この仕事は、信用の仕事ですから」
部屋に短い沈黙が落ちる。
信用。
銀月がタチバナにラヘルを預ける信用。
三花街がサエにサーバーを触らせる信用。
花街がロストを内部に歩かせる信用。
そして、ユウがユイとラヘルを連れて歩くことで生まれる、別の見え方。
すべてが、ただの報酬だけでは回らない。
タチバナは、ゆっくりと息を吐いた。
「受ける」
マスターが深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
タチバナは言った。
「面倒はこれからだ」
「承知しています」
サエは端末を閉じた。
「明日、ラヘルの端末処理と必要品の確認。その後、三花街側の事前接続確認ね」
「はい」
レンジは椅子の背にもたれ、天井を見た。
「ユウに言ったら、面倒そうな顔するだろうなぁ」
「するだろうな」
タチバナが答える。
「でも受ける」
サエが続ける。
「それが一番面倒なのよね」
レンジが苦笑した。
個室の外では、銀月の静かな音が続いている。
グラスの音。
低い会話。
遠い調理の音。
その穏やかな店の奥で、ラヘルを預かる代わりの一週間が決まった。
タチバナは立ち上がる。
「戻るぞ」
サエとレンジも席を立つ。
マスターはもう一度、静かに頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
タチバナは返事をしなかった。
ただ、個室の扉へ向かう。
銀月の外の空気は、まだ夜の匂いを残しているはずだった。
その夜の向こうに、次の仕事が待っている。




